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  ■三里塚反対同盟  鈴木幸司さんを追悼する



 反対同盟本部役員の鈴木幸司さんが六月十二日、逝去された。八十五歳だった。
 5・16三里塚現地闘争、十七日の市東孝雄さん不当逮捕、二十日の団結街道閉鎖攻撃実力阻止闘争、六月の攻防から6・27全国結集大闘争、二十八日の閉鎖強行という、団結街道閉鎖攻撃をめぐる実力攻防のさなかの悲報であった。闘いに生き、信念を貫いた生涯を閉じられた。
 鈴木幸司さんは、三里塚空港反対運動の最初から実力攻防の先頭に立ってきた。第一次代執行、強制測量阻止闘争を、体を張って闘った。強制測量阻止闘争では、鈴木さん自身が不当逮捕されている。
 芝山町菱田地区で、集落の中での孤立を強いられながら、頑として成田用水反対を貫いて闘ってきた。「用地内」の闘いとともに、成田用水反対闘争において一歩も引かずに闘った菱田での闘い、鈴木さんの闘いがあったからこそ、反対同盟の現在があると言いうる。鈴木さんは八〇年代、芝山町議としても、用水推進派との熾烈な攻防を闘った。
 鈴木幸司さん、いとさんは、自らの名義となっている一坪共有地裁判(千葉県・企業庁が一坪共有地を含む土地を強奪し、整地した上で、空港会社に払い下げるという攻撃)を闘ってきていた。最期まで、権力の横暴と対決して、その信念を貫いた。
 信念を決して曲げることなく人生をかけて空港反対運動を闘ってきた鈴木幸司さんは、三里塚空港建設の中に、はっきりと侵略戦争の本質を見抜いていた。
 成田空港そのものが軍事使用を重要な目的として建設されてきたことと同時に、自らの戦争体験から、空港建設のあり方そのものを戦争に向かう流れであると見定めていたからだ。鈴木さんは、さまざまな場で、自身の戦争体験から空港反対闘争の真髄を語ってきた。一九九一年に発行された二期阻止全国共闘のパンフレット「反戦の道ひとすじで」の中で、鈴木さんは対談の冒頭にこう語っている。
 「やっぱり三里塚の問題ってのは、一方的に空港が三里塚に決定されたのと同時に、強制測量の問題がある。要するに強制ってのはわれわれも戦前、戦後を通じて見たときに非常に恐ろしい事なんだ。戦前とまったく同じことになる。俺自身も戦後民主主義だなんて言葉を聞きながら、実際空港問題を通してみると、どこに民主主義というものがあるのかと、非常に疑念どころか怒りをもった」。
 空港建設を国策として強行してきたとき、国家が人民(農民)に対してなしたことは、まさに侵略戦争に人民を動員していったのと同じ「強制」だったということである。鈴木さんは直感的に戦争と直結していると感じ取っていたということなのだ。
 鈴木さんは、侵略戦争について語るとき、必ず、天皇の戦争責任と、戦後ものうのうと延命した天皇への憤りを繰り返し訴えていた。日本の侵略戦争の本質を見抜いたところで、戦争を強制し、戦争で利益を得る者たちを心底憎んでいた。戦争について語りだしたら、寝ることも忘れ、その思いを伝えようと情熱的に語った。鈴木さんの決して屈しない信念は、この戦争体験と戦争を絶対に許さないという思いに発したものだった。同時に、三里塚闘争の実力攻防の中で、そして、全国から結集する支援者たちとの論議を通して、揺らぐことのない確信として高められたものだった。
 鈴木幸司さんは、九州で行なわれた政治集会には何度も参加していただいた。政治集会の反対同盟アピールはもちろんだが、集会の前後に行なわれた交流会の場においても、この反戦・反天皇の思想と三里塚闘争に対する信念を、熱く語った。また、学生や青年労働者に対して、営農と闘争と、両方を受け継いだ息子―謙太郎さんについて語り、信念を貫いた闘いが若い人々にいかに伝わっていくのかを、真剣に論ずることもあった。
 三里塚闘争の最後の勝利を見ることなく、逝ってしまわれた鈴木幸司さん。その反戦の闘いと三里塚闘争そのものを、われわれ一人ひとりがしっかり受け継いで闘わなくてはならない。
 鈴木幸司さん、いとさん夫妻が先頭に立ってたたかってきた一坪裁判はまだまだ続く闘いである。
 いとさん、謙太郎さん、加代子さんが現地攻防、裁判闘争を担っている。「用地内」の攻防とともに、この菱田での闘い、営農をしっかり支えていくことが問われている。
 鈴木幸司さんの闘いと信念をしっかりと受け継いで、三里塚闘争の勝利をつかみ取るまで闘いぬくことを誓い、追悼のことばとしたい。

 

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