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  上杉論文(第一三五四号)を読んで

    「ネグリ・非物質的労働」批判への疑問




 「ネグリの『帝国・マルチチュード論』は21世紀の革命の理論たりえるか」をタイトルにして、一二八五号(〇七年六月)から開始された上杉論文の連載が一三五四号(一〇年七月)をもって終了した。上杉同志の労作を、私は毎回、楽しみにして読んできた。学ぶところも多かった。何よりも世界的にも大きな影響力を持つネグリという、現代思想の一面を代表する左翼思想家の言説を正面から取り上げて、マルクス主義の立場からその評価・批判に挑戦するという態度には共感を覚えるところ大であった。われわれがマルクス主義者・レーニン主義者として、「二十一世紀の革命理論の創造」を問題にするなら、現代思想批判の領域は不可欠である。今後も、ネグリ評価にかぎらず、こうしたフィールドでの作業が継続されていくことが望まれる。
 しかし「批判」においては、留意せねばならない点がある。われわれは批判対象の主張を、できるだけ正確にとらえるよう努力する必要がある。これが前提である。批判しやすくなるように、それらを自分の枠組みから恣意的に理解してしまうこともおうおうにしてある。そうなれば、批判は単なるレッテル貼りとなり、人を本当に納得させる力を持ち得なくなる。何のために「批判」をしているのか、本来の目的が見失われることもままあることだ。
 私がここで指摘しようとしているのは、まさにそうした問題に関わることである。今回の連載・最終論文(以下「下論文」とする)には、ネグリ批判のある重要な部分において、大きな疑問を抱かざるをえない箇所が散見される。執筆者はネグリの主張を公平にとらえているのかという点で疑問がある。私が直接問題にしているのは、ネグリの言説においてキー概念のひとつとなっている「非物質的労働」「非物質的生産」についての下論文の理解の内容である。執筆者との討論も行なったが、機関紙上で私の見解を示すのが良いだろうということになり、この一文を書くことになった。

 ●1 「非物質的労働」についてのネグリらの考え

 アントニオ・ネグリは(そして『帝国』などの共著者であるマイケル・ハートもまた)、現代における労働と生産の形態的・質的変化に着目しながら、そこから何がしかの新しい思想を生み出そうとしてきた。そうした試みを、私はその姿勢において評価する。社会の「実在的土台」をなす労働や生産の概念が軽視され、それらについての学問的・思想的探求も停滞しているというのが現代の状況である。こういう風潮のなかでは、ネグリらの試みはもっと高く評価されて良いのではないかと思う。
 「諸個人が何であるかということは、彼らの生産の物質的諸条件に依存する」(マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。われわれが何であるのか、あるいは「われわれ」によって形づくられるこの社会が何であるのかは、つねに歴史的に規定された生産様式のあり方によって条件づけられている。だから、「何が」「いかにして」生産されているのかを知ること、そしてそれらがどのように変化しているのかについて認識を深めていくことは、われわれが社会や歴史や人間について深く理解していくうえで不可欠である。労働と生産の概念を重視するネグリらの方法は、この点で基本的にマルクス主義的なものである。われわれはネグリらの主張を無視することもできるが、そうもせず、時にかれらの主張に感心したり、逆に根本的な欠陥を感じたりもし、全体として興味深くかれらの主張を検討することができるのは、ここに根拠があるのだろうと私は思う。
 労働や生産の変容についてのネグリらの主張は、ある意味、非常に分かりやすい。ネグリは次のように言う。「どの経済システムにおいても、無数の多種多様な労働の形態が横並びになって共存していますが、しかしまた、他の諸形態にたいして自らのヘゲモニーを発揮する労働の形態がつねに存在します。このヘゲモニーを握った労働の形態が渦巻きを引き起こして、自らの中軸的な性質を受け入れるよう、他のもろもろの労働形態を変形させていくのです。このヘゲモニーを握った労働の形態は量という点では支配的ではありませんが、他の諸形態を変形させる力をもつという点で支配的なのです」(『アントニオ・ネグリ講演集・上』P150)。このようなネグリの着想には同意できる。歴史的にみて、労働形態は(そして生産形態もまた)まさにそのようにして変化・発展してきたと思えるからである。
 近年ここに大きな変化が起こったとネグリは言う。新たに「ヘゲモニーを握った労働の形態」のことをネグリは「非物質的労働」と呼び、これが「物質的労働」に代わり支配的な労働の形態となったと主張する。非物質的労働と物質的労働とは、それがつくり出す生産物の違いによって区別される。非物質的労働の生産物は「知識、情報、コミュニケーション、言語的あるいは情動的な人間関係など」(同前P151)である。物質的労働の生産物は「たとえば車やテレビ、衣服、食料品など」(『マルチチュード・上』P242)、一般に産業生産物、工業製品や農産物と呼ばれるものと理解すればよいだろう。
 「何をつくりだすのか」の違いによって労働は物質的労働と非物質的労働に分けられるが、いずれの労働も「価値―創出の実践」(『ディオニュソスの労働』P23)であるというのがネグリらの主張のもうひとつのポイントである。つまり、物質的労働ばかりでなく非物質的労働もまた価値をつくりだすというのである。これによって、剰余価値を生み出すか・剰余価値を実現するのかで旧来、区分されてきた生産的労働と不生産的労働、あるいは賃金を支払われる労働(賃労働)であるか否かを区分の基準にした生産労働と再生産労働などの相違は、もはや意味をもたなくなったと結論づけられる。そしてここからネグリらは、新しい階級としての「マルチチュード」の出現を説き、さらに「帝国」と対峙するマルチチュードを革命の主体とした「コミュニズム」の成熟についても論じることになる。ネグリらにとって「非物質的労働・非物質的生産」は、「マルチチュード」「帝国」「コミュニズム」などについて展開していく、その出発点に置かれた欠くことのできない概念である。ネグリらの主張は示唆に富んでおり、立場を異にするわれわれにも大いに参考になる。

 ●2 下論文の「非物質的労働」把握の一面性

 本題にもどろう。上杉論文・下論文では、「ネグリ理論」批判の一環として、「非物質的労働」概念についての内容紹介が冒頭部分などで行なわれている。そこで述べられている内容は、根本的に間違っているとは言えないにせよ、ネグリらが提起している内容の核心部分をつかむことには成功していないと私には思える。下論文は、ネグリのいう非物質的労働とは、「工場労働」とは区別された「工場外の労働」であるととらえている。具体的には次のように主張されている。「ネグリは『階級論』で『工場労働』以外の労働を『社会化された労働』『非物質的労働』という具合に、区別だてして規定し……」。「彼(注・ネグリ)は……非物質的労働という『工場外』の労働の担い手を、現代世界の構成と変革の基軸的、積極的主体として位置付ける」。下論文は、ネグリらの「非物質的労働」と「物質的労働」とを分かつ基準は「工場の内か外か」であると把握したうえで、「ネグリの非物質的労働とは工場外労働のことだ」との解釈を示している。しかし、これはネグリの主張に対する誤解であると言わざるをえない。
 くり返すが、ネグリの「非物質的労働」と「物質的労働」とを分けるものは労働生産物の違いである。その労働がどこで行なわれるのかは、ここでは問題にされてはいない。注意して読めば分かるが、ネグリらはヘゲモニーを奪われつつある物質的労働を「工業労働」(工場労働ではない!)に代表させて表現している。「二十世紀末の数十年間に、工業労働はその主導権を失い、代わりに主導権を握ったのは『非物質的労働』だった」(『マルチチュード・上』P184)。ネグリの「物質的労働」は文字通り「モノ」をつくりだす労働である。それは具体的に言えば、工・鉱業労働や農業労働などである。他方、非物質的労働とは、技術開発労働、商業労働、医療労働、福祉労働、教育労働、介護労働……などをさす。これらの労働は工場内で行なわれるものもあれば、そうでないものもある。物質的労働には工場外の農業労働等が含まれ、非物質的労働のうちには技術開発労働など工場内の知識労働などが含まれうる。これらを踏まえれば、「ネグリは非物質的労働を工場外労働と規定している」という下論文の理解は的はずれなものだと言える。
 下論文は「工場労働の意義は防衛されねばならない」という意想を展開の前提・起点にしているので、いきおい非物質的労働についての理解もネグリ批判も一面的にならざるをえなくなるのではないかと私は推測する。下論文の「ネグリ・非物質的労働批判」の根底には、ネグリは工場労働の意義を不当に低めている、反対にネグリは工場外労働の「優位性」を不当に持ち上げているとの「批判」があるように思える。だが、そうした「批判」はネグりの主張をきちんととらえたものであるとは思えない。「批判」は空を切っている。
 工場労働や工場外労働という言葉について考えてみる。これらの言葉には労働が行なわれる場所がおおまかに示されてはいるが、労働の内容が示されているわけではない。そこでは、何らかの「使用価値」をつくりだす「具体的有用労働」としての労働の姿態は明らかにされることはない。コンピューター・ネットワークで結ばれ、情報化や無人化が進む二十一世紀の最新鋭の工場では、さまざまな種類の労働が並存・混在している。ここでの労働をただ工場労働と言ってみても、労働の中味は何ひとつ明らかにならない。大工場制が資本主義的生産様式の中心を占めていた時代には、工場労働という言葉で労働の内容をある程度表現することもできたかも知れない。しかし、生産と労働の形態・内容がますます変化し複雑化する現代においては、工場の「内か外か」を基準にして何か労働の本質的な相違を示すことはますますむずかしくなってきている。工場や工場労働などの言葉が持つ意味自体が揺らぎつづけていると言える。下論文には、工場労働をめぐるこうした変化はほとんど考慮に入れられていないように思える。

 ●3 生産様式の変化と「工場」

 ネグリらがなぜ非物質的労働という概念を使っているのかが、下論文においては十分に理解されてはいないのではないかと思われる。ネグリらが問題にしているより本質的で普遍的な問題は、生産様式の変化をいかにとらえるのかということである。非物質的労働についてのネグリらの見解は、この問題に対するひとつの回答として読むことができる。
 周知のように、すでに数十年前から、資本主義の経済システムに大きな変化が起こっていることがつとに指摘されてきた。それらは「脱工業化」「経済のサービス化」「経済の情報化」「第三次産業の隆盛」などと種々表現されてきた。多くの学者・研究者たちがこの新しい現象について、さまざまな主張を行なってきた。一例をあげれば、最近『もしドラ』ブームで再び注目を集め、「企業経営の神」ともてはやされてきたP・Fドラッカーの主張である。彼は一九九三年に刊行した『ポスト資本主義社会』において「知識社会」という新たな社会が近い将来到来すると述べた。彼はそこで「基本的な……『生産手段』はもはや、資本でも、天然資源(経済学の『土地』)でも『労働』でもない。それは知識となる」「製造業、農業、鉱業、輸送業における肉体労働者の生産性の向上は、もはやそれだけでは富を創造することはできない。……今日以降、問題となるのは、非肉体労働者の生産性である」などと自説を展開した。ドラッカーの「ポスト資本主義社会」は、非・資本主義社会のことではない。彼は、戦後世界資本主義の発展を支えたフォーディズム的生産様式後のそれがどのようなものになっていくかについて、予見的にその輪郭を描こうとしたのである。この点でドラッカーに一定の「功績」が認められるとしても、彼は新たな資本主義の展望を語る以上のことはしなかった。広い意味ではネグリらも、この「資本主義の生産様式にどのような変化が起こっているのか」という点について、ドラッカーらと問題意識を共有している。だがネグリらの試みはドラッカーとは異なる。ネグリらの目的は、あくまでも資本主義を超える社会を展望することにおかれている。
 生産様式の変化をとらえるひとつの重要なポイントとして、工場がどのように変化していくのかという問題がある。ネグリらは「労働が工場の壁の外に溢れ出す」(『帝国』P499)と言う。工場の壁が崩れて工場が消滅するというのではない。もはや工場の役割は終わったというのでもない。工場の内部と外部の境界があいまいになるとともに、工場が新しい役割をにないながら社会全体に影響をあたえていくということである。ネグリらは「工場―社会」という新しい概念を使って、次のように主張する。「私たちが近年目撃してきた労働の変容のなかでもっとも重要な一般的現象は、私たちが工場―社会(factory-society)と呼ぶものへの移行である。工場をパラダイムとしての場あるいは労働と生産の集中の場として捉えることは、もはや不可能である。労働諸過程は工場の壁の外へと移動して社会全体を包み込むにいたった。言い換えれば、生産の場としての工場の後退は明らかなのだ。だがそれは工場生産の体制および規律の後退を意味しない。むしろそれは工場が社会におけるある特定の場だけにはもはや局限されないということを意味しているのである。あたかもウィルスが蔓延するように、工場は社会的生産のあらゆる形態へ浸透していったのだ。いまや社会のすべてに、工場体制が、すなわち固有な意味での資本主義的な生産諸関係の支配がくまなく浸透している」(『ディオニュソスの労働』P25)。「生産の場所としての工場」の位置は後退するが、逆に工場の体制と規律は社会全体に浸透していくというのである。これらは日本を含む先進資本主義諸国(帝国主義諸国)で進む現実の一端を的確に言い当てているように思える。われわれがこの点に加えるべきは、「労働諸過程」が「工場の壁の外へと移動」するとしたとき、他方ではそれは国境の壁を越えて、自国以外の他国(第三世界諸国を含む)の社会にも流れ込んでいくということである。そこでは資本主義的生産様式の移植・発展が促進されて賃労働―資本関係が再生産されるとともに、ほとんどの場合、労働者階級に対する資本の過酷な搾取・抑圧がもたらされるということである。たとえば日本の工場が中国などへ移転されたとする。そこでは決死の覚悟で資本との闘争に立ち上がる労働者たちを大量に生み出すほどの、日本資本による激しい搾取と労働者支配がつくりだされるのである。それは資本と労働過程がたんに「移動」したという言葉ではとらえられない事態である。ネグリらには、こうした問題を重要かつ本質的な問題として把握しようとする問題意識は希薄であるように思われる。帝国主義による世界支配を軽視(否定)しているがゆえだろうか。

 ●4 いかなる立場から現代思想批判を取り上げるか

 上杉論文・下論文はネグリの「工場ぎらい」(一三二四号)を批判し、工場労働・工場労働者の位置はいぜん重要性を減じてはいないと主張する。またネグリは「社会的諸集団」への「抑圧の中身を素通り」している、ネグリには労働者階級内部の、あるいは「労働者と被抑圧人民」の「連帯の論理が基本的に欠如している」、ネグリは「プロレタリアの団結の意味について常に捨象」しているなどと批判している。そして階級形成と階級的団結の意義、「コミューン、ソビエト的団結」の重要性について強調する。これらは「ネグリ理論」に内在する悪しきユートピア性、とくにそれが階級の団結論を欠如させているという点への批判としてはまったく正しい。展開されている内容も基本的にその通りだと思う。しかし、それらの主張はネグリらが提出している積極的論点(労働と生産形態、生産様式の現代的変容をいかにとらえるのか。そのなかで旧来の主張はいかに検証され見直されるべきか……)との関係で、どのような位置をもっているのだろうか。結果として下論文の論述は、こうした論点にはふれることなく、われわれのこれまでの主張を対置してネグリ批判とするという水準で終始してしまっているのではないかと私には思われる。
 われわれが正しいと思っていることを述べ立てつづけることは、ときに有害な役割を果たすこともある。われわれの主張を今あるその限界のうちにとどめ、そこに固着させてしまう可能性があるからだ。われわれがネグリらの現代思想を批判の俎上にのせようとするのは、それらに対してわれわれの主張が優れていることを誇るためではない。われわれの党の内容を発展させていく契機として、われわれと生きる時代を共有する現代思想への「評価と批判」は位置づけられるべきである。それらが成立しているには、それなりの現実的根拠がある。根拠があるからこそ人々に対する大小の影響力をもつ。われわれはさまざまな現代思想の成立の背後に、いかなる現実が存在しているのかをこそ問題にすべきである。
 「ネグリ・非物質的労働」への評価・批判は、とりわけわれわれの階級論の原則的部分を強化し、われわれの階級論にある抽象性を克服していく契機として役立てていくことができる。産業構造の世界的な改編を背景に、労働者階級下層が国内外でぼう大に生み出されている。そのことを事実として的確に把握しつつ、新たに生まれつづけるこのプロレタリア階級の革命性の根拠、その団結の必然性の根拠を、階級論の必須の課題として明らかにしていくことが必要である。それは、われわれのもっとも重要な理論的テーマのひとつである。(海)


 

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