共産主義者同盟(統一委員会)






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   労働運動の組織者・指導者・共産主義革命家

      田村隆洋同志を追悼する



 
 二〇二〇年八月二二日、入院中だった田村隆洋同志(本名・野村貴)が六九年の生涯を閉じた。本年春から治療していた臀部の痛みが激化し、六月下旬に急遽入院した。検査の結果、その痛みは皮膚がんの一種である悪性黒色腫(メラノーマ)によるものであり、しかも末期で転移もあるとの診断であった。七月上旬に手術を受けた後は、意識が安定して回復することもなく、コロナ禍の制約のなかで面会も十分にかなわぬまま帰らぬ人となった。残念という言葉では言い尽くせない。
 田村同志は入院の直前まで痛みをかかえながらも労働組合事務所で仕事を続けた。激痛によって椅子に座ることもままならなくなるなかで、立ったままでパソコンを操作し、労働相談を行い、会議を組織して自らの責任を果たそうとしていた。そして入院した後も、直面する労働争議に関する資料を取り寄せ、意識を失う直前まで、病室から電話やメールで同じ労働組合の仲間たちと連絡をとりあっていた。
 われわれは最良の労働運動の組織者・指導者であり、共産主義革命家である誇るべき同志を失った。田村同志は直近では自立労働組合連合委員長、きょうとユニオン副委員長、全国一般労働組合全国協議会副委員長の重責を担っていた。同時に、労働者階級の解放のためには革命的労働者党の建設・強化が必須であることを訴え続け、わが共産主義者同盟(統一委員会)の政治局員として、中央労働運動指導委員会を牽引してきた。彼は現下の労働者の置かれた厳しい状況を冷厳に直視しつつも、情熱を燃やしてさらに多くの労働者とともに闘い、組織化しようと挑戦を続けていた。その途上の彼の無念はいかばかりか。われわれの悲しみと喪失感はとどめようがない。
 田村同志は一九五一年生まれで、大阪で高校生運動に参加した後、大学に進学する道を選ばず、学校の宿直警備員のアルバイトに就いた。そこで警備員労働組合に加入して、正規雇用化要求運動などの闘いに参加した。これが一九歳の田村同志の初めての労働運動経験となった。その後、当時高揚をはじめた地区反戦青年委員会運動に参加する。以降、ブント系の反戦青年委員会で七〇年安保沖縄闘争の渦の中、闘いの日々を送る中で、共産主義者同盟(ブント)に加入した。
 一九七一年、田村同志は11・19沖縄返還協定阻止を掲げた北大阪占拠闘争に京都の学生とともに参加して逮捕され、党組織も激しい事後弾圧を受けた。釈放後の彼は「11・19型弾圧にも耐えうる組織をつくろう」という総括を行い、持ち前の統率力を発揮して京都地区党の組織強化に尽力した。そして一九七五年、女性差別糾弾闘争を契機とする共産同全国委員会の分派闘争―分裂のなかで、解党主義と闘い、それらを生み出した全国委員会の弱点を総括し、新たな路線建設をめざす闘いの中心的役割を果たした。一九七六年には、全国委員会第二期宣言会議の中で中央委員会臨時指導部として基調草案をつくり、目いっぱい総括を展開した。
 以降、党の再建を軸に、革命的政治闘争の実践を一歩もゆずることなく、海洋博を契機に局面転換が進む沖縄闘争、反対同盟の分裂をめぐって激動する三里塚闘争など、七〇年代後半から八〇年代にかけての人民運動の激動のなかに身を置き、闘いの革命的発展をめざして東奔西走した。あわせて労働運動での取り組みを準備していったのである。
 一九八〇年代前半に自立労連が結成された後、田村同志は特別執行委員として東京支部、埼玉支部の強化に尽力してきた。そしてまた、戦後日本労働運動の大きな転機となり、八〇年代中盤以降いよいよ本格的に煮詰まってきた労働運動の右翼的再編の攻撃のなかで、多くの先進的な労働運動活動家とともに、これに真っ向から立ち向かった。そして、そのために不可欠な「本工中心の労働組合、本工中心の労働運動の壁・限界」を、地域共闘・活動家づくり・中小未組織労働者の組織化を通じて突破せんと模索してきた。
 一九九〇年代後半から自立労連の多数を雇用する企業の経営危機が進行するなか、労組は困難な対応を迫られた。田村同志は工場閉鎖や倒産問題に対して全力で指導し、労働者の団結を維持しつつ、労働債権の確保と最大限の雇用の確保を追求した。全国的にも企業倒産攻撃が多く、階級的労働運動派は「倒産に負けない労働運動」を提唱していたが、彼は身をもってそれを実践したのである。
 この時の困難な経験は、後の争議指導に生かされることになった。二〇〇〇年代に入ってからの、京ガス、第一物産、大美堂印刷、iWAiなどの倒産争議や職場占拠―籠城闘争において、田村同志は当該の労働者たちとともに現場で闘いつつ、これらの争議の勝利的解決を導いた。
 田村同志はまた、中小企業労組、未組織労働者の組織化にとっての最低賃金制度の重要性を深く認識し、早くから最低賃金引き上げ闘争に取り組み、その経験を他に訴えて回った。さらに上部団体である全国一般全国協においても副委員長としてこの課題に関する全国的責任の一端を担い続けた。
 同時に彼は、とりわけ二〇〇〇年代以降、地域における左派労働運動のネットワークの強化、それを基礎にした地域における階級闘争構造の建設・強化のために尽力してきた。このかん京都においては、労働組合と米軍Xバンドレーダー基地反対運動をはじめ反戦・反基地、反原発、沖縄連帯運動をかかげて運動を続ける市民団体との連携・共闘が進んできた。また、安倍政権による極限までの朝鮮敵視政策・排外主義の攻撃に対して、労働組合と市民団体が共同で、朝鮮半島と東アジアの非核平和を訴える月例の街頭宣伝を二年間にわたって続けてきた。
 それら労働組合と市民団体の共闘に関して、田村同志は労働運動の側からその発展の先頭に立って奮闘してきた。その根底には、労働者の政治闘争を復権させること、また、労働運動を基軸にして地域における闘う陣形をつくり、それらを全国的につなげて日本階級闘争の構造をつくりあげていくことで、労働者の階級形成を復権したいという志向があった。
 田村同志はまた、現下の連帯労組関西生コン支部に対する労組破壊攻撃=前代未聞の超法規的な労働運動弾圧・政治弾圧を、労働運動、市民運動の総力で打ち砕く闘いの一翼を担ってきた。彼は多くの仲間とともに「労働組合つぶしの大弾圧を許さない京滋実行委員会」(反弾圧京滋実行委)を立ち上げ、その中心的なメンバーの一人として活動してきた。
 連帯労組関生支部に対する攻撃は、国家権力、業界団体、右翼、マスコミ、裁判所が連携して正当な組合活動に襲いかかり、不当捜査、八九名の不当逮捕・起訴、そして二年近くにわたって理不尽な長期拘留を行うなど、およそ憲法・労働法で保障されている労働運動、民主主義運動を絞殺せんとする政治弾圧であり、闘う労働者人民にとっては必ず粉砕し勝利せねばならない闘いである。
 コロナ禍のもとで最後まで長期拘留されている仲間の生命を守るため、反弾圧京滋実行委は二〇二〇年五月下旬、二週間の集中的な京都地裁包囲抗議行動を行った。田村同志も痛みをこらえつつマイクを握り、最終日の申し入れ行動では裁判所に鋭く詰め寄った。
 われわれにとって田村同志は、階級的労働運動の組織者であると同時に、資本主義社会の根本的変革に向けた闘いを文字通り二四時間の党活動実践として貫徹し続けた共産主義者でもあった。党生活において、彼は「荒天時の船長」であった。労働運動、共産主義運動など人民の闘いには、好天の時もあれば、逆風の時、荒天の時もある。荒天時、彼はひるむことなく全党を叱咤激励し、的確な指針を提示した。われわれは彼にどれほど助けられ励まされたかわからない。
 田村同志は青春時代から労働者階級の解放―人間の解放をめざして闘い続け、走り続けて、その一生を終えた。われわれは彼の遺志を引き継ぎ、彼のようにうまずたゆまず不屈の精神をもって闘い続けることを誓う。



 

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