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   李壽甲さんの闘いの歴史

   
激動の時代と活動の足跡をたどる

                               


 『戦旗』一四五三号(二〇一五年二月五日号)で、韓国の「永遠の鉄道労働者、李壽甲先生精神継承事業会」の活動について紹介した。ほとんど自身に関する記録を残さず急逝された李壽甲さんのたたかいの歴史を残すための活動は、同事業会を中心にして今も進行中である。日本からもぜひその活動に参加していこう。今回は、その一助になるものとして、李壽甲さんへのインタビューによる韓国民主労働運動史解説を収録したAWC日本連のパンフレット(一九九七年発行)、解放六十周年の二〇〇五年八月十五日に放映された李壽甲さん出演のドキュメンタリー番組(韓国KBS)、そして李壽甲さんの一周忌に発刊された遺稿集(二〇一四年十二月十九日発行)に収録されているご遺族のインタビューについて紹介してみよう。

 ●1章
 九六年、日本で「全評労働運動の生き証人」としての活動開始

 自らの「一人称による闘争の歴史」を残さなかった李壽甲さんだが、一九九六年度に日本連の初の韓国訪問団を受け入れ、その後に日本を再訪問した李壽甲さんは、AWCの会員たちの願いに応えて「全評労働運動の生き証人」として、韓国の民主労働運動史に関するインタビューを受けてくださったことがある。手作りの冊子として残っているその記録は、「私自身の経験にもとづいて、韓国の労働運動の始まりと、一九七〇年~八〇年代の労働運動の前進について述べたいと思います」という形で始まる貴重なインタビューである。
 そこには、二十代初めの若い鉄道労組の活動家として全評労働運動の中心を担った李壽甲さんの目から見た全評労働運動の姿が語られている。「労働者だけでなく、社会全般の民主主義社会への変革を求める革新的闘いを全評がたたかったのです。……民主労総は労働者の力で民主主義の方向へ社会改革をすることを目的にしています。かつて全評は、すべての民族の民主主義のために出発し、長い犠牲の結果、(いったんは弾圧されてしまったが)五十年前の精神をそのまま目的として、こんにち民主労総が民衆の底から生まれ発展してきたのです」と、前年一九九五年に結成された民主労総のたたかいへの期待を述べている。
 「これら全評のたたかいは6・25戦争(朝鮮戦争)で、米軍政と親日派とが一体になって皆破壊されてしまいました。右翼労組=大韓労総(今の韓国労総の前身)が、全評破壊の先頭に立ちました。……6・25戦争の勃発で、労組(活動家)は地下に潜りました。一九五八年ごろまでは地下組織が生き残り、事務所もなく、秘密の連絡で活動していました。これがのちの一九七〇年代に、各職場で合法的労働運動を進めていく土台となりました。全評組織はなくなっていたが、その精神は生き延びていたのです」(同パンフレットより)。
 話は前後するが、遺稿集には李壽甲さんの遺族へのインタビューが収録されている。あとでさらに詳しく紹介したいが、これもまた非常に貴重で、興味深い資料である。そのインタビューによれば、南労党員であり全評労働運動の生き証人であった李壽甲さんは、一九七〇年代後半にこれまでの同僚と何らかの理由で決別して社会運動へと転換したそうである。それは単純な転向や方針転換ではなく、独裁政権下の韓国で自らの活動歴を隠しながらたたかいを継続し、「創意性を発揮して現場で活動せよ」という「全評最後の指針」を胸に活動の場を再建していく過程であっただろう。その後一九八七年七月に民族正気守護協議会を結成し、その常任代表として活動されるなかで一九九五年に日本で開催されたAWC第二回総会に参加され、私たちと出会うことになったということだろうか。そして、日本のAWC会員たちの求めに応じて、上記のような形で「全評出身」という自らの活動歴を公開し、その立場から、誕生まもない民主労総に期待するものを私たちに伝え、日本からの連帯を組織しようとしたのだろうか。李壽甲さんが、米軍政下の弾圧下で殺害された実弟のことに言及して「もう歴史になったと思えばよいのだろうが、私にはまだ歴史になっていないのです」と涙をこぼされたのもこのインタビューのときだった。短いインタビューであるが、AWC運動の原点の一つがここにある。

 ●2章
 「解放60周年」記念番組で、南労党党員であったことを公表


 次に、ほぼ十年後に韓国KBSが作成した解放六十周年の二〇〇五年8・15特別番組を見てみよう。ここでは、李壽甲さんは自らが南労党の労働運動責任者であったことを明らかにして、当時の自らの活動について誇らしげに、穏やかな笑顔で語っている。というか、そのような経歴を公表して鉄道労組名誉組合員に復帰し第一線で活動しているという意味で唯一無二の存在である李壽甲さんに注目して特別番組が作成されたということだろう。
 この六十分のドキュメンタリー番組は、「光復六十周年」特別企画シリーズ〈8・15の記憶〉の中の一つである。この回には、李壽甲さんのほかに、西北青年団など反共右翼青年組織出身の越南者の二名の男性、そして済州4・3事件で軍人に撃たれて夫を失くした海女の女性が登場する。オムニバス形式でそれぞれの立ち位置から8・15と解放後の状況が語られる。一九二五年、慶尚道の農家の下働きの家に生まれる。独学で運転技術を学び、海軍軍用車の運転手として徴発。解放になって自宅に帰る李壽甲に日本人将校は人情をかけた。日産トラックに載せて、米、とうもろこし、石鹸、食器などを持ち帰り、両親に帰還の挨拶をし、これからは苦労をさせないと約束したと語る李壽甲さん。米軍政期に運転免許を取り、自動車運転技術者として鉄道庁に入った。当時、大学出より運転手のほうが収入がいいから、この免許さえ取れば、いい人と結婚できるとネクタイ締めて運転した。二十代の若さで李壽甲さんは七―八十人の運転手を統率した。
 「そのなかで初めてビラを見た。解雇反対、社会保障、男女平等、労働者に託児所や医療機関を設置せよ」。こうして李壽甲さんは、初めての労組加入をした(遺稿集の「略歴」によれば八月十八日に朝鮮共産青年同盟に加盟している。以降、共産党員として労組活動の先頭に立つ。一九四六年末、南朝鮮労働党結成)。
 一九四六年、鉄道労組分会長をしていた李壽甲さんは、全評ゼネスト準備の先頭に立つ。「釜山の機関庫で、全評組合員(李壽甲さん本人だ)が汽笛を鳴らすと汽車を全部ストップさせ、海上でもすべての運送をストップさせて完全に麻痺させます。全国規模のストが釜山から始まった。帝国主義の圧迫と搾取に反対する。解雇・人減らしに絶対反対だ」。
 このような全評ゼネストを破壊するために警察とともに動員されたのが右翼青年組織である。右翼反共テロ団と警察が全員拳銃で武装して襲い掛かる。一九四七年六月に逮捕された李壽甲さんは十一日間連続で拷問を受け、十四日めにやっと面会することができた兄が顔を見分けられなかったほどやられた。このとき釜山鉄道資材課を解雇された。
 このドキュメンタリーは、李壽甲さん、右翼青年団出身男性二名、済州4・3事件犠牲者女性が互いに顔を合わせることなく、それぞれ交互に登場して自身の物語を語り継いでいくのだが、李壽甲さんはこの番組の最後で、西北青年団出身の老人と、ある鉄道駅で直接対面させられる。インタビューの中で、南労党事務所襲撃や秘密党員の暗殺について得々と語っていた老人はうろたえる。李壽甲さんもまた戸惑いながらも、穏やかに、かつ厳しく迫った。「あなたはお若い時に、米軍政の保護下でずいぶんと活躍されたようですが……」「いや、われわれは米軍政に保護されたことはない……」。
 米軍政の保護はなかったと言い訳し、私の財産を強奪したからいけないのだという男性に、「米軍政の保護無しにあの当時我々(南労党)の事務所を襲撃してテロすることができたのか」と詰問し、「自分の思想と違う人々は同じ民族ではないのですか? 後世までずっと分断しようというのですか?」と迫るところでこの場面は終わる。放映当時、李壽甲さんはこのドキュメンタリーの内容にまったく満足しておられず、「大事な内容がほとんどカットされた」とむしろ不満げであったと記憶しているが、それでもこの最後のシーンは圧巻である。なお、このドキュメンタリーを文字に起こしたものが遺稿集に収録されている。

 ●3章
 「李壽甲先生精神継承事業会」の活動、遺稿集「家族インタビュー」から


 こうして鉄道労組名誉組合員として復帰した二〇〇五年ごろから、李壽甲さん自身が決断して、すべてではなかったとしても南労党時代の活動を社会的に公表し、抹殺されてきた歴史の真実を復権させていこうとする努力をされてきた。後輩組合員たちへの講演などを通じて全評の活動を時期別にまとめたり、労組の討論会に出て組合員の質問に答えたりした内容も遺稿集に収録されている。韓国の、また日本の多くの仲間が、それを李壽甲さんにしか書けない一人称による記録として文字に残すことを懇請してきたが、「時期尚早だ。まだ迷惑がかかる人がいる」と先延ばしにしていてついに執筆されないままになった。
 このような李壽甲さんの書かれなかった一人称による歴史の記述の隙間を埋めようとする試みが「永遠の鉄道労働者、李壽甲先生精神継承事業会」の手でさまざまに行われてきている。その最も重要なものの一つが、遺稿集に収録されている家族インタビューである。李壽甲さんの妻であるソン・イルシクさんと、二〇一四年六月アジア共同行動に参加されたイ・ミンゴルさんが、AWC韓国委員会代表ホ・ヨングさんの問いに答える形で話をされているものである。お二人の記憶力は素晴らしく、また次々と話を引き出していくホ・ヨングさんの進行も素晴らしい。
 指名手配生活が長く、その後も非合法時代を生きた革命家は、結婚してもまず自宅には寄り付かず、生活費を入れることもなかった。妻は実家の助けでようやく子供たちを育てた。非合法活動の時代が終わってもそれは変わらず、外での活動優先で家庭と家族を顧みなかった。自宅にいる間も妻や子供にはきわめて厳しく接し、笑顔を見せず、自身の活動内容について家族に語ることがほとんどなかったという。家族はいう。「日本に行って感じたことですが、日本での父はとても優しく多感でユーモアあふれる人柄だったというのですが、家では常に怖い存在でした」。
 しかしきめ細やかなインタビューは、妻や息子の目を通じて、またホ・ヨングさん自身の目を通じて、李壽甲さんらしい姿を示してくれる。いくつかのエピソードを通じて、李壽甲さんの思想や活動原則が見えてくる。原則に忠実で汚職や不正に厳しく、貧しく活動していても決して他人の金を受け取らなかったこと、事業をしていた時期に野宿者たちを社宅に住まわせていたので、李壽甲さんを捕まえにきた警察を野宿者たちが食い止めて逃がしてくれた話、また韓国労総破壊活動と呼んでいた活動のなかで大韓労総の元活動家に密かに接近してオルグし、民主労組運動の中に組織していった話などなど。家族の記憶にもとづくインタビューのため、正確な時期の確定など課題はいくつも残っているが、今後も積み上げていく予定だという。
 そのような作業の一環として、最近では李壽甲さんの釜山時代の足跡をたどるフィールドワークが会員や遺族の参加で実施されたということだ。他にも評伝の制作なども計画されているという。このような事業の意味は、一つは李壽甲さんという実際の活動家の人生を通じて韓国の民衆運動の歴史を豊かなものにすることであり、もう一つは李壽甲さんに出会いともに活動した人々の胸の中に残っている李壽甲さんの思想や活動原則を発掘し、今日の私たちの活動の中に生き返らせ、困難な時代にあってもともに前進することだ。私たちも日本からそれに参加していきたい。



 

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