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■『戦旗』1666号(10月5日号)6面 書評 「被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件」 黒川みどり著 岩波書店 狭山闘争の概要。いまから六一年前の一九六三年五月一日、埼玉県狭山市で女子高生誘拐強姦殺害事件が起こった。身代金引き渡し場所で、犯人を包囲しながら取り逃した警察権力は、篠田国家公安委員長から「生きた犯人を捕まえろ」と強く指示され、地域の被差別部落に「見込み捜査」を集中させた。 同年五月二三日、被差別部落の青年・石川一雄さん(当時二四歳)が不当な別件逮捕を受けた。長期勾留・接見禁止など酷い獄中の拷問的な取り調べと、「自白」を強要された石川一雄さん。一家の大黒柱であった兄・六蔵さんを身代わりの犯人とする騙しと恫喝、親しかった関源三巡査と他の警察官が女子高生殺害の「自白」すれば、一〇年で出してやるなどの大嘘にだまされる。このような部落差別に基づく冤罪攻撃をうけ、否認してきた石川一雄さんは、ついに権力側が作った虚偽の「自白」を容認。部落差別ゆえに、教育も受けられず読み書きもできず、脅迫状も書けない石川さんに差別的冤罪の攻撃。 一九六四年三月、一審の浦和地裁で死刑判決。同年九月、二審(東京高裁)の第一回公判で、石川さんは無実を訴える。一九七四年一〇月三一日、寺尾正二裁判長は、無期懲役判決。一九七七年八月、最高裁が上告棄却。石川さんと弁護団は、すぐに再審請求。石川さんは千葉刑に移管。一九九四年一二月、石川さん仮出獄。一次、二次との再審棄却攻撃を受けるが、二〇〇六年五月二三日、東京高裁に第三次再審請求。三者協議(裁判所、検察官、弁護団)が〇九年一〇月から開始。二二年八月二九日、石川さんと弁護団は「事実取調請求書」を提出。国家権力の部落差別と冤罪の攻撃を実力で糾弾し、八五歳となった石川さんの無実と再審そして部落解放を求める狭山闘争は大きな決戦局面に入っている。 「本書では、石川の生い立ちから、事件発生後犯人とされるまで、そして獄中の三二年間、仮出獄後の闘いと日常が克明に語られる。……石川一雄が質問に答える形で語ったことをできる限り再現した」と。「第1章、狭山で生まれた少年」、「第2章、つくりあげられた『犯人』」、「第3章、文字の習得と〝部落解放〟への目覚め――東京拘置所時代」、「第4章、労働と闘いの日々――千葉刑務所時代」、「第5章、『見えない手錠』をはずすまで」、と構成されている。それぞれ、石川一雄さん、妻の早智子さん、そして部落解放同盟狭山闘争本部の片岡副委員長がリアルに述べている。狭山差別裁判糾弾闘争と部落解放運動のいきいきとした流れも、捉えられる。「石川の記憶は驚くほどに正確である」と、著者の黒川みどりさんはいう。 資料には、「被告人最終意見陳述(一九七四年九月二六日、東京高裁第八一回公判)」が掲載されている。寺尾の反動的な差別判決で石川さんが無期懲役の獄死攻撃を受ける約一か月前の陳述である。狭山闘争勝利、石川無罪、実力奪還、部落解放―日帝打倒闘争の高揚が、部落解放運動、階級的労働運動、全人民の闘いとして、つくりだされている時期の主張だ。 権力の部落差別を糾弾し、検察がブルジョアジーの利害に立った権力であることを痛烈な怒りで批判しながら、「私達部落兄弟の明日の夜明けの導火線として完全無罪判決を切にお願い申し上げて、私の意見陳述を終わりにします」と締めくくった。この闘いは、続いている。 狭山第三次再審闘争に勝利しよう。一〇・三一寺尾差別判決五〇カ年糾弾! 袴田さん無罪の次は、石川一雄さんだ。狭山差別裁判を打ち砕き、全人民的政治闘争をもって、闘おう! |
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