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   書評

   『一道背負』 田中信幸・著
  
     

 今年八月に中国で田中信幸著、宋金文訳『一道背負 日本父子的侵華戦争責任対話』(ともに背負う:中国侵略戦争の責任をめぐる日本人父子の対話。中国語版のみ)が人民日報出版社より上梓された。構成は、著者の父である武藤秋一が中国侵略の兵士として一九三七~三八年に記した日記、彼に届けられた手紙、田中による日記の出版に至る経緯と解説を中心とし、序文及び訳者の後記とからなる。序文は中国側と日本側の二つがあるが、纐纈厚執筆の後者は時代背景を次のように記す。
「日本の中国侵略は一九三一年九月十八日の満州事変(九・一八事変)から開始される。日本軍は日清・日露戦争を通して、朝鮮半島から中国東北部を射程に据えて絶え間ない侵略戦争を発動し続けた。狭隘な国内市場ゆえに他国の領土を奪い取り、資源収奪と市場確保に奔走したのである。満州事変以降、中国東北部は日本軍による軍事占領が強行され、一九三二年三月には「偽満州国」が建国される。日本政府は国際社会に建国の正当性を訴えたが、当然ながら受け入れるはずもなかった。
 国際社会の批判を無視して、日本は中国東北部の主要都市を軍事占領し、ついには清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀を「偽満州国」の皇帝に据える。日本はこの「偽満州帝国」を拠点にして中国華北部に侵攻する。その延長戦上に、一九三七年七月七日に北京で蘆橋溝事件(七・七事変)が起きる。北京郊外に駐屯する日本軍の挑発行為により中日両軍の戦闘が開始されたのである。この事件を契機に日本と中国は全面戦争へと突き進むことになった。」
 こうした状況の下、武藤の所属する熊本第六師団は南京攻略作戦に従事した。青年時代はプロレタリア文学に傾倒し、『戦旗』や『改造』を愛読していた武藤も、「天皇の赤子」として死ぬ覚悟で戦地に赴いている。日記は、盧溝橋事件が起きた三七年七月の下旬から始まる。軍隊に動員され、翌八月上旬に熊本を出発し、釜山から朝鮮半島を北上。各地で県人会、愛国婦人会から「盛大な歓迎を受ける」。十日に「これが日本の見納めかとの気も」しつつ、中国に入った。部隊は以後、天津を経由して南京に向かう。中国側の抵抗は激しく、各地で戦闘が起こり、犠牲者が続出する様が記されている。その中、武藤は初めて中国人を殺す。
「九月二日
 起床後、簡単な体操があった。同日便衣隊首切りに行く。
 川陽(徳鎮駅の東方)に於いて切る。
 沼田少尉が刀で切った。
 わが分隊は皆一剣ずつ突いた。」
 中国人兵士を殺戮し、集落に火をつけ焼き尽くしながら進む様子が、淡々とした筆致から生々しく浮かび上がる。日本軍にもおびただしい死者が出ている。
 そして、数日にわたる激戦の末に陥落した南京城内に十二月十三日、入った。翌日は市内をつぶさに見ている。
 「警戒兵(午後)二時交代。それより旅団長閣下の護衛をして南京市見学。別図の通り歩き回った。
 南京大街を過ぎて国民政府を見に行った。途中至る処で火災を起こしている。途中公共防空壕が一区に必ず一つは掘ってある。支那兵の死体がおびただしい。」
 十六日、南京を離れて転戦。民家に押し入って食料などを強奪する「徴発」という表現も出てくる。
 慰安所に行ったとの記述が二カ所ある。
 「二月二一日
 今日は楽しい外出日だ。
 石川と二人、まず朝鮮征伐に行く。第四番乗りだった。
 TOMIKO(とみこ)慶尚南道。
 次は支那征伐に行く。第一番乗りだった。
 そして最後に、かって二十時代の恋人八重ちゃんそっくりの、懐かしい竹の7号智恵子さんを訪ねた。そして多少のいざこざは起こしたが、結局とり得ず帰った。智恵ちゃんは泣くし、本当に可愛そうだった。」
 「三月一二日
 外出の楽しい日だ。まず大田黒石川と三人して、慰安所に行った。
 日本、支那、朝鮮を征伐して帰る。
 オデン屋でうんと酒を飲んで酔っ払った。別に異常なし。」
 朝鮮人・中国人・日本人の「慰安婦」への強かんが「征伐」と表現されている。これに関して田中は次のようにいう。
 「慰安所へも2回行った記録がある。朝鮮人慰安婦、中国人の慰安婦、そして日本人慰安婦がいて、この三名に父は挑んだと書いている。私としては誠に恥ずかしい話しである。この中で中国人の「慰安婦」について尋ねたが父は殆ど覚えていなかった。考えてみれば、敵地である中国で、中国人女性を本人の同意の下に日本軍の「慰安婦」に自発的になって貰うことなど考えられない。この女性達を集めてくるのは一般の兵士ではなく「野戦酒保」を管理する主計担当者が行うことになる。日本軍「慰安婦」の研究者の著書で言われているのは、地元の有力者を脅して若い女性を人身御供として差し出させたのではないかということである。日本軍の感覚からすれば「徴発」の一部ではないかと思われる。」
 六月の戦闘で負傷した武藤は移送され、七月六日、上海の病院に収容された。日記はここで終わっている。
 小軍国少年だった田中は、成長とともに次第に社会意識に目覚め、大学では学生運動に参加し、数度の不当逮捕を経験する。闘争のただ中で、父の戦争は侵略戦争だったと確認するに至り、獄中から出した手紙を契機に、父との対話を十年以上重ねた。父は戦争の侵略性を死ぬまで認めなかったが、しかし、ある日、日記を息子に黙って手渡した。田中はいう。
 「私は十年に及ぶ父との戦争責任をめぐる葛藤の一つの区切りとして、「あなたの戦争責任を私も一緒に背負っていく」と父に呼びかけた。そのとき父も頷いてくれた。この言葉を私が亡き父に代わって今世に問うことが私に残された最も重要な課題だと痛感している。」
 侵略戦争の責任を、世代を超えて背負い、果たしていく決意表明だ。その実践として、田中は現在、熊本県における民衆運動の牽引役として、歴史歪曲教科書反対、日韓連帯、反戦反核反原発、差別反対など様々な運動の先頭に立っている。
 父子共同の産物である同書は、侵略戦争法を強行成立させて侵略反革命戦争の前線に自衛隊を送ろうとする安倍政権にたいする日中民衆共同の強烈な反撃の矢となっている。そして、日本の労働者人民が過去の侵略戦争の歴史をはっきりと見据え、深く認識して反省し、そのことを通してアジア侵略反革命戦争阻止の行動に起つべきであることを示す指針の書だ。必読書と言いたいところだが、残念ながら現段階では中国語版しかない。革命的左派潮流内部での中国語専門家の登場と、同書の日本語版が一日も早く陽の目を見ることとを期待する。(高橋功作)


 

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