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   集団的自衛権「合憲」化粉砕!

  
                   安保法制粉砕にむけて

 


 安倍・自公政権は、集団的自衛権行使にむけた与党協議を開始した。そして、今国会会期中に関連する安保法制の成立を図ろうしている。また、安倍は、国連を21世紀にふさわしい姿へと変革するとして施政方針演説において国連の安全保障理事会・非常任理事国に立候補することを表明した。戦後七十年にして日本を「戦争のできる国」「戦争をする国」へと大きく転換させようとするこの歴史的局面において、反戦、反改憲闘争の大闘争で安倍・自公政権を打倒していかなければならない。集団的自衛権行使にむけた法案策定が差し迫った今日、集団的自衛権とはそもそも何であるのか、その背景と真の狙いを再確認しておくことは極めて重要である。そして、われわれはこれといかに闘っていくのか。集団的自衛権の「合憲」化と「行使」に反対する様々な意見がある中で、ここでは紙幅との関係から「他国の戦争への巻き込まれ」論についてふれ、本格化する集団的自衛権「合憲」化と関連法粉砕の闘いの一助としたい。

  ●1章 集団的自衛権とは何か

 これまで政府は、集団的自衛権を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」としてきた。そして、その行使は憲法第九条により禁じられていると解釈・説明してきた。しかし、安倍は、こうした自民党の歴代内閣はもちろん内閣法制局により一貫して否定されてきた集団的自衛権の「行使」を現行憲法内でも可能あり、「自衛」の範囲だと言いくるめて「合憲」化と「行使」に踏み込もうというのである。現状、憲法の明文改憲が不可能とみるや一内閣での「解釈改憲」の集団的自衛権に踏み込もうとする安倍に対して、立憲主義を真っ向から否定する「壊憲」策動との批判が浴びせられているが、ここではそうした論点はふれない。後日、本紙上での批判に譲ることとする。
 では、集団的自衛権とは、そもそも何であるのか。集団的自衛権は、国連憲章第七章第五一条に規定されているが、この概念は如何なる経過で国連憲章に持ち込まれたのであろうか。五一条では「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。(後略)」と規定されている。
 これは国連憲章起草過程において「国際の平和及び安全の維持」の権限を国連安全保障理事会に一元化するという原則に対して「例外条項」を求める動きが噴出したことがその背景にある。旧枢軸国に警戒感をもつフランスやソ連はすでに締結していた相互防衛条約を国連外におくことを求めていた。また、アメリカも中南米諸国の相互防衛のためのチャプルテペック決議を合意しており、こうした地域的な取り決めにフリーハンドを確保しておきたいという思惑をもっていた。
 二度の凄惨な世界大戦を経て「国連」という国際組織を編み出し、戦後世界の編成を志向しつつ例外規定を残しておきたいとする各国の利害が複雑に絡むとともに、それは自衛権の行使なのか、自衛権だとすれば適応範囲をどうするのかといった調整の中から「個別的又は集団的自衛の固有の権利」が加盟国に認められたのである。そして、自衛権はあくまでも行使を「妨げられない」ものであり、安保理が必要な措置を取るまでの暫定的、緊急避難的なものと位置づけられているのである。
 先の政府見解で見たように集団的自衛権の行使とは「外国に対する武力攻撃を自国が直接に攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する」ことであり、「自衛」ではなく他国の防衛、つまり「他衛」が本質である。しかし、安倍や安保法制懇のメンバーは、こうした集団的自衛権の憲章における位置づけや本質を意図的に糊塗し、別の問題にすり替えながら強行突破をはかろうとしている。
 昨年の五月、安保法制懇からの報告を受け取った後、安倍は、演壇で二枚のパネルを掲げ「国民の命と暮らしを守る」と繰り返した。パネルの一枚には、米軍の輸送機に乗り、紛争国から日本へ向かう日本人家族が描かれていた。そして、集団的自衛権の行使が許されない現状では、こうした「日本人の家族を守れない」「これが憲法の現在の解釈だ」と声を張り上げたのである。
 今回、安倍が示したこうした事例や公明党との与党協議で検討すべき十五の事例などを見るとき、軍事的常識や実態をまったく無視した仮定をデッチあげ、「必要最小限」論と抱き合わせて集団的自衛権の「行使」へと一気呵成に踏み込んだのである。朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして、湾岸戦争から本格化した「対テロ」を口実に集団的自衛権を根拠に「多国籍軍」や「有志連合」を編成し、殺戮を繰り返してきた米帝とともに、「自衛」の名のもと他国への侵略と人民殺戮を行なうことが集団的自衛権行使の真の意味である。

  ●2章 集団的自衛権行使の背景と行きつく先

 次に、その背景とりわけ米帝の狙いについて見ておかなければならない。米帝は、NATOが行っている対米軍事協力(なんらかの国連安保理決議をもとに、米軍が行う軍事力行使に対しては、NATO諸国が「集団的自衛権行使」として参加する)レベルにまで日米軍事同盟を引き上げることを狙っており、安倍はそれに積極的に応えようとしようとしているということである。
 安倍は、二〇〇四年に出版した『この国を守る決意』の中で「軍事同盟というのは〝血の同盟〟です」と定義し、米軍が攻撃された時に自衛隊が血を流すことができなければ「完全なイコールパートナーと言えるでしょうか」と日米安保同盟を「双務的」なものにしていくことが必要だと述べている。自公の安保法制協議における、「国連安保理の決議の有無にかかわらず集団的自衛権行使ができるようにする。アメリカ以外の国々に対しても後方支援ができるようにする」等々の意見からも明らかなように、安倍が目指しているのは、まさに「NATO並みの日米軍事同盟」の実現にあることは明白である。
 米帝は韓国との2+2の共同声明において「双方は、米韓同盟をグローバル・パートナーシップに発展させるという誓約を再確認した」と述べている。現在ある米韓、米日の各同盟関係を文字通りの日米韓の軍事同盟として、アジアにおけるNATO並みの軍事同盟へと発展させていくことを米帝は要求している。
 事実、米統合参謀本部議長のデンプシーは「アメリカは、アジアの同盟国に対し、二国間同盟を超えて、より大きな多国間安全保障協力の時代に向かうことを奨励しなければならない」と述べている。米帝は一九九九年段階でNATOについて「冷戦後のNATOの戦略的軍事目的は、NATOの領域を超えて軍事力を展開できる『有志連合』軍を急速に作り上げるメカニズムを提供することだ」と明らかにしていた。さらにNATOのパートナー・シップ・プログラムは、「現在の平和維持以上のレベルに引き上げられるべきだ」とも述べていた。その目的は、「パートナー諸国がNATO軍とともに『有志連合』を組み、NATOのすべての任務を担うことだ」と。米帝の思惑は、極めて明らかである。
 国連の安保理とは無関係に米帝との軍事同盟を形成するNATOには、その「領域」を超えて米軍に協力することを、また米帝と直接的な軍事同盟を結んでいないパートナー諸国には、NATO並みの軍事協力を「有志連合」として求めていたのである。事実、二〇〇一年の9・11米帝に対する同時多発攻撃以降、米帝は、「対テロ」戦争として「有志連合」の形で直接的な軍事同盟関係の有無にかかわらず米帝の世界戦争戦略への他国の巻き込みを強めている。
 ちなみに最近では「イスラム国」への攻撃に対して「日本は有志連合に入っているのか否か」をめぐって論議となった。この「有志連合」についてであるが、これは、二〇〇三年二月、当時の国防長官ドナルド・ラムズフェルドが「人類史上最大の連合」と評した米帝のアフガニスタン攻撃において国連安保決議一三六八による集団的自衛権をNATOが主張したものの、国連の事前の決議で承認されたものではなかった。さらに参加国軍は憲章で定める「国連軍」ではないことはもちろん、米帝と特に同盟関係にはない国も参加していること、そして、本来の同盟関係国が参加していないことなど、憲章五一条にもとづく多国籍軍でもないその連合的軍隊を呼ぶ適当な言葉がなかったため名づけられたものである。この語が使われるようになったのはイラク戦争後であるが、実態的にはこの有志連合の形はすでに中東湾岸戦争によって現れており、この戦争では米帝を中心に、エジプト、サウジアラビアなどのアラブ諸国を含めて三十ほどの国が「多国籍軍」を結成してイラクを攻撃しているのである。
 こうした米帝の戦争戦略をみるならば、今、安倍が踏み込もうとしている集団的自衛権行使の行き着く先は明らかであろう。「国民の命と暮らしを守る」とはまったく無縁・ウソであるばかりか、「日本」を「戦争の当事国」、「国民」を「戦争の加担者」「加害者」へと仕立て上げようとする地獄への道なのである。

  ●3章 「他国の戦争への巻き込まれ」論について

 ここで、集団的自衛権反対論の中にある「巻き込まれ」論について一言触れておきたいと思う。すでに見てきたように、安倍が踏み込もうとしている今回の集団的自衛権の「合憲」化と「行使」は、確かに米帝の要請に負うところが大きいことは事実である。しかし、そのために一方的、無条件的に米帝の戦争に「巻き込まれ」犠牲を強いられるから反対というだけの問題ではないということである。
 すでに日帝は歴史的にも朝鮮戦争時における米軍の輸送や掃海を担い、ベトナム戦争における戦略爆撃機の出撃拠点としての沖縄の米軍基地の存在と日本各地を兵站基地として機能させることで米帝の戦争政策を支えてきたという「加害国」としての歴史がある。さらに二十年近くにおよぶ中東における戦争に対して沖縄の基地がその戦略的要衝として機能し続け、それを許してきているという動かしがたい事実がある。つまり加害の立場に今、初めて立つのではないということを改めて確認しなければならないのだ。ベトナム戦争時、沖縄の基地から飛び立つ爆撃機がベトナム人民を殺戮しているという強烈な加害者として自覚のもとにベトナム反戦闘争と戦後の反戦意識の内実を作り変えてきた階級的反戦意識を今こそ確信としなければならない。
 そして、同時にこの集団的自衛権の行使が、一方で日帝側にとってもその必要性があるからこそ、過半数を超える反対の世論にもかかわらず、これを強行しようとしている点を見逃すことはできない。一九九九年、早くも経済同友会は「新ガイドライン関連の法整備の早期実現」とともに集団的自衛権行使にかかわる「政府の憲法解釈の早期見直し」を求め、二〇〇三年にも「集団的自衛権の行使に関する政府解釈を改め、適正な目的と範囲を踏まえて『自衛権』の行使についての枠組みを固めること」を政府に要求している。同様に日本経団連も、集団的自衛権に関して行使できる旨を憲法上明らかにすべきとしているのである。
 集団的自衛権の行使の真の目的が何であるかは明白である。経済のグローバル化に伴う海外展開を強める多国籍企業とその社員、利益の一切を守るために集団的自衛権の行使が必要なのである。日帝にとって多国籍企業の防衛や資源・エネルギールートの防衛こそ集団的自衛権行使の経済的理由であり、また、米帝を筆頭とする帝国主義主導の世界の政治的・軍事的秩序の維持、再編成のための戦争遂行こそ集団的自衛権行使を急ぐ真の目的であり、狙いでもあるのだ。
 こうした帝国主義者どもによる帝国主義、資本主義の防衛のためにのみ人民が戦争へと動員されようとしている現実に対し、没階級的に「他国の戦争に巻き込まれるから反対」というだけでは、ことの半面しか見ていないに等しい。冷戦の崩壊後、新たな世界秩序の再編成に際して、「国際貢献」や「国連中心主義」さらには「普通の国」を掲げ、日本における安全保障をめぐる考え方を大きく転換させようととしきたのは小沢一郎であった。そして、安倍もまた「積極的平和主義」を掲げ、「日本が世界から信頼される国」になることを目指すとしている。こうした戦後の「安保か平和か」といったパラダイムからのチェンジを図ろうとする極めてイデオロギー的な転換に対して、「巻き込まれ」論だけでは、文字どおり安倍の「積極的平和主義」に「巻き込まれる」であろう。集団的自衛権の真の狙いと目的は何か、それと如何に闘うのか。このことが今一度鋭くわれわれに問われている。


 

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