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■『戦旗』1664号(9月5日号)6面 優生思想を粉砕し、被抑圧人民、 被差別大衆の解放を勝ち取れ! 河原 涼 ●旧優生保護法違憲判決について 七月三日最高裁は、五件の訴訟の上告審判決で旧優生保護法を違憲と指摘。不法行為から二〇年で損害賠償請求権が自動的に消滅する「除斥期間」を適用せず、国に賠償を命じる統一判断を示した。五件のうち、四件を憲法違反とし、一件を、高裁に差し戻した。 九日の報道によれば、七月四日付けで、宮城県の男性二人と大阪府の夫婦がそれぞれ国に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、国側の上告を退けた。国に賠償を命じた仙台、大阪両高裁の判決が確定した。 しかし、他に同じ七月四日付けで、北海道で提訴されていた訴訟について、最高裁判所は原告側の上告を退ける決定をした。この夫婦について、「不妊手術を受けたと認めることができない」として、訴えを退ける判決が確定した。 最高裁の決定を受けて、この裁判の原告の代理人を務める弁護士は、「弁護団としては、手術について本人の同意はなかったと考えている。また、先日の最高裁判決では、本人の同意の有無にかかわらず実質的には強制的な手術だったと判断しており、今回、手術が本人の同意のもとで行われたことを理由に訴えを退けたのは論理が矛盾していると思う」とコメントした。 七月三日の最高裁判決は、強制不妊手術を「自己の意思に反して身体への侵襲を受けない自由への重大な制約」と規定し、「差別的取り扱い」、「立法行為自体が違法」と言う文言をもって、旧優生保護法自体を断罪した。 実際、強制不妊手術をする際には、身体拘束、麻酔薬使用、欺罔(ぎもう。あざむくこと)といったあらゆる手段を用いることを許容した。「騙くらかして手術していい」とはっきりいっているのである。しかもその不当な法律が九六年に法改正された後も、全く救済措置を取らなかった。 強制不妊手術を、被害者を騙した上で、本人の自己責任にして行なったのである。七月三日の判決は、これらを違憲とし、被害者の同意の意思に関わらず救済すべきとの判断をしたばかりであった。 しかし、北海道の被告の障害者については、「不妊手術を受けたことを裏付ける客観的証拠が提出されておらず、受けたと認めることができない。人工妊娠中絶は経済的な理由で受けた可能性を否定できない」とした。 七月三日、最高裁判決を受けて日弁連は声明を発表。その中で「一九四八年に制定された旧優生保護法は、『優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する』ことを目的に掲げた法律であり、このような優生思想に基づき、一九九六年に母体保護法に改正されるまでの間、障害のある人に対して、不妊手術が約二万五〇〇〇件、人工妊娠中絶が約五万九〇〇〇件、合計約八万四〇〇〇件もの手術が実施された。これは戦後最大規模の重大な人権侵害である」と述べている。 また、強制不妊手術の被害者に対して、「現在上告受理申立てをしている二件の高等裁判所判決について、速やかに同申立てを取り下げるとともに、係属中の全ての訴訟について、原告らとの間で協議を行い、和解による早期の全面的解決を図るべきである。また、旧優生保護法国賠訴訟の原告らだけでなく、全ての被害者について被害回復を実現する必要がある」とも述べている。 不妊手術を受けても訴え自体を封印させられているケースがほとんどの現実の中で、ほんの数例の判決において判決を振り分けることを許してはならない。いまだ社会での障害者差別自体何も変わらず、固定化されたままである。強制不妊手術自体の犯罪性を徹底的に暴露していかなくてはならない。 障害者解放運動は、長い間「殺される側の論理」「親の子殺し」という呪縛の中で、自らの命の尊厳をいかに保つかという課題に向き合ってきた。 障害者の生を守るべき親が、障害者を殺す存在として立ちはだかってくるという光景がある。時にそれは、「親が障害者の子供の将来を悲観するあまり」という情状酌量が採用され、障害者(児)殺しが正当化されてきた。 それは、障害者が生きることが許されないというのが、本来あるべき姿であるから、死ぬのは必然であるけども、しかし障害者といえども生まれてしまえば「人間」だから、刑法に触れる行いをしたことになる。しかし、この場合は例外であって、刑法に触れる行為であっても、規範意識に従ったゆえに行ったのであるから情状酌量として裁かれるという論法である。 それは優生思想に裏打ちされた規範意識のもとに、社会の秩序(法)が置かれている序列が厳としてある、ということを物語っている。障害者は、社会的階級的意識として優生思想が君臨する限り、その階級意識の裁量の中でのみ生きることを許容されるという現実は変わらないのである。 旧優生保護法の第一条には、「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という条文がある。 不良な子孫の発生を未然に防ぐためのあらゆる方策は、旧優生保護法のみならず、現代社会においては、規範意識のもとで、社会秩序も含めて、前提として存在する。 出生前検診という形で命の選別が行われ、障害者が生まれることそのものが減らされてきている。優生学にさらされた現代医学は、障害者の生殺与奪の権利を一手に握っている。その規範意識に拘束された医師が避妊、中絶を行う中で、子供を産む権利、産まない権利、中絶する権利、中絶を強制されない権利などが、その規範意識に拘束されている。命の選別が行われている。 障害者の前に立つ親が直接障害者の命の生殺与奪の権利を握る存在として映し出される光景は、こうした優生思想に裏打ちされた規範意識による階級的な攻撃であるのだということを、私たちは捉えるべきである。そのことを正しい教育によって、自分の意思によるリプロダクティヴ・ヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康と権利)を勝ち取るように、全ての人に対する教育が保障されなければならない。 規範意識を根底から根絶やしにする階級闘争の発展なくして、障害者解放運動の勝利はありえない。 ●優生思想を許すな 性同一性障害特例法訴訟 今回の強制不妊訴訟最高裁判決は、旧優生保護法自体が違憲であるということを、不十分性はありつつも認めた。このことは、この法律が「不良な子孫」とされる人間が生まれることと、「不良な子孫」を産むこと両方を同時に根絶やしにする法律であったことを示している。 「不良な子孫」として烙印を押されるのは、障害者だけではない。ジェンダー規範のもとに性差別を受けるのは、全ての人々であるが、とりわけ性的マイノリティと言われる人に対する差別抑圧は、殺人をも含めて甚だしい人権侵害を伴うものであり、それが法として制度化されているのは許しがたい差別である。 七月一〇日広島高裁は、性同一性障害特例法(性同一性障害という名称自体、現在国際疾病分類が改訂されて、性別違和とされている)の要件のうち、性別「変更後の性器部分に似た外観を持つ」〔外観要件〕とする規定を、「違憲の疑いがあると言わざるをえない」として、性器の外観を変える手術をすることなく性別の変更を認める決定を下した。 これは、昨年一〇月二五日最高裁が、二つある手術要件のうち「生殖機能がない」ことの要件について「身体の侵襲を受けない権利の侵害」として違憲、無効とする一方、「外観要件」に関して高裁に差し戻していたものである。今回の高裁決定により、トランスジェンダーの人が性別変更を行う際に、手術なしでも、変更できる判例を勝ち取った意義は大きい。 しかし、この決定は、判例として、今後の同様の裁判に影響を与えることは大きいが、あくまでも、この決定は、裁判によって申し立てをした本人に限られる。 こうした決定を、広く最高裁の判例として普遍化すべきである。 群馬大准教授の高井ゆと里氏は、昨年一〇月の最高裁の判決について、新聞の取材に応じて以下のように述べた。 「生殖能力を失わせる手術を要件とすることを『違憲』としたのは、当然の判断です。戸籍の性別変更と引き換えに、国家が医療措置を通じた不妊化を一律に強いるのは、体の侵襲を受けない権利や、子どもを産み育てるかどうかに深くかかわる『性と生殖に関する健康と権利(リプロダクティブ・ヘルス・ライツ)』を侵害しています」 「もともと諸外国で性別変更に不妊化を強いてきた背景には、トランスジェンダーを「性的逸脱者」とみなしていたことや、『逸脱した存在の人は子どもを持ってはいけない』とする優生思想の歴史が密接に関係しています。そうした考えが、諸外国の法律を参考にする中で日本にも流れ込んできた。だからこれは、日本における旧優生保護法下の不妊化被害と同種の背景を持つ、まさに優生思想による『リプロダクティブ・ヘルス・ライツ』の侵害という側面を持っているのです」。 性的少数者が、日本社会で生きていくことが、日々の自己決定権を繰り返し否定され続ける中で生きざるをえない。その中で、社会生活をそれでも営んでいくときに、自らのセクシャルアイデンティティを否定され続け、自らの子孫を絶対に残してはならないことを、手術によって証明しなければ、社会生活そのものを認めないという、まさに優生思想そのものが、今現在日本社会を席巻している。優生思想を背景とした規範意識の根絶を勝ち取り、全ての被抑圧、被差別人民の解放を勝ち取ろう! |
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