寄稿(2018年2月)                                                     ホームへ

一緒に背負う旅

八〇年目の南京を訪ねて

田中信幸


   


    
 二〇一七年一二月九日から一五日まで中国の南京と上海などを訪問する機会を得た。今回の訪中は南京民間抗日戦争博物館長の呉先斌氏の招待で、同博物館に私の父武藤秋一(一九一五―二〇〇六年)が残した日中戦争時代の遺品を寄贈するためであった。
 父の三回の侵略戦争への出兵をめぐって、親子の間での葛藤や日中戦争に参戦した時期に書かれた従軍日誌の現代語訳、父宛に届いた兵士たちからの手紙の一部などをまとめて私が執筆した『一道背負――日本人父子的侵華戦争責任対話――』が二〇一五年に中国人民日報社から出版された時、『戦旗』紙上で書評を書いていただいた。今回はその本で紹介した資料の他、アルバム三冊や金鵄勲章、三〇通以上の戦場の兵士からの手紙なども寄贈した。
 なぜ私が父の戦争時の遺品を中国の博物館に贈ったか、中国の人たちからも質問を受けた。確かに子供の頃から見慣れたアルバムその他の遺品を手放す事については迷いもあった。しかし、これを中国の人たちが歴史資料として強く求めており、手許に置いていてもそれが歴史修正主義がはびこるこの国で再評価されるのか、一抹の不安を持った。亡くなった父も、過去に侵略した南京の博物館に末永く保存され、日中友好を深めることに役立つなら、きっとそれを望むはずだと思ったのである。父の日誌については、二〇一三年に韓国の独立記念館に寄贈しており、この日誌が日本軍「慰安婦」制度問題の解決に向けて韓国と日本の架け橋の役割を果たしていることも私の背中を押してくれた。
 一二月九日に南京に到着し、呉館長の歓迎を受けた。その夜は南京大学や南京師範大学の研究者たちと会い会食した。そして翌一〇日に贈呈式が行われた。民間博物館にはメディアや「幸存者」の遺族、学生などが来ていた。私はなぜ父の遺品を中国に寄贈すると決めたのか、父の経歴、父の日誌に書かれた事実、父との一〇年に及ぶ戦争責任対話、日本政府への批判などを一時間位話した。その後、日本軍の蛮行により父親が殺され、一家がどん底の苦しみを強いられた女性から発言があり、私はその方に歩み寄り謝罪して握手を求めた。その方も快く応じていただいたので、少しは肩の荷が下りた感じがした。さらに遺族の方々とは昼食を共にした。その場で一三〇人の幸存者を撮影した分厚い写真集を見せてもらい、それぞれの方が事件以降も苦難の歴史を歩まれた事実が刻まれていた。
 午後は南京城内にある総統府の遺構を訪問した。現在は観光地となっているが、私が訪ねたかったのは一番奥にある総統=蒋介石の居室である。八〇年前の一二月一四日に父は坂井旅団長の衛兵としてここに行き、椅子に座ったりベッドに横たわったりした事が日誌に書いてあるが、その部屋を八〇年ぶりに見ることができた。歴史的な訪問となった。
 一一日には上海へ引き返し、熊本の日中友好協会の訪問団と合流し、第六師団が南京攻略へと進んだ経路をたどるツアーに参加した。第六師団(熊本)が一九三七年一一月四日の杭州湾上陸から第一〇軍として大湖の南を通り、南京へと突き進んだ跡を追うように車で回った。
 一二日の夕方南京へ到着し、第六師団が攻撃した中華門を訪ねた。日本軍が一五〇ミリ砲で攻撃しても破れなかった重厚な城壁であった。父は八〇年前の一二月一三日(攻略の日)午後には坂井旅団長の衛兵としてこの城門に登り、南京城内を一望している。
 夜は、ヒルトンホテルで開かれた南京大虐殺記念館の主催するレセプションに参加した。南京城内に国際安全区を作り、二〇万人とも呼ばれる中国人を救った安全区の外国人メンバーの親族が招待されていた。安全区の責任者として指揮をとり、「南京のシンドラー」と言われるドイツ人ジョンラーベの孫トーマスラーベ氏がドイツから来ており、その方と話すことができた。彼に、私の父が一九三七年一二月一四日午後、旅団長の衛兵として国際安全区の前を通った記録があることを伝えた。帰国後トーマスラーベ氏からメールが届き、一緒に写った写真も添付されていた。
 一三日には、南京大虐殺記念館で南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭が行われた。私たち熊本の訪問団は九月に参加申請をし、公式に招待されていた。会場で私たちの横にいた日本人の一団は全労協の訪問団だった。全港湾の伊藤彰信前委員長が団長で、私は宮城の方と少し話をした。そしてトーマスラーベ氏が最前列にいたので、私の本『一道背負』を渡した。
 公祭には習近平(シーチンピン)主席が参加した。ほんの一瞬顔を見ることができた程度だった。彼は発言せず、全国政治協商会議の議長が挨拶されたが、内容はよくわからなかった。集会の模様はテレビで詳細に報道され、翌朝の七時のニュースで私たちが写っていたのには驚いた。日本でも中国電子台が流した同じ映像が放映されたと聞いた。その後、大虐殺記念館を見学し、孫文の遺体を埋葬した中山陵を訪問した。
 一四日は南京戦終了後すぐに開設された利済港慰安所跡を見学した。利済港二号館の一九番目の部屋は、朝鮮人元日本軍「慰安婦」の朴永心さんが拘束されていた場所だ。朴さんは二〇〇三年一一月二一日に現場を訪れ、確認を行った事が写真で説明されていた。その後上海へ向かった。
 一五日は一九三二年一月、第一次上海事変で最初に作られた慰安所「大一サロン」を訪ねた。ここは海軍陸戦隊のための慰安所として作られた。三二年末には上海で一七カ所にまで増えたという。次に四行倉庫抗日記念館などを見学。四行倉庫(銀行の倉庫)の戦いは日中戦争中の一九三七年一〇月二六日から一一月一日にかけて行われた、第二次上海事変における最後の戦闘である。倉庫防衛の成功は中国軍の士気を高揚させたという。
 最後に上海師範大にある中国人慰安婦歴史博物館を訪ねた。ここには中国と朝鮮の被害者を象徴する「平和の少女像」が建てられていた。日本軍が四五年までに中国全土で設置した慰安所は一千カ所以上で、上海だけで一四九カ所作られたという。各国の四〇万人余の女性が日本軍の性的奴隷となり、その半分は中国人女性。現在生きているのはわずか一九人しかいないと説明された。
 様々な人と出会い、習近平政権に対する不満の声も聞いた。そして現代中国の進歩の速さに驚愕しながら、日本軍による侵略の傷跡が未だ各地に残り、今なお民衆を苦しめ続けていることを痛感した一週間の訪問であった。私にとっては「戦争責任を一緒に背負う」という父との約束を果たす旅でもあった。その約束を今後も背負い続けることをあらためて確認した。最後に、民間抗日戦争博物館の呉館長の配慮にあらためて感謝申し上げる。