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                                                                               2008年5月20日
      ●フィリピンのベルトラン議員事務所が発表したプレス声明

   労働者階級のヒーロー、クリスピン(カ・ベル)ベルトラン
   貴重な財産を残して逝く

   
08年5月20日に、フィリピンの元KMU議長であり、AWCの共同代表をつとめ、アナクパウィス党所属の下院議員であったクリスピン・ベルトランさんが、お亡くなりになりました。当日、ベルトラン議員事務所は議員の死亡について、記者会見用の声明を発表しました。 編集局の責任で全文を掲載します。
 



クリスピン・ベルトラン議員事務所
プレス声明
2008年5月20日


 アナクパウィス(ANAKPAWIS)党の三期目の下院議員にして労働者の卓越した指導者、汚職とは無縁な国会議員、そして、民族解放、民主主義、労働者階級の国際連帯のためにたたかう信頼厚い戦士でもあったクリスピン・ベルトラン議員が、本日、午前11時48分、ケソン市・EFU病院において、頭部重傷のために死亡した。享年75歳。

 彼の家族、友人、同志、同僚たちとともに、私たちは彼の死を悼む。彼は亡くなってしまったが、労働者・被抑圧人民の利益を守る闘争という、きわだった素晴らしい遺産を彼は残した。ベルトラン議員は、民衆を苦しめている税率を引き下げるために、電力への付加価値税(e-vat)を廃止する法案を提出しようとしていた。法案作成のためにベルトランがおこなっていた調査・研究は、経済的に恵まれず、社会の周辺に追いやられている人々を守るためのものだ。

 大衆からは「カ・ベル(同志ベル)」という名前で親しまれているクリスピン・ベルトランは、生きながらの伝説的人物であり、この国で戦闘的な運動や進歩的な立法活動に関わってきた人物を代表している。彼は現在まで全国政党アナクパウィス(額に汗して働く人々)の議長であり、この党の候補として再選をはたしたフィリピン議会の下院議員である。

彼は、50年以上もの長いあいだ活動しつづけ、虐げられた民衆の真の擁護者として、また、民営化・規制緩和とグローバリゼーションがもたらす破壊的な諸政策とたたかう信頼できる闘士として、労働者・貧農・都市貧民から尊敬を集めている。

またカ・ベルは、米国のイラク侵略戦争や対テロ戦争に反対してたたかってきた。同様に彼は、外国の干渉・介入に反対してきた。国家主権の尊重と国際的な人民の団結を呼びかけつづけてきたという点において、彼の姿勢は一貫している。

日本のフィリピン占領時代の初期、カ・ベルは志願してゲリラの工作員になった。戦後、彼は学費をまかなうために、農場労働者や清掃労働者として働いた。それから彼は、ガソリン・スタンドのボーイ、配達人、バス・ドライバー、そして後にはタクシー・ドライバーとして働いた。20歳のとき、不当労働行為に反対する仲間のドライバーたちが組織したストライキに参加した。警察はピケット・ラインを襲撃し、多数に怪我を負わせ、争議中の3人の労働者の命を奪った。その時からカ・ベルは、労働者階級とともにたたかっていくことを心に決めた。

彼はタクシー・ドライバー協会を組織し、1955年から1963年までのあいだ、この団体の議長をつとめた。戦闘的伝統もつフィリピン労働運動のリーダーであったフレリクスベルト(カ・ベルト)オラリアやフェリシアーノ・レイエスとともに、カ・ベルはフィリピン労働連合(CLP)を組織した。1963年から1972年にかけて、彼はCLPの副議長をつとめた。カ・ベルはまたフィリピン労働者会議やKASAMA、PACMAPなどの創設を支援した。これらは戒厳令時代においても、事実上、国家にその存在を力で認めさせた組織である。

1980年にKMUが創立されるまでの期間、戒厳令下の弾圧のもとで、カ・ベルはリサール労働組合連合やフィリピン民族主義労働組織(PANALO)の結成のために活動した。1980年代には、KMUの組合員は10万人から50万人へと急増した。KMUの設立によって、マルコス独裁・ファシズム体制とたたかう人民の団結は強まり、人民はみずからを強化することができた。

1982年8月、マルコスは一斉検挙をおこなった。このときカ・ベルは、その一人として逮捕され拘留された。1984年11月、彼は脱獄に成功し、労働者・貧農を組織するために地方にもどった。1987年、カ・ロナンド(ランド)オラリアが虐殺され、カ・ベルはKMU議長の職責を引きついだ。彼は人民党(パルティド・ナン・バヤン)から上院議員選挙に出馬した。人民党は同じ年に152万票を獲得しながら、不正選挙の「ダグダグ・バワス」(投票用紙や票のすり替え)のせいで敗北した。2003年3月まで彼は、戦闘的労働組合のリーダーとして活動を継続した。

彼はまた1985年、諸階層の民衆を結集させたバゴン・アリヤンサン・マカバヤン(BAYAN)、すなわち新民族主義者同盟の全国委員に就任し、1993年から1999年にかけて全国議長をつとめた。

カ・ベルは2002年には国際民衆闘争同盟(ILPS)の議長に就任した。彼はまた、グローバリゼーションの時代において、国際的な労働者階級連帯運動の中心人物の一人と目されてきた。

2001年の2月から2003年の11月にかけて、彼は選挙政党であるバヤン・ムナ(人民が第一)の副議長をつとめ、他の2人のメンバーとともにこの党の国会議員として活躍した。国会では彼は、愛国者としての、また社会の周辺に追いやられた人々の権利・福祉の守護者としての、気高い精神につらぬかれた法案を提出した。

2004年には、彼は労働者・貧農・都市貧民、他の被抑圧人民・諸階層を代表するアナクパウィス党の国会議員となった。

「フィリピン調査報道センター」によれば、カ・ベルは、第13期議会・比例区議員のなかで最多となる合計130を数える法案・決議を提出し、また2006年2月の逮捕時までは国会会期をほぼ無欠席で通した。

3期におよぶ下院での活動によって、彼は、2002年から2005年にかけて4年連続で「この一年を代表するフィリピン人」「もっとも優秀な国会議員」などの賞を獲得した。そして2006年には、「名声の高い議会人の殿堂」入りを認められた。アロヨ政権が彼および彼の仲間の活動家たちへの弾圧をつづけたにもかかわらず、彼はこうした社会的評価を受けたのである。

カ・ベルはグロリア・マカパガル・アロヨ政権によって逮捕され、一年半、権力のデッチアゲで違法な拘束を受けたが、のちには、彼にかけられていた反乱罪の嫌疑には根拠がないことが立証された。しかし、適法に選出された議員を禁固6年となる騒乱扇動罪などで罪を問うことは法的に禁止されているにもかかわらず、ケソン市・首都圏裁判所が現在に至るまでずっと公訴棄却を拒否しているなど、でっち上げ騒乱扇動事件訴訟によって彼への迫害はつづいた。

 2007年10月、カ・ベルはアロヨ政権の支持者、とくにKAMPIのメンバーであるフランシス・ベールがくわだてた買収工作を暴露した。フランシスは、カ・ベルに対し、「グロリア・マカパガル・アロヨ大統領に対する見せかけだけの弾劾申し立てを支持する」ことと引き換えに、200万ペソの資金供与を持ちかけていたのである。

カ・ベルは11人の子ども、29人の孫、そして5人のひ孫を残して逝った。彼のなきがらは、5月20日に彼の家に安置され、5月21日からはフィリピン大学・カトリック教会に移されることになっている。


                                                   リン・アンジェリカ・パノ
                                                   クリスピン・ベルトラン議員事務所 渉外担当責任者
                                                   「カ・ベルに自由を」運動・国際事務局員