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 ■差別糾弾闘争―権力闘争の内実を獲得し、

  障害者解放―日帝打倒の綱領的創造かちとれ

                                                             河原 涼




 ●第1章 民主党障害者政策批判、差別糾弾闘争の圧殺許すな


 民主党議員でつくっていた「民主党障がい者政策プロジェクトチーム(PT、座長:谷博之参議院議員)」が解散した。このプロジェクトチームは、この間JDF(日本障害・フォーラム)やDPI(障害者インターナショナル)、育成会など、障害者関連十二団体による民主党への陳情の受け皿であったが、民主党への陳情の窓口が「政府も省庁も今後一体化になる」という理由でなくなった。民主党は「なにかあれば、小沢幹事長室に直接いくように」という通知を十月九日、関連団体の代表を国会に呼び出して行った模様である。

 民主党のこれからの障害者政策がいかなるものになるのかが明らかにされる窓口が閉ざされ、いままで民主党を媒介にして自民党の障害者政策と格闘してきた害者関連団体は、とまどいを見せている。

 民主党の障害者政策とはいかなるものなのか。

 先に解散したプロジェクトチームによって作成された「障がい者制度改革推進法案」(二〇〇九年三月にまとめられた議員立法の中間報告)によれば、それは一九八〇年以来進められてきた国際障害者年政策の一環としての国連の「障害者の権利条約」の国内的推進を基調として、国内における障害者差別禁止法など、障害者基本法の制定をめざす路線としてあることを見てとることができる。

 すくなくともプロジェクトチームが解散するまでは、民主党は「障害者の社会参加と平等」を障害者政策の基調として据えていた。

 政権をとった途端、民主党がそうした路線をかなぐりすてたのか、見直しにはいったのかは定かではないが、ここで「権利条約」を基調とした民主党の路線に対する批判的見解を明らかにし、われわれの障害者解放―日帝打倒の路線の正当性を、実践的に明らかにしていきたい。

 「障がい者制度改革推進法案」の骨子とは。

 「この法律は、障がい者(障害を有する者及び障害を有する児童をいう。以下同じ)の自立及び社会参加の支援等を一層推進するとともに、障害者の権利に関する条約(以下「障害者権利条約」という)において締約国が措置をとることになっている事項を達成するために、障がい者に係る制度の抜本的な改革と基盤の整備(以下「障がい者制度改革」という)を行うことが緊要な課題であることにかんがみ、障がい者制度改革について、その基本的な理念及び方針、国の責務その他の基本となる事項を定めるとともに、障がい者制度改革推進本部を設置すること等により、これを総合的かつ集中的に推進することを目的とするものとすること」とある。したがって民主党の障害者政策を語るには、障害者権利条約をめぐるわれわれの評価が必要である。この点について明らかにしながら、民主党の障害者政策についての批判的見解を明らかにしていきたい。


 ▼1)「権利条約」とは

 国連による「障害者権利条約」は、二〇〇六年八月に国連加盟国及び国連オブザーバーに開かれた「アドホック委員会」において採択され、同年十二月総会で国際条約として決議されている。日本政府は二〇〇七年九月条約に「署名」したが、二〇〇九年十月現在いまだ批准していない。

 そもそも権利条約は、二〇〇一年第五十六回国連総会にてメキシコ政府によって「障害者の権利及び尊厳を保護・促進するための包括的総合的な国際条約」というかたちで提起され、「決議案をコンセンサスで採択した」のが、権利条約成立の端緒である。

 二〇〇一年決議案の採択後、二〇〇三年六月第二回アドホック委員会で正式に条約として作成することが決定された。二〇〇四年一月、「条約草案起草作業部会」が発足し、日本政府も当初からこれに参加していた。

 この権利条約は、それ自身の議決を持ってそれなりの影響力を発揮するというよりは、国連で採択されたこの権利条約を根拠にして、各国で障害者差別禁止法などが制定されるよう促進していくことを目的にしている。日本における権利条約推進派は、こういう意味で、多くはアメリカの差別禁止条約(ADA法)にならいながら、日本においても差別禁止法を制定すべきというキャンペーンを行っている。


 ▼2)「戦争と障害者」を巡る論争について

 国連そのものが、第二次帝国主義戦争での「連合国」を意味し、あらたな世界秩序を全世界に構築する目的で作られたものである。そして、その国連で言うところの「人権」とは、共産主義革命、暴力革命の否定の上に構築される、典型的なブルジョア民主主義の象徴である。「障害者権利条約」はそうした理念をもつ国連憲章、世界人権宣言が「障害者には保障されていない」とすることからその必要性が語られてきた。その上にたった「障害者の人権」を各国がそれぞれの国内法において「保護、保障」し、法制度の整備を進めよ、というものである。

 この権利条約では、「戦争と障害者」の問題について、論議になっている。そして、その点がこの条約を採択するにあたっての最後の論点となった。

 JDF(日本障害フォーラム)のサイトから引用すれば、「……政治的な問題として、最難関の問題として浮上したのが『外国の占領下における危機的状態からの障害者の保護』の問題である。最後までこの問題が残った。……投票の結果、前文に『外国の占領という文言を残す』が一〇二で圧倒的な勝利を収めた。棄権八、反対は日本、オーストラリア、アメリカ、カナダ、イスラエルの五カ国。障害者の人権保障を目的とする本条約に政治的課題を持ち込むことに反対といった理由である。そしてようやく午後八時近くになって条約草案を含む報告書が採択された」とある。「障害者権利条約」をめぐる各国間の思惑の違いがはっきりと浮き出た。とりわけ日本、欧米を中心とする部分が、権利条約の障害者保障政策は、あくまで、政治と切り離された「人権」の枠内での「保護」政策であるとし、その立場から条約は採択されるべきと主張したのに対して、中南米、アフリカ諸国を中心とする国々は、帝国主義の覇権争闘の渦の中での障害者の位置を明確にし、帝国主義戦争の犠牲者として障害者が絶えず作られている現実を直視し、そのことを文言に明記せよと訴えたのである。結果は、圧倒的多数の国々が、日本、欧米の主張とは逆の立場をとった。この権利条約の制定を巡る各国の態度は、日本、欧米などのいわゆる「帝国主義」諸国政府と、中南米、アフリカ、アラブ諸国などを代表する政府とでは、明らかにちがう。前提として国連憲章、世界人権宣言などの精神を継承するという点での各国政府の主張はさして差はないものの、いわゆる帝国主義戦争と障害者の問題を文言に盛り込むのかどうかという問題をめぐっては、大きな違いが存在する。日本、欧米などの政府は、権利条約の制定をめざす基本的なスタンスとして、障害者問題を帝国主義の政治と切り離し、国連の保障する「人権」の問題に限定し、資本主義社会の中で成熟した利便性を障害者に「保障する」ことを主眼においている。差別の本質を解き明かしたりすることを避けながら、資本主義社会の中に障害者を取り込むことを前提としている。中南米などの国家に代表される政府は、国連の枠の中という制約はあるものの、帝国主義の支配下にある障害者もまた、植民地主義・侵略戦争の犠牲者であることを明確に主張しているのだ。そして、こうした主張が世界の多数派を占める。

 日本での権利条約推進派ににとっては、帝国主義戦争と障害者の問題を論じることは、障害者問題とはまったくかけ離れた別の問題としてしか認識されない。こうした問題を積極的に主張していくことは意味がなく、いたずらに時間を浪費する論争としか映らない。日本の権利条約制定を推進する部分の立場は、世界では圧倒的な少数派である。帝国主義と民族植民地問題を障害者的見地からみすえつつ、われわれは、帝国主義の戦争政策に真っ向から対決し、植民地従属国人民との、とりわけ障害者との階級的結合をかちとらなければならない。


 ▼3)「社会参加と平等」について

 権利条約などに貫かれている「社会参加と平等」という考え方は、健全者が、当たり前に享受している交通アクセスを利用した移動の自由や労働する自由、教育を受ける自由、様々な社会保障の実現などを、障害者にも享受させ、ブルジョア社会の「一員」として障害者がたち振るまうことを承認するという方向を示すものである。そうした進歩的側面を持つ社会の機能的、構造的環境の中に障害者自身が身を置くことからはじき出されてきたことに対して、「われわれにもそうした現実を享受させろ」と叫ぶこと自体あり得ることである。むしろ障害者の生活、生存権一般が脅かされ、理不尽な現実を甘んじなければならない場合が多い中で、そうした現実を少しでも改善する方向で闘いが取り組まれることも多々あるのである。そしてそうした取り組みは大いに防衛されなければならない。

 だが一方でそういう取り組みを自己目的化し、路線的に純化するようになるならば、障害者の社会参加をとおして起こりうる差別に対する禁止規定が厳密であろうがなかろうが、障害者による差別糾弾闘争の枠を離れ、法制度の枠内で問題解決をはかるという一つのルールの中に、障害者自身が身を置くことになる。そこには、必然的に差別糾弾闘争の存在根拠はない。

差別の現実を通して障害者政策の中に浮き出る政治腐敗を鋭くえぐり、それを糾弾しつつ、階級主体へと自らをたかめていく展望を示すという回路は、新たに別途に構築されなければならない。

 「社会参加と平等」というスローガン自体が、障害者差別糾弾闘争の過程の中で歴史的な必然性をもって創出された命題ではない。それは国連加盟国内での「人権問題」を巡る論議が世界的に論議される中で生まれたものであり、はじめに国連人権宣言ありきであり、ブルジョア社会の「恩恵を受けるか否か」という命題があり、日本では特にそれを天皇のもとに健全者とともに平等に享受すべき運動として始められたのである。

 このスローガンは、従って天皇制を抜きにしては語れない。「社会参加と平等」というスローガンは、この社会を障害者と健全者という区分で(階級性を覆い隠し)すべてを表現し、社会を機能や生活の利便性の面から安直に表現している。が、実はこのスローガンは、障害者差別自体が、天皇制優生思想攻撃を前提として、障害者に対する差別抹殺攻撃を激化させながら、にもかかわらず障害者も健全者も天皇の下では皆平等であるという意味を含むスローガンでもある。

 現実の障害者政策は、自立支援法や、医療観察法など、文字どおり戦時政策として障害者を隔離抹殺する攻撃として貫徹され、障害者は生存することすら脅かされる実態にある。「社会参加と平等」というスローガンは、そうした問題を「理念」のなかにかき消してしまう。階級社会の矛盾は、人権問題にかき消される。障害者は現実の苦しさに喘ぎつつも、それが差別糾弾としての運動へはつながらず、必然として障害者の解放という展望を見えなくする。民主党の障害者政策の本質は、そういう意味で差別糾弾闘争の封印、圧殺を天皇制のもとに強制するものである。



 ●第2章
 差別キャンペーンをはねかえし、差別糾弾闘争の実践的勝利を



 SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤〈Selective Serotonin Reuptake Inhibitor〉)という新薬の抗うつ剤を利用した、精神障害者と犯罪を結びつけるマスコミによる精神障害者に対する差別排外主義キャンペーンが激化している。「攻撃性」「殺人念慮」などといった悪意ある表現で新型抗うつ剤の「副作用」を差別的に書きたて、精神障害者が服用する抗うつ剤を媒介に、精神障害者と犯罪をしゃにむに結びつけ「精神障害者は怖い。何をするかわからない」とする結論を印象づけることにやっきになっているのだ。

 こうした差別キャンペーンは、科学的根拠もない「再犯の恐れ」「自傷他害のおそれ」を唯一の根拠にしてすすめられてきた保安処分攻撃や、多くの反対をおしきって成立した医療観察法を、正当なものとして後押しする差別記事であり、精神障障害者を社会から締め出し、孤立化させるものであり、断じて許されるものではない。

 たとえば、二〇〇九年三月三十日号に掲載された週刊『アエラ』の記事に関して言えば、「抗うつ剤で『妻を殺害』」というセンセーショナルな見出しで記事ははじまっている。内容はSSRIと呼ばれる新薬の抗うつ剤の一種を服用したところ、「アクティベーション症候群」と呼ばれる攻撃性などが増して殺人など重大犯罪などをおかしやすくなるので、規制を強化すべきという主張である。しかし、一読すればわかるように、記事で紹介されている様々なケースが、結局SSRIの副作用とは限らないのである。SSRIを服用する精神障害者が百万人単位で存在するという現実の中で、明らかに薬の副作用によって引き起こされた犯罪というものが、数例しか確認されていない。見出しに書かれた『妻を殺害」というケースも因果関係ははっきりしないという事を本文では書いている。しかし注意深く読まなければ、センセーショナルにかきたてた見出しに惑わされる事は明らかである。

 結局のところ、確実な根拠もなく、精神障害者と犯罪を結びつけ、精神障害者に対する排外主義キャンペーンを世論として組織する悪辣な攻撃なのだ。

 また、昨年九月福岡県の小戸(おと)公園トイレ脇で発見された母親による子供殺しの例をあげてのキャンペーンも張られた。同じく『アエラ』に掲載された記事の見出しは「豹変した母親にSSRI副作用説」というものである。

 『アエラ』が掲載した記事は、まさに見出しの通りであり、いつもの生活からは想像できないほどに「豹変」した母親の動機を解明するためにSSRIの副作用説をあげて説明しようとしているが、中身はなにもない。「SSRIと犯行との因果関係を特定するためには、専門家による鑑定が必要だし、それでも証明は難しい」と断った上で、解明されない「謎」をあげ、それを長々と書いた後、「歩けないはずの彼女が三キロも歩き、なけなしのお金で『豪遊』し、握力二キロの力で首を絞めた。……これがSSRIの作用だとすれば疑問は解ける」というもので、結局は何もわからないことを記事は証明している。

 『アエラ』の記事は無内容であるが、センセーショナルな見出しで読者を引きつけ、「不可解な行動」を解明する好奇心をあおり、購買意欲をかきたてて販売部数をかせぐという戦略が見え隠れする。

 われわれは、こうした差別記事が、副作用説がすべての精神障害者に当てはまるかのごとく報道している点を批判しなければならない。そして副作用を問題にするときは、利潤を第一に追求せんとする製薬資本の姿勢、医師と患者の力関係のなかで、あくまでも精神障害者に選択権がない現実を踏まえ、そうした制度的矛盾の被害者である精神障害者の権利が防衛されねばならないことをまず明確にしておかなければならない。

 そしてこの記事を読んで、実際に症状を悪化させていた当事者がいるという現実にあくまでも立脚し、差別を許さないという徹底した差別糾弾闘争の実践的な勝利を勝ち取る事が必要であるし、そしてその具体的な闘いに勝利した事をあわせて確認しなければならない。

 精神障害者に対する差別記事によって実際に症状を悪化させた当事者は、怒りをあらわにし抗議闘争を先頭でたたかった。現場で配布された感想文では「読者は、お医者さんであるかもしれないし、看護師さんかもしれないし、また患者さんかもしれないし、また、何も精神医療について知らない人かも知れません。しかし、一読してもつ感想というものは、やはり精神障害者への脅しのような、いわゆる普通の人の恐怖を助長するもの、また『知らないことは怖いこと』と患者の家族が言ったとありますが、鬱病患者にこういう薬をのませることが危険だと知らないことが怖いことだとの指摘です。私にいわせれば、怖いのはこの記事のほうです」とはっきりとのべ、差別への怒りを正当に主張し、抗議糾弾闘争を闘ったのである。われわれは、こうした闘いを原則的にやりきり、実践的に障害者差別糾弾の闘いを組織しなければならない。

 また、三月三十日付けの『アエラ』の記事では、「〇四年から〇八年十一月までの四年半に四十例もの副作用説」を声高に主張していたが、こうした抗議糾弾闘争のあとにおいては、九月三十日号『アエラムック アエラライフ 職場のうつ』という小冊子では、攻撃的な副作用説といわれるものは「九九年から〇九年三月までに四件報告された」と、自らの記事の信憑性を否定し、かつ自分たちのよって立つデータの信頼性がまったくでたらめだということを証明している。

 日本帝国主義は、精神障害者の入院、退院、通院、地域生活すべてにわたって重層的な監視網を張り巡らし、刑法、医療観察法、そして自立支援法を連動させた地域保安処分体制を強化している。

 マスコミの差別キャンペーンは、まさにこうした差別的な法制度を補完しつつ、差別的な世論を形成することで、障害者総体に敵意をむき出しにしている。

 われわれは、こうした攻撃を断固許さず、差別糾弾闘争の勝利を実践的に勝ち取っていかねばならない。なによりも、こうした大衆的な差別糾弾闘争の実践的勝利が、日帝の精神障害者差別抹殺攻撃にくさびを打ち込み、自立解放―日帝打倒闘争の路線の正当性を刻印するものである事を確認しなければならない。



 ●第3章 小山田論文について


 ところで、差別糾弾闘争について、最近小山田同志による新たな見解が『戦旗』紙上に掲載されている。小山田論文に対する若干の検討をしたい。


 ▼1、差別糾弾闘争とは具体的な闘いであり、権力闘争

 この論文には、具体的な差別に対する怒りを表明し、実践的見地で差別糾弾闘争の内容を明らかにするというアプローチが見られない。この論文は、各被差別戦線において、具体的な歴史的な闘いがそれぞれの地平でたたかわれてきたことをフラットに解消した上で、一般的抽象的に差別、被差別の「側」という立場性をいかに克服するのかという問題意識で書かれていると思われる。一般的抽象的に糾弾闘争なるものを語るのは何も語らない事よりも問題である。具体的な差別社会で呻吟する人々の生活の反映としての差別という現実から乖離して、立場性が「克服」できるかのように書かれてあると言わざるをえない。

 具体的な現実を問題にし、それに対する被差別者の具体的な闘いに立脚しないかぎり、個別具体的な差別に対する糾弾闘争の勝利という観点から導きだされる「差別からの解放」という視点、社会変革的観点も生じない。

 なによりも糾弾闘争こそは、日本帝国主義とのたたかいをはらむものであって、帝国主義の具体的な搾取、反労働者的な現実を強制する事に対する闘いの内実をはらむものであるという観点を忘れてはならない。

 狭山差別裁判糾弾闘争や、赤堀差別裁判糾弾闘争をはじめとする差別糾弾闘争は、帝国主義の悪辣な差別抹殺攻撃に断固として非妥協的に闘い続けてきている。労働者階級はその権力闘争として闘われてきている差別糾弾闘争の権力闘争的性格をとらえ共同闘争としてたちあがっている。

 差別糾弾闘争とは、被差別者の糾弾闘争への決起を第一義的課題とすること。差別者が行った差別の現実の階級的性格を明らかにし、被差別者が、差別を垂れ流すこの社会を変革していく社会の主人公として登場していく過程を第一義にとらえる。従ってこの場合、差別者が糾弾闘争の過程で変革されるか、されないかという問題は、第一義的な問題ではない。

 また、労働者階級が排外主義に屈服したままでいるのか、そうでないかという問題は、労働者階級の解放綱領の内実の問題、共産主義者の階級指導の問題とはされても、そのことの責を、被差別者に負わせるのは本末転倒である。

 レーニンの著書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』の主張を若干紹介する。「搾取者と被搾取者との平等はありうるか」という項目の中で、レーニンは次のように述べている。

 「ある階級が他の階級を搾取するあらゆる可能性が完全に廃絶されない限り、真の実際の平等はありえない」「プロレタリアートは、ブルジョアジーの抵抗を粉砕せずには、自分の敵を暴力的に圧迫せずには、勝つ事はできないということ、そしてこの『暴力的圧迫』のあるところ『自由』のないところ、そこにはもちろん民主主義はないということが、それである」

こうした、プロレタリアートの独裁の問題をわれわれは、解放闘争のなかに綱領的に普遍化しなければならないのだ。


 ▼2、かつて、われわれがおちいってきた誤り

 糾弾闘争が非妥協的に闘われてきた一つの表現の一形態であった「戦闘性」というものが、現実の差別の階級的性格を暴露していく作業と切り離されて、一人歩きして「思い」の突き出し、『差別されてきた己の思い』の凄まじさの尺度として語られた歴史があった。小山田論文で書かれている「糾弾闘争」なる文言の意味するところは、実はこうした歴史の残滓であることを認めなければならない。

 いわゆる「思いの凄まじさ」をいかに確認していくのかという作業を「糾弾、受け止め」あるいは自己変革、相互変革という形で組織し、その「戦闘性」をどれだけ双方が確認し、「耐えられるか」が、組織建設の度合いを測る尺度としてかたられ、「組織建設の推進軸」という表現で語られていった。それを「糾弾」として捉える傾向が確かにあった。

 しかしそれは、あくまでも「糾弾的契機をはらむ組織思想闘争」の一つの形態のありかたであり、その是非は別問題として、あくまでも権力問題を射程に入れた差別糾弾闘争そのものではないことを明確にしなければならない。

 それは現実の差別の階級的性格を暴露しない。現実の差別に如何に向き合い、いかなる階級的態度をとるのかという事を明示しない。

 そしてなによりも、現実の差別に呻吟し、その差別のありようを暴露して社会変革しなければ解放されないと、自らの自己解放をかけて社会変革運動に立ち上がってきた多くの被差別者の糾弾闘争への実践的接近、結合を意味しない。

 それは現実の階級矛盾と切断された「汝と我」の間の閉じられた、閉塞した環のなかで、悶々とさまよう葛藤を表現するのみである。

 しかし、そうしたことにわれわれは、今終止符を打たねばならない。


 ▼3 「プロレタリアートの階級形成」とはソビエト建設

 プロレタリアートが階級として形成されるということは、プロレタリアートの独裁の問題、すなわち権力問題である。小山田論文では、表題に掲げたこの内容に関しては論じていない。

 障害者の自己解放とは、障害者差別の現実を科学的に洞察し、障害者を排除、孤立へと向かわせる現実の社会のありようをつまびらかにしながら、それに対する怒りを共有化することに普遍性を求めるものでなければならない。こうした差別を許していれば、障害者は「死」を強制されるのみであり、その攻撃をはね返すことなしには、いきいきとした現実の生活の展望はあり得ないということが、直接の問題としてある。

 障害者の自己解放とは、自らの解放を語りつつも、実は障害者総体にかけられた差別の現実を普遍的に明らかにするものとしてある。そこに日帝の差別政策の本質を見抜きながら、闘う態度を明らかにすることである。そこに階級的性格を明確にし、日本帝国主義打倒闘争に立ち上がる回路を見いだすものである。障害者の自己解放闘争が、障害者の日帝打倒闘争として階級的な意味で行われることを解き明かし、そのことを通して労働者階級に、その闘いへの連帯を呼びかけ、階級的連帯運動としての質をはらむのでなければならない。障害者差別糾弾闘争は、まさにそうした意味での自己解放闘争としてあるということを解き明かさなければならない。また、そうした中身で闘われる障害者運動がはらむ内実は、必然的に障害者だけの利害の貫徹だけでは説明されないし、その闘いの勝利も、障害者の差別糾弾闘争の勝利にとどまらないということも、別途そうしたたたかいの中から見いださなければならない。
 利害の中身が違う現実は、実際にふれて学習していかなければ、自然発生的には普遍化されない。様々な角度から検証し普遍化しなければならない。自己解放の闘いはそうした回路の中で豊富化され、階級的普遍性を見いだすのである。

 差別糾弾闘争が階級闘争として意味をなす根拠はそこにある。被差別者の自己解放闘争は、社会変革運動としての差別糾弾闘争、権力闘争として闘われ、その内実はプロレタリアートの階級形成としてソビエト建設の軸として位置づけられるのである。われわれは、まさにそのような階級闘争の普遍性を獲得し、権力奪取に向けた階級主体へと自らを高め上げ、プロレタリアートの独裁のために闘うのだ。


 

 

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