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   日本軍性奴隷制度の事実を伝えよう

    「宋神道さんを忘れない」取り組み

                        
三橋貴子



  二〇一七年一二月一六日、九五歳で亡くなられた宋神道さん。日本で声を上げた日本軍性奴隷制度の被害者であり、一九九三年には日本の裁判所に提訴して闘い、「オレの心は負けてない」との名言を残した。宋さんが残したものを忘れず、現在の社会に、若い人たちに、語り継いでいこうという取り組みが各地に広がり、リレーされている。
 二六年間宋さんと共に闘い過ごした三人の女性カメラマンによる八〇点を超える写真と、ドキュメンタリー映画「オレの心は負けてない」(安海龍監督 二〇〇七年)を埋もれさせてはならないと、写真展「宋神道さんを偲ぶ」が二〇一九年一月東京葛飾区で行なわれたのを皮切りに、七月中野区で「となりの宋さん」写真展、八月神戸で「宋神道さんを心に刻む」写真展、一一月墨田区で「宋神道さんを知ってますか?」写真展、一二月江東区で「忘れないよ宋神道さん」展、二〇二〇年一月大阪市で「となりの宋さん写真展」、続いて東京立川市で……と、全国各地でリレー開催されてきた。
 何れの会場も、宋さんを捉えた写真が時系列で所狭しと展示され、映画「オレの心は負けてない」や「ナヌムの家」三部作の上映、梁澄子さん(希望のたね基金代表理事)や川田文子さん(日本の戦争責任資料センター共同代表)ら、宋さんと共にあり続けた方々の講演も行なわれた。当時を知り、宋神道さん裁判支援に関わった女性たちと、生きている宋さんとは出会ったことのない若い女性たちが、世代を超えて集い、語り合った。
 一九二二年韓国忠清南道に生まれた宋神道さんは、一六歳の時に騙されて中国に連れて行かれ、長江中流域の「慰安所」を転々とさせられるなかで性暴力を含むあらゆる暴力を受けた。終戦時「妻」がいた方が引揚船に乗れやすいと目論んだ日本兵軍曹の一人に利用され、日本に渡ったとたんに放り出される。列車からの飛び降り自殺を試みるが助けられ、宮城県女川町の在日朝鮮人男性「とうちゃん」と共に暮らすことになる。差別と貧しさ……日本軍性奴隷制被害者として、在日として、加害国日本で厳しい人生を送ってこられた宋さんのもとを、のちの「支える会」メンバーが訪ねたのは一九九二年のことであった。当時の宋さんを捉えた写真を観ると、表情は険しくこちらを睨みつけるような目をしている。宋さんを強い人間不信に陥らせた戦争とその後の日本社会の罪を突きつけてくる。
 約半年間の話し合いののち、一九九三年四月五日に宋さんは日本政府の謝罪を求め東京地裁に提訴し、同年「在日の慰安婦裁判を支える会」が結成される。講演してくれた梁澄子さんと川田文子さんは、宋さんの激しく浮き沈みのある言動にとても振り回された、と当時を振り返る。その都度困惑しながらも、宋さんをそうさせる背景にある、傷の深さに気付き向き合い続けてきたとのこと。裁判は一九九九年一〇月東京地裁判決、二〇〇〇年一一月東京高裁判決、二〇〇三年三月最高裁、いずれも宋さんの主張を退ける不当判決であった。宋さんはしばし涙を流すもすぐに顔を上げ、「裁判には負けても、オレの心は負けてない!」と力強く発し、その言葉は多くの支援者の心に刻みこまれた。
 宋さんは一九九八年韓国を訪れ水曜デモに参加し、ナヌムの家にも滞在している。妹との再会や、女川町で看取った「とうちゃん」の遺骨を故国の墓に納めたいとの希望を叶え、ナヌムの家のハルモニ達との交流では、はじけるような笑顔で過ごす宋さんの姿が写真や映画にも収められている。日本では「そんなみっともないもの着られねぇ」と言っていたというチマチョゴリを金順徳ハルモニに着せてもらい、皆と歌い踊り語り合って過ごした。宋さんと韓国のハルモニ達が出会いつながり、解放された瞬間だった。
 裁判闘争の後も各地へ、とりわけ若い女性達に自身の経験と思いを語り、対話し続けた。三・一一東日本大震災で被災し、女川の家を流されるも命からがら生き延びた宋さんは、支える会のメンバーに迎えられ晩年を東京の都営住宅で過ごした。九五歳で永眠されるまで、多くの仲間に囲まれ、多くの言葉を残し、力強く生きた。「今の子どもだって、戦争が始まったら戦争の規則どおりに行かなきゃなんめえ。国のために命ぶん投げに行くんだ。」「オレと同じようなオナゴを二度と作っちゃなんねぇ」と、自らが体験した戦争の悲惨さを、とりわけ高校生や若い女性たちの前で最後まで訴え続けた。
 全国で開催され、これからもリレーされていくであろう「宋さん展」が、多くの女性達、若者達の目に留まることを祈りたい。日本政府により歪曲され歴史から抹殺されようとしている侵略戦争と日本軍性奴隷制度の真実を、なにより宋さんの生き様と言葉が証明している。
 昨年は一方で、あいちトリエンナーレ二〇一九「表現の不自由展・その後」を巡る大きな攻防があった。河村たかし名古屋市長が「平和の少女像」展示中止と撤去を要請。「表現の不自由展・その後」は開幕からわずか三日で中止となった。国内外から展示中止に対する抗議と再開を求める多くの声が寄せられた。東京でも、「平和の少女像を知っていますか?」と、ミニチュア「少女像」を掲げたスタンディングなどの行動が重ねられた。あいちトリエンナーレ閉幕まで残り一週間と迫るわずかな期間、限定的ではあったが、ついに「表現の不自由展・その後」は再開されたのだ。
 発端となった河村市長の発言は「(「平和の少女像」展示は)どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」というものだ。同様の発言は、「少女像」問題において度々発せられてきた。しかし、あの「平和の少女像」から一体誰が踏みにじられたというのか。少女像は誰も踏みにじっていない。隣の空席に座っている仲間―名乗り出たが日本政府の謝罪と賠償を受けることなく世を去った数多くの元「慰安婦」と、ついに世に出ることなかったすべての日本軍性奴隷制の犠牲者―とともに、告発しているのだ。日本帝国主義による朝鮮植民地支配と侵略戦争、日本軍「慰安婦」制度を、またこの事実を認め謝罪と賠償をするどころか事実まで歪曲・否定しようとする安倍首相や河村市長のような人々を。
私たちが、安倍や河村の言葉を疑い、歴史を学び、犠牲者の証言と告発にしっかりと向き合う時、はじめて少女像のもう一つの声を聞き取ることができる。一六歳で中国に連れて行かれた宋神道さんの姿ともいえる「少女像」は、きっと、多くの女性・青年たちに「二度とオレのようなオナゴを作っちゃなんねぇよ」と言ってくれているのではないだろうか。
 私たちは決して宋神道さんを忘れない。



 

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