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■8・6 広島 反戦・反核・反原発・被爆者解放かかげ 被爆79年 「青空式典」を開催 被爆七九年の八月六日、広島市平和記念公園内で、被爆二世・労働者・障害者・学生など市民による反戦・反核・反原発・被爆者解放の集会「青空式典」が開催された。集会と写真展「戦争と被ばくを許さない写真展――命を脅かすもの」を今年は同時開催し、行きかう日本・外国の人々が立ち止まり、集会に耳をかたむけ参加したり、並ぶ写真を見続けていた。広島市と警察は入場規制の範囲を五時から九時まで原爆ドーム周辺を含む公園全体に拡大し、ハンドマイクやプラカードなどの持ち込みを禁止した。公園内は警察のかまぼこ車が列をなしていた。 戦争に反対し、核廃絶を求める声を封じ込める規制を許さず、青空式典は一〇時三〇分被爆三世の司会のあいさつで始まった。原爆で亡くなられた方の人数は正確には分かっていない。一九四五年の年末までに広島で一四万人、長崎で七万人、計約二一万人が亡くなったと推計されている。今も「被爆体験者」や被爆二世などの人々が健康不安を抱えており、被爆者として援護を求めている。また被爆した朝鮮半島出身者の多くの人が亡くなられた。七九年目の八月六日、反戦・反核を訴え、新たな被ばく者を生み出してはいけないという決意で青空式典を行う、とあいさつした。 一分間の黙とうのあと、被爆二世の基調が司会により読み上げられた。 「ここは公園ではなく、広島一の繁華街であった。原爆使用によって平和公園周辺にいた人たちは被爆直後ほぼ全員が死亡した。この戦争犯罪の謝罪と賠償を米国に求める。米国やG7が打ち出す核抑止力発言を許さない。八月六日は遺族や被爆者、平和を求め追悼と戦争反対の声を訴える人々の様々な形の追悼がある。それを『在特会』や『静かな八月六日を願う広島市民の会』が反戦反核を求めるデモや集会を妨害してきた。二〇一九年広島市議会は『平和祈念式典厳粛決議』を可決させた。八月六日平和記念公園は二度と戦争と核被害のない世界を作ると誓う場であり、広島市の公園規制に異議を唱え、アジア人民と連帯する青空式典を行う。二〇一三年より続く日韓共同行動を東アジアの平和を作り出すために今年も行う。上関に原発と使用済み核燃料中間貯蔵施設建設に反対し住民と共に行動していく。長崎『被爆体験者』は被爆者として認めるよう訴え、被爆二世は援護の道を切り開くために被爆二世集団訴訟を闘う。ロシア・ウクライナ戦争、イスラエルのジェノサイドを許さず、核兵器と原発を廃絶していくために、世界の民衆の連帯で反戦・反核・反原発・被爆者解放の闘いを進めていく」。 続いて寄せられたメッセージが紹介された。全国被爆二世団体連絡協議会、日韓共同行動の被爆二世の会とAWC韓国委員会、そのあとオーストラリアから届いた連帯のあいさつがそれぞれ紹介された。韓国からのメッセージは、各国が核戦力を強め、朝鮮半島で核使用を前提とした米韓合同軍事演習が行われ軍事的緊張が高まっている中で、戦争のない世界、核のない世界を作っていこう、その闘いを止めないと訴えるものであった。 次に参加する個人・団体からの発言・歌がおこなわれた。最初は平和三原則と憲法前文をテーマにした参加者のトークと歌、AWC日本連、福山の労働者、AWC福岡、憲法を活かす市民の会・やまぐち、やまぐち障害者解放センター、山口連帯労組がそれぞれ闘いの報告と被爆二世三世との連帯発言を行った。また飛び入りで学生や核兵器廃絶へ思いを込めた歌を歌う人なども参加した。青空式典は最後にシュピレヒコールをあげて終了した。 |
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