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                                                                               2009年2月10日
      ●米国・社会主義解放党・機関紙『解放』掲載   ハビエル・ラボエ署名論文

   労働運動推進のための歴史の総括
   失業者を組織しよう 「闘え!飢え死にするな!」
   

   
米国の社会主義政党である社会主義解放党(Party for Socialism and Liberation  略称PSL)が、党の機関紙『 Liberation 』(解放)09年2月10日号に、大恐慌期の米国労働運動についての論文を掲載しました。 編集局の責任で訳文を掲載します。
 



 ●大恐慌期の共産主義者の闘い

 経済的な暗雲がこの国に引き続き垂れ込め、労働者階級に向かって嵐が吹き荒れ始めた。労働省によれば、二〇〇八年に職を失った人が百五十万人を記録した。今年一月だけで五十八万六千人もの人々が職場から放り出された。

 一九三〇年三月七日付のニューヨークタイムズ紙(朝刊)によれば、共産主義者率いる失業者のデモが警察と衝突した。一面大見出しは、改革策がどのようにして政府から勝ち取られたかを示すとともに、こう書いている。「ユニオン・スクエアで赤が警察と闘う」「市当局は失業者向け住宅建設計画の実施を急ぐよう要請した」

 現在、住宅の差し押さえも不安材料になっている。昨年だけで三百万軒以上が差し押さえられた。これは二〇〇七年の81%増だ。

 新たな民主党政権はこうした状況を変えてくれるだろうと労働者の多くが期待している。特にリベラル派の評論家は「新・新規撒き直し政策」を求めてきた。オバマ政権がフランクリン・D・ルーズベルト大統領の方法を踏襲することを望んでだ。ルーズベルトは在任中、有名な「最初の百日間」政策で、大恐慌によって打撃を受けた労働者に対する緊急支援を実施することに重点を置いたいくつかの政府機関を設けた。

 しかし、ルーズベルトが引き継いだ政治状況――労働者階級の間に戦闘性・闘争・革命的意識が増大した――に注目するブルジョアメディアは一つもない。労働者階級のこうした変化は、進歩的な改革を目指す活動家にとって大恐慌から学ぶべき真の教訓だ。


 ●大恐慌

 経済的危機は革命的時期が到来する可能性を常に促進する。経済的に困難な時期は構造的・根本的な不正義をむき出しにする。階級意識を研ぎ澄ませた支配階級はこうした歴史をよく承知している。

 一九二九年十月二十九日は米国支配階級が歴史上最も恐怖におののいた一日だった。金融株が大暴落し、大恐慌の初日として公認されている日だ。

 エドワード・ロブ・エリスは著書『苦悩する国家』で当時の厳しい状況について書いている。教室で教師が女子児童に病気かと聞いたら、「大丈夫、お腹が空いているだけなの」と返事した。帰宅してご飯を食べなさいと言うと、「そんなのできない。今日は弟が食べる日なの」と答えた。

 数百万人が仕事と家を失って飢えているとき、反動大統領のハーバート・フーバーはほとんど何の手も打たずに、「失業問題は中央政府ではなく民間と地方機関が対処すべき」という方針に固執した。

 米共産党は大恐慌期に労働者階級の経済的政治的要求の重要な代弁者として浮上した。党員は被抑圧人民を信頼し、新たな社会の到来を願いながら、何の代価も報酬も求めずに組織活動に膨大な時間を費やした。

 米共産党に指導された諸組織は地域から全国レベルまで活動して、労働者が経済的に厳しくなっていることを社会問題化させた。街頭で訴え、労働者の抱える問題が個人の責任によるものではないことを示した。というよりもむしろ、そうした問題は現在の経済構造に特有のもので闘うべき対象なのだと主張した。

 大恐慌の初期に米共産党が主導した二つの最重要の闘いは、一九三〇年三月六日の国際失業の日行進と一九三一年十二月の第一回全国飢餓行進だ。


 ●国際失業の日行進

 経済危機が主要資本主義国全体に広がったため、共産主義インターナショナル(コミンテルン)は一九三〇年三月六日に失業者のための世界的デモを行うよう呼びかけた。

 米共産党は直ちに反応し、全ての党員と支持者に対してこの日のデモを組織して失業保険の要求を掲げることを訴えた。労組・学校・街角・スポーツクラブなど人々が耳を傾けそうなところならどこであれ組織化に入った。

 組織化を進めた人々はアフリカ系アメリカ人の地域社会での活動に特に力を入れた。失業率が白人の三倍だったからだ。一九三〇年に北部ハーレム失業協議会が結成されると、直ちに三月六日のデモに黒人と白人の労働者を動員することを第一の目標にすえた。

 三月六日のデモがついに動き出すと、支配階級は完全警戒態勢に入った。それまでの数週間に小規模の失業者デモと室内集会が暴力的に踏みにじられていた。だが、共産主義者は屈しなかった。

 「勤務中の警察官全員は本日の赤の集会・デモにおける暴力行為を防止する」――三月六日朝刊のニューヨークタイムズの一面冒頭記事はそう書いていた。警察は抗議の声を上げる人々をビビらせようとマスコミを利用した。「共産主義者は政府の指導者を暗殺し、ニューヨーク株式市場を爆破し、ナイフを持って警察署を襲撃しようとたくらんでいる……」。デモの日にニューヨーク市警は、ライフルと催涙ガスは言わずもがな、マシンガンを用意してユニオンスクエアに現れた。

 にもかかわらず、推定十万人の失業者がこの日ニューヨークにやってきた。市役所に向かってデモに出発しようとしたところ警察が襲撃し、多数の負傷者が出て十二人以上が逮捕された。その多くは女性と子どもだった。

 米共産党の指導者であるウィリアム・W・フォスターはデモを組織した廉(かど)で六ヵ月間獄中で過ごしたが、自分たちの行動をこう正当化した。「われわれ委員会はパレードの許可を求め、ルーマニアの女王も、武装した右派の虐殺者どもも、資本主義の側に立つ諸団体も自由にパレードを行えるよう許可をもらっていることを指摘した。しかし今回、ブロードウェイを築き上げた労働者階級はそこを練り歩く権利が認められなかった。」

 デモはニューヨークをはじめ全国で行われた。参加者が最も多かったのはニューヨークとデトロイト。ボストンとシカゴで五万人、フィラデルフィアとクリーブランドで三万人。それ以外の全国二十四都市合計で十二万五千人がデモを行った。

 デモは弾圧を受けたが、失業者の全国運動にとって跳躍台となった。デモによって米共産党は失業者大衆のすぐれた牽引車として登場した。また、失業保険が全国的な課題として浮かび上がることになった。

 同日、米議会上院商業委員会が失業保険法を検討するための公聴会の日程をついに決めたことは偶然ではない。数日後に法は成立した。


 ●第1回全国飢餓行進

 米共産党は三月六日デモに続く一連の闘いを牽引した。数百の大規模なデモ・飢餓行進・撤去反対闘争と同時に最南部地方での人種差別撤廃闘争も行われた。米共産党はアラバマ州における分益小作人組合を率い、アラバマ州スコッツボローで強かん容疑の濡れ衣を着せられたアフリカン・アメリカン九人を支援する全国運動を展開した。

 こうした努力のうちの一つに一九三一年十二月の第一回全国飢餓行進がある。主な要求は長期失業保険、燃料支援、賃金を下げずに労働時間を短縮すること、老人向け年金、第一次世界大戦退役軍人に直ちに手当を支払うことだった。

 第一回全国飢餓行進はおそらくそれまでの米国におけるプロレタリア運動の歴史で最もよく組織されたデモだ。行進は全国各地で選出され行進してきた代表千七百人からなっていた。セントルイス・シカゴ・バッファロー・ボストンから四隊列が出発した。代表団はトラックや車で移動した。各トラックには隊長がいて、各隊列には指導委員会と指導者がいた。各隊列には独自の通り道・時間・出発日があった。道行くごとに当該地域の失業協議会が支援デモを組織し、自分たちの代表を行進に参加させた。

 行進は機械のような正確さで移動し、十二月七日に首都ワシントンに全隊列が到着し一堂に会した時点で最高に盛り上がった。国会議事堂の階段に配置された大量の警官隊が行進参加者に銃口を向けた。警官の数は行進参加者の三倍だった。

 参加者たちは要求書をフーバー大統領に渡そうとホワイトハウスに向けて行進を続けた。そこでもまた大規模な警官隊が待ち構えていた。結局行進は米国労働連盟本部前に到着して終わった。同連盟の反動的指導部は失業保険に反対するフーバーの政策を支持していた。

 一九三一年十二月の第一回飢餓行進は全国の耳目を集めることに成功し、その後数年間にわたって飢餓行進が続いた。ルーズベルトが就任する一九三三年までこうした労働者階級の行動は繰り返された。戦闘的労働者たちは闘いを推し進め、行進の経験を教訓化して数々の労働者闘争の組織化へとつなげた。労働者闘争は後に産業別労働組合会議として結実する。

 新規撒き直し政策は多くの点で掛け声倒れに終わった。すなわち、人種間の不平等、なかでも黒人に対する抑圧は強化され、経済危機には効果的に対処できなかった。だが、労働者階級にとって役立つ諸改革をもたらしたという限りで効果があった。ただし、闘いがこうした変化をもたらしたのだ。ルーズベルトは大統領就任時に巨大な社会的変動が起こる可能性に気づいていた。活動家の現在の課題は、政府がわたしたちを助けてくれるかどうか、ではない。わたしたちが支配階級を震え上がらせられるかどうか。それが問題なのだ。