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   ■萩原進さんの逝去を悼む
   
(三里塚芝山連合空港反対同盟 事務局次長)


  倒れる直前まで農地強奪阻止を陣頭指揮


 三里塚芝山連合空港反対同盟の事務局次長 萩原進さんが昨年十二月二十一日、心筋梗塞で逝去された。その日は夕刻から産直の忘年会が行なわれていた。会の終了後、発作が起こり、萩原さんは帰らぬ人となった。六十九歳だった。
 三里塚闘争をたたかってきたすべての人びとにとって衝撃だった。
 萩原さんは、倒れる直前まで、市東さんの農地強奪阻止を軸とした現地攻防、裁判闘争の陣頭指揮をとっていた。三月に始まる控訴審に向けて、新たな署名運動、三月全国集会の方針を確定した直後だった。この戦列の最前衛にいた進さんがいなくなることを誰が想像しただろうか。
 私たちは、三里塚闘争をともにたたかってきた者として、哀悼の意を表する。
 私たちは、深い悲しみを抱えたまま、それでもなお、最後まで闘争方針を明示してくれた萩原さんの遺志をしっかりと受け継ぎ、三里塚闘争の勝利まで反対同盟とともにたたかいぬくことを、ここに誓う。

 ●実力武装闘争を先頭で闘った青年行動隊長

 農民として生き、青年行動隊長として、また、八三年以降は反対同盟事務局次長としてたたかいぬいた萩原さんの人生は、三里塚闘争の歴史そのものであった。
 萩原さんは一九四四年に遠山村堀の内に生まれ、両親と共に成田市東峰の開拓地に移り住んだ。県立多古高校を卒業し、親とともに農業に従事していた。当時、北総地域は、農業構造改善事業としてシルクコンビナート事業に認定された。養蚕業に展望を抱いた萩原さんは、信州大学に研修にも行き、大金も借りて準備をした。
 しかし、一九六六年六月、佐藤内閣は成田空港建設を内定した。二十一歳の農業青年の夢は、突如決定された成田空港建設計画に押しつぶされた。
 いくつもの裁判闘争の法廷で証言に立った萩原さんは、空港反対闘争に決起した最初の思いとして、このときの憤りを必ず語ってきた。高度経済成長期の日本資本主義が、農村の若い労働力を都市の工業へと動員していた時代、日本の農業に展望がある時代ではなった。そういう時代に開拓農家に育ち、何とか自らの人生の展望を見い出そうとした青年の夢。農業にかけた未来。家族の生活。そのときに押しつぶされた思いは、人生をかけて政府と対決してきた萩原さんの心底に焼きついていたのだと思わずにはいられない。傍若無人な政府を絶対に許せなかった青年の憤怒は、不屈のたたかいに自らを駆り立てる静かな炎となって、心の奥底に燃え続けてきたのだろう。
 反対同盟は六七年、日共と決別して空港建設実力阻止の路線をはっきりと選択した。そして、このたたかいの最先頭に立ったのは青年行動隊だった。六八年6・30全国総決起集会で、青年行動隊は全員が武装して登場した。萩原進青年行動隊長が決意表明を行なった。「今、われわれは鎌を握り、竹槍をかついだ。国家権力の弾圧から自分を守るために武器を持って立ち上がったのだ」。
 六九年、空港公団は土地収用法にもとづく事業認定申請の準備を進めていた。空港用地となった御料牧場は閉鎖されることになっていた。六九年八月十八日、反対同盟二百名は、御料牧場閉場式に突入して、これを粉砕した。この実力闘争に対して、政府は事後弾圧に踏み込んだ。反対同盟一名、青年行動隊七名を逮捕した。萩原青行隊長は、この弾圧を脱したが、全国指名手配となった。一ヵ月後の九月二十八日、全国指名手配のまま、萩原さんは「事業認定粉砕全国集会」の壇上に登壇して、劇的な決意表明を行なった。
 空港公団が七〇年強制測量、七一年強制代執行、大木よねさんに襲いかかって農地を強奪した残忍無比な攻撃へとエスカレートしていく中で、地下壕戦、砦死守戦、機動隊との正面戦、遊撃戦、9・16東峰十字路戦闘へと、反対同盟と全支援のたたかいは進んでいった。この実力武装闘争を、青年行動隊をはじめとした反対同盟自身が主体的に選択して、支援学生・労働者とともにたたかい、文字通り革命的労農学の団結で実現したところに、日本階級闘争における金字塔としての三里塚闘争の意義がある。

 ●日本階級闘争総体を牽引してきた三里塚闘争

 萩原さんは、青年行動隊隊長として、土地収用法―強制代執行に対する実力武装闘争、開港阻止決戦、成田用水―「話し合い」攻撃粉砕などの攻防を、最先頭で自らたたかって牽引してきた。八三年3・8分裂以降は、反対同盟事務局次長として、北原事務局長を支え、反対同盟総体を率いてきた。二期工事阻止決戦、土地収用法を事業認定期限切れに追い込んだたたかい、成田治安法封鎖処分・除去処分との攻防、暫定滑走路建設阻止闘争、市東さんの農地強奪阻止闘争。萩原さんは、これらすべてのたたかいの戦略を練り、闘争現場で直接指揮をとってきた。
 三里塚闘争はまずもって空港反対をたたかう三里塚農民のたたかいであるが、同時に、七〇年代以降の日本の階級闘争の、最も戦闘的で革命的な内実をもった闘争であった。北原さん、萩原さんが先頭に立った三里塚闘争は、日本の住民運動、労働運動、被抑圧人民・被差別大衆の解放闘争、階級闘争総体を革命的に牽引してきたと言い得る。萩原さんは、三里塚闘争が成田・芝山の農民の闘争であると同時に、全国に、さらには国際的にも影響を及ぼすことを理解した上で、徹底非妥協の路線を堅持し、闘争方針を策定してきた。
 萩原さんは、あくまでも農民としてたたかってきた。自ら「用地内」農民として、無農薬産直野菜づくりで生計を立て、農業を続けていくことの展望を、身をもって示してきた。農民として生き抜くことが、すなわち、空港を拒否してたたかう道である。TPPに反対し、全国の農民に三里塚闘争を呼びかける。そういう生き方を市東孝雄さんとともに実践してきた。
 二〇一一年3・11以降は、沖縄・福島と結合する三里塚闘争を掲げ、改めて全国の住民運動の先頭に立つ方針を鮮明にしてきた。今、安倍右翼反動政権がその本性をあからさまにして侵略反革命戦争への道をひた走る中で、その矛盾と弾圧が集中する三里塚、沖縄、福島から反撃する、この陣形は大きな意味を持つ。
 私たちは、萩原さんが堅持してきた農地死守―軍事空港粉砕、徹底非妥協―実力闘争の三里塚闘争を、反対同盟を支えて、ともにたたかう。市東さんの農地強奪阻止を最大の課題とした今冬からの攻防を全力でたたかう。

 ●今こそ弾圧を打ち破る闘いを

 十年前の春、反対同盟が主催する団結花見の場で、萩原さんは「青年行動隊長が還暦になってしまったよ」と恥ずかしそうに笑いながら、話しかけてきたことがあった。
 憤りを抱えて立ち上がった青年行動隊長が還暦に至り、七十年の人生の最後まで政府と対峙しぬいてきた。その人生を思うとき、萩原さんのたたかいに最大の敬意を表すると同時に、日本帝国主義の執拗で残忍な弾圧と空港建設強行に改めて心底から怒りがこみ上げてくる。
 最後に、六九年九月二十八日、全国指名手配のまま登壇した萩原進青年行動隊長の決意表明に、今一度耳を傾けよう。
 「われわれはこのような弾圧の中で、今こそ、本当にたたかうのか、あるいは、敵の攻撃の前に屈するのか――革命か反革命かの激動期をつくらなければならないだろう。自分は今日、全国指名手配という権力の暴挙の中において、素直に考えることは、このような権力の集中攻撃をあびることに非常に誇りをもつ。そして、このように三里塚闘争を戦闘的にたたかえることは非常なる幸福である。現在の権力の中に、そして、たたかいを展開する中で、弾圧が加えられないようなたたかいは決して存在しない。弾圧が加えられておる社会は人民の社会ではないはずだ。この弾圧をはねのけてこそ、粉砕してこそ、はじめてそこに平和が、いっさいの解放のきざしが見えるのではないだろうか」。
 弾圧が集中する中で、萩原青年は決然と立ち、かつ、静かな心で、労働者階級人民の決起を信じ、実力闘争への決意を明らかにした。この決意が反対同盟の総意となって、七〇年―七一年の決戦を切り拓いていったのだ。しかし、これは過去のことではない。今、二〇一四年の現在にあって、萩原進さんのこの言葉こそが、私たちを奮い立たせるだろう。



 

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