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   三里塚芝山連合空港反対同盟
     北原鉱治事務局長の逝去を悼む
 
                 ●共産主義者同盟(統一委員会)
                


 三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長の北原鉱治さんが八月九日逝去された。九十五歳だった。
 北原さんに対し、謹んで哀悼の意を表する。
 一九六六年八月二十二日に戸村一作委員長、北原鉱治事務局長を代表として三里塚芝山連合空港反対同盟が結成されて以来五十一年、北原さんは事務局長として三里塚闘争を先頭でたたかってきた。七九年に戸村委員長が亡くなられて以降は、事務局長の北原さんが反対同盟の代表となってきた。
 一九二二年生まれの北原さんは、四十四歳で成田空港反対運動の軸心となり、半生というにはあまりにも長い五十一年間、たたかいの先頭に立ってきた。

 ●① 闘争の最先頭にいた北原さん

 北原さんは七一年強制収用阻止決戦では自ら地下壕にたてこもってたたかった。さらに七一年九月二十日、大木よねさんに対するだまし討ち強制代執行に際して、北原さんは大木よねさんとともに機動隊とたたかった。当時の千葉県知事友納が「代執行中止」を発表したため、反対同盟も支援も一旦解散していた。稲の脱穀をしていたよねさんと事務局長としてよねさん宅にいた北原さんの二人を、取り囲んだ機動隊が暴力をもって強制排除し、家屋も土地もすべてを奪い去った。よねさんは、しがみついた脱穀機から引き剥がされ、機動隊になぐられて歯を折られた。農民に対する直接の強制収用が暴力をもってなされたその現場で、よねさんと北原さんは最後までたたかいぬいた。
 七七年の岩山大鉄塔の闇討ち破壊に際しても、開港阻止決戦の横堀要塞篭城闘争に際しても、北原さんはその現場に入り、先頭で闘争を担ってたたかった。横堀要塞篭城闘争では、たたかい抜いて逮捕され、起訴された。保釈まで二ヵ月勾留された
 八九―九〇年の成田治安法決戦では、八九年十二月に東峰団結会館除去処分が強行された後、反対同盟は次の攻撃が予想された天神峰現闘本部での篭城態勢を準備していた。まさに、そのたたかいに入ろうとしていた九〇年一月十五日午後、千葉県警は天神峰現闘本部を「家宅捜査」と称して囲い込み、夜通し「捜査」を続け、占拠し続けた。その状態のまま十六日朝、運輸省(当時)職員が「封鎖処分」を通告した。県警、運輸省、空港公団が一体となって現闘本部を鉄板で覆いつくして「封鎖」を強行した。
 この夜、北総地域には雪が降り積もった。風雪の中、現闘本部に駆けつけた北原さんは、事務局長として自ら総括立会人となり、本部の中に入った。現闘本部の周囲には反対同盟と全国からの支援者が続々と集まり、抗議を続ける中で、北原さんは直接県警と対峙し、徹夜の攻防をたたかった。
 その後も、運輸省―国土交通省は現闘本部の封鎖処分を毎年更新し続けた。その一方で、空港公団―成田空港会社が民事裁判をもって現闘本部を奪いとった。国交省の封鎖処分がかけられた状態のまま、二〇一一年八月六日未明に千葉地裁執行官が立ち会い、空港会社が破壊撤去を強行した。
 一方で、北原さんは一九七五年に戸村さんの後任として成田市議会選挙に立候補し、当選。四期十六年にわたって市議会議員を務めてきた。自民党から共産党まで空港反対運動を批判する市議会で、空港反対運動の正義を主張してきた。
 北原さんは自著『大地の乱 成田闘争』の中で、大木よねさんに対するだまし討ち農地強奪攻撃について「この卑劣な手口はのちに岩山大鉄塔を倒すときにも、天神峰本部を奪いとるときにも使われますが、通常ではできないときの常とう手段となるのです」と書いている。
 三里塚農民に対する国家権力の農地強奪、闘争破壊は、だまし討ち、闇討ちの連続だった。空港反対闘争は反対同盟自身の農地死守―実力闘争と同時に、多くの学生、労働者、市民の結集によって広範な闘争を築いてきた。理不尽な攻撃に断固立ち上がりたたかい続けてきた農民への共感は広く深い。一人の農民のために全国から結集してくる。政府はこのたたかいの拡大、爆発を恐れてきた。農民をだまし、人民をだまし、闘争から引き離し、分断して、その攻防を小さく切り縮めようと躍起になってきた。政府が繰り返してきただまし討ちは、まさに人民の決起への恐怖ゆえである。
 北原さんは、まさに、このような狡猾な攻撃に対して、常に自ら体をはって、攻防の最前線に立ってきた。

 ●②事務局長としての生き方

 七九年に戸村さんが亡くなって以降、事務局長北原さんが反対同盟の先頭に立ち、農民を軸にした反対同盟の組織をまとめてきた。同時に、全国規模の運動としての三里塚空港反対闘争をまとめてきた。しかし、それは簡単なことではなかった。
 三里塚闘争の最初には、日本共産党が敵対し、あるいは社会党が闘争を離れていった。
 だまし討ちを繰り返してきた国家権力ゆえに、運輸省・空港公団、警察は、さまざまな手法で切り崩しを行なってきた。経済的利害や代替地、用水などの「条件」をもって個別農民を買収し、あるいは脅して闘争からの離脱を謀ってきた。
 七八年の強行開港以降の八〇年代前半、分断と闘争破壊の攻撃の中で成田用水事業が持ち込まれ、また一坪再共有化運動が起こった。二期工事阻止の攻防に向かおうとする「用地内」農民を軸とした農地死守―実力闘争の路線を堅持し、政府―運輸省・空港公団による「話し合い」攻撃を打ち破っていくことが問われた。北原さんは事務局長として厳しい選択をした。
 八三年3・8分裂は、反対同盟がその旗幟を鮮明にし、二期工事阻止へと向かうためになさざるをえない選択だった。北原さんと「用地内」農民をはじめとした確固とした同盟員が反対同盟の原則を守りぬいた。ブルジョア・マスコミなどが「反対同盟北原派」と呼んできたように、北原さんはまさに自ら反対同盟の先頭に立ってきた。
 絶対に揺るがない信念をもった人間が、このような攻防の中で人々に代表者として選び出されていくのだろう。

 ●③反戦の砦―三里塚

 北原さんは、万余の人民を前にした全国集会でのアジテーションも行なってきたが、一方では数十名、数名規模の交流会でも自らの経験を含めた様々な話をされ、若者たちと楽しそうに論議をおこなってきた。講演会でも、酒を酌み交わしながらでも、その闘争経験と幅広い人間関係の中でつかみとられた話をされてきた。
 自らが闘争の先頭に立ってきたがゆえに、北原さんは支援のたたかいに対しても評価し、かつてのたたかいの一つ一つをよく覚えていた。七一年強制収用阻止闘争、七七年岩山鉄塔決戦、七八年開港阻止決戦、八五年10・20三里塚十字路戦闘、八七年木の根砦死守戦、八九年東峰団結会館死守戦と、たたかいの話は尽きなかった。
 北原さんは、六六年以降の三里塚闘争の中で、反対同盟の代表として組織的指導者としてたたかいの確信をつかまれていたが、より深いところには、自らの戦争体験、軍隊経験があった。戦後、軍隊から戻っても、住んでいた家は焼失していた。北原さん自身も開拓民としての生活をし、その後に店を開いた。戦争・軍隊が人民に何を強い、何を奪ったのかを身をもって知ればこそ、戦争反対ということが信念となっていた。北原さんは、三里塚闘争を反戦闘争としてたたかうことに確信を持っていた。
 若者たちを前にして、戦争の話、三里塚闘争の歴史を語った後、北原さんは必ず最後に「君たちのために、若者の未来のために、三里塚はたたかう」と結んだ。
 三里塚闘争の勝利は圧制を打ち砕く人民の勝利であり、閉塞する社会で希望が持てない若者たちの未来を改めて拓くことになるのだという意味が込められていたと思う。
 北原さんが闘争の日々を生き抜き、北原さんが中心にいた三里塚闘争は、希望に満ちている。現代の日本帝国主義の下に、このような不屈のたたかいが健在し、国家権力の足許を揺るがしていることを、私たちは誇りをもって語ることができる。
 三里塚闘争の完全勝利をつかみとる前に北原事務局長を喪ったことは、悲しく、つらく、厳しい。
 市東さん、萩原さんをはじめとする反対同盟が引き継いだたたかいを、われわれは共にたたかい、責任をもって支えぬく。北原さんが貫いたたたかいが真の勝利に至る日まで。
 このことを誓って、追悼の言葉とする。


 

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