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   セクシャル・マイノリティの

   たたかいの発展のために

                          けらん

    


 先日、セクシャル・マイノリティ当事者の友人に、セクシャル・マイノリティについて書かれた本でお勧めのものがあれば教えてほしいと頼んだところ、ヴァネッサ・ベアード『性的マイノリティの基礎知識』(町口哲生訳、作品社、二〇〇五年)という本を紹介された。

 ●1章 『性的マイノリティの基礎知識』の内容

 この本はタイトルの通り、セクシャル・マイノリティについての入門書である。その内容は、世界のセクシャル・マイノリティ当事者運動の流れ、各国でのセクシャル・マイノリティへの差別の歴史、右派・左派問わず行われている性管理の政治、キリスト教、仏教、イスラム教など宗教のなかでのセクシャル・マイノリティへの差別、セクシャル・マイノリティにとって諸刃の剣である医学についてなどと、網羅的である。
 この本のもっとも意義深いところは、すべての分野において、差別・抑圧されているセクシャル・マイノリティの側に明確に立ち、見解を述べているところだろう。そして、「先進国」とそれ以外の国との間の経済格差、人種、宗教、階級、民族など、大きな枠組み・権力構造をふまえ、あらゆるセクシャル・マイノリティのたたかいを『人権のための闘争』として一貫して捉えている。これは当たり前のように思えるが、実際に当たり前のことが踏まえられているかどうか、われわれに突きつけられる非常に重要な観点である。
 かなり情報量が多いが、基礎的な用語にも注がつけられていて親切な本であるため、セクシャル・マイノリティについてあまりちゃんと知らないという人には、一読を薦めたい。
 この本は、すでに述べた通り、幅広い領域にわたっているので、細かく紹介することは紙幅の都合でできない。しかし、一か所、特別に取り上げたい部分がある。それは、「社会主義国」でのセクシャル・マイノリティへの差別政策についてである。
 この本には次のようにある。
 ロシアでは、一九〇五年の第一次革命から一九一七年の二月革命の間に、ゲイの文化、文学、政治的思想の短い開花があった。しかし、新しいソビエト体制はホモセクシュアリティを治療が必要な「病気」と見なした。一九二三年、公衆衛生人民委員会は、「今や科学が、疑問の余地のない正確さで確証したことは、同性愛が……『病気』であることだ」と宣言した。ホモセクシュアリティがソビエト文学から一九三〇年までには一掃され、共産党内のゲイたちは精神科に通うように勧告された。
 そして、一九三三年には、男たちの間での性的な関係が禁止され、処罰として五年間の重労働を課す法律がつくられた。翌年にはソ連全土へと広げられた。ソ連のこの法はまた、ホモセクシュアリティを道徳に反する犯罪と見なしただけでなく、反革命的な行為、スパイ活動などと並ぶ、国家に対する犯罪とも見なした。
 中国では、一九四九年の革命後、中国人のゲイたちは検挙され、銃殺された。レズビアンたちは追放の身となった。ホモセクシュアリティは公式には「存在しない」と宣言され、その後も非難され続けた。
 キューバでは、革命が起こった一九五九年、ソ連と同盟したキューバ社会主義革命統一党は偏見を促進させてしまう。フィデル・カストロは、ホモセクシュアリティを堕落したバティスタ時代からの遺物として非難した。一九六〇年代、ゲイは更生施設へ拘禁された。
 ここまで、不勉強ながらわたしはまったく知らないことであった。著者が述べている通り、「社会主義国」のなかですら、ホモセクシュアルを含むセクシャル・マイノリティに対する差別的政策が行われたことは事実であろう。しかし、当然ながら押さえておかなければならないことは、資本主義国・帝国主義国においても、セクシャル・マイノリティに対する差別の構造が存在し、差別政策・暴力、またそれによる民衆の分断が今なお行われ続けていることである。世界的に見てもセクシャル・マイノリティに寛容な社会の方がおそらく少数であり、この本によれば現在でも約八〇カ国で死刑を含むセクシャル・マイノリティに対する法的な抑圧が加えられている。
 このようなセクシャル・マイノリティへの差別の歴史・現状を踏まえ、革命をめざす党であるわれわれが、めざすべき社会とその実現に向けた実践について、深く考えることは重要ではないだろうか?

 ●2章 教訓にするためのいくらかの検証

 話は戻って、ソ連や中国、キューバの党が、セクシャル・マイノリティを差別・抑圧してきた歴史について、われわれの教訓とするためには、もう少しの検証が必要だろう。わたし自身が調べてみて、信頼できると思われる内容を付記しておく。
 キューバでは、一九六〇年代から七〇年代にかけて先に紹介したような同性愛者への迫害政策が採られ、それは一九七九年に同性愛が非犯罪化されるまで続いた。その後の転換期はおそらく一九九〇年代であり、九三年には迫害される同性愛者を扱った映画『苺とチョコレート』が大ヒットした。そして、自らカミングアウトした当事者らの動きもあり、二〇一八年には憲法が改正され、同性婚が認められるとともに、『性的指向と性自認に基づいた不差別の原則』が内容的に盛り込まれた。フィデル・カストロ自身もまた二〇一〇年に行われたインタビューで、かつての迫害政策に関する自らの責任を認めており、そこには党的な総括があったのだと思われる。
 中国では一九五七年、最高人民法院が「自発的行為に基づくソドミー(注)は犯罪行為ではない」とする判断を下している。これによれば、成年同性間の合意に基づく私的な性行為はいかなるものも法に触れないとした。しかし、文化大革命後の一九七九年の中華人民共和国刑法では、成人男性間の私的で非商業的な合意に基づく性行為を「流氓(りゅうぼう)罪」として、勾留や労働教育刑、罰金の対象とした。ただし、この時代も流氓罪という漠然とした罪名であり、同性愛自体を明確に違法化した法律があったわけではなかった。その後、一九九七年の刑法改定で流氓罪の適用が取り消され、同性愛行為は非犯罪化された。
(注)ソドミーとは旧約聖書に登場するソドムに由来し、同性間のセックス、男色、獣姦、異性間の肛門性交などを指す。
 ソ連についても見ていこう。
 一九一七年の十月革命によってツァーリ帝政下のすべての法規は廃止され、その中に存在した男性の同性愛に対する刑罰も撤廃された。そして、一九二二年にソビエト刑法が制定されたとき、男性の同性愛は犯罪行為として含まれることはなかった。
 一九二三年、モスクワ社会衛生研究所の所長グリゴリー・バトキス博士は、「ソビエトの法律は、同性愛といわゆる『自然な』性交渉とを何ら区別しない。あらゆる性交渉の在り方が、個人の自由と見なされた。刑事訴追が適用されたのは、暴力、虐待、他者の利益の侵害が見られる場合のみだった」と記している。一九二六年にはパスポートで性別を変更することが合法となり、インターセックスやトランスジェンダーの人々は、国家による不当な扱いを受けることなく、医療を受けることが可能となった。
 当時の時代状況を鑑みれば、世界的にもソ連のセクシャル・マイノリティへの扱いは、進歩的だったと言える。その後のソ連のセクシャル・マイノリティへの態度の方針転換と実際の差別政策は批判されるべきものであるが、少なくともロシア革命後のいくらかの期間のソ連の進歩的な政策は、歴史的にも大きな意義があっただろう。
 しかし一九三三年、ソビエト政府は同性愛を再び犯罪とした。男性の同性愛を犯罪と規定し、刑罰を重労働五年と定めた。以降、実際にソ連内のゲイをはじめとしたセクシャル・マイノリティに対し厳しい弾圧があり、正確な数はいまだ不明だが、かなりの犠牲者も出たようだ。
 それまでの進歩が後退させられたことの背景には、①ツァーリ体制下での社会的偏見がまだ根強く残っていたこと、②ボリシェビキのセクシャル・マイノリティに対する公式な見解がなかったこと、などの問題が指摘されている。また、ソビエト国家の経済的・社会的基盤が確立されればセクシャル・マイノリティの問題も解決するというように捉えられていたのではないかという指摘もある。
 ここまで調べて一つ判明したことは、『性的マイノリティの基礎知識』に叙述されているソ連についての内容はいささか不正確であったということだ。この本を批判しているわけではないが、ロシア革命後のセクシャル・マイノリティの権利をめぐる複雑な状況と展開、その進歩的側面とその後に起こった後退を、より詳しく歴史の具体的な文脈の中で明らかにする必要があるだろう。それはもちろん、歴史の中から真の教訓を学びとるために、われわれ自身にこそ求められている作業である。

 ●3章 われわれに突きつけられていること

 われわれの話に入ろう。これまで述べてきた「社会主義国」の歴史的経緯は、日本の左翼運動とまったく無関係ではないだろうし、また日本において、セクシャル・マイノリティの解放闘争は近年まで左翼によっては組織的にはほとんど取り組まれてこなかった。セクシャル・マイノリティは、近年突如として現れた/増えた人たちでは決してないし、世界各地で革命が起きたときや、日本での民衆の闘争の歴史のなかに、確実に存在していた。しかし、彼ら・彼女らの権利の侵害に気づかず、または気づいていたとしても、権利を勝ち取るために共にたたかう必要性を感じなかったことは猛省に値するであろう。歴史的な経緯は当然あるが、「差別に無自覚であったこと」を時代のせいにしてはならない。そして今、残念ながら事実として、われわれを含む日本の新左翼運動の中ですら、たしかにセクシャル・マイノリティに対する偏見や差別が存在している。
 本来的にわれわれがなぜ、セクシャル・マイノリティの解放闘争を推し進めていかなければならないのか? われわれは、共産主義運動が彼ら・彼女らに苦しみを与えてきた歴史的経緯を踏まえ、共産主義者の責任として、その反省にもとづいた行動をしなければならない。しかし、もっとも重要なことは、現実に差別で苦しんでいる当事者がいることだ。われわれの目の前にいる、差別によって苦しんでいる人のために、共に声をあげなければ、それは差別を黙認していることに他ならない。まずわれわれは、周りの、あるいはわれわれのなかの、セクシャル・マイノリティの人々とより一層深くつながろう。セクシャル・マイノリティに対する差別は、さらに言えばセクシャリティに関することへの攻撃は、個人的であり、個々によって経験する具体的差別がまったく異なることも多い。現実にいる彼ら・彼女らとつながり、一人一人と、それぞれの苦しみ・生活をわかちあうところから始めなければならない。

 ●4章 セクシャル・マイノリティ解放の中身のために

 この『性的マイノリティの基礎知識』の最後は、『トランスジェンダー 天空の星々と同じくらい』という章で締めくくられている。「二つの性」、「二つのジェンダー」に捉われない、バイジェンダー化や、ハイブリッド(異種混合)ジェンダー化した生き方をしようとするトランスジェンダーらの現実の生を描き出している。それらは当然、セクシャル・マイノリティだけでなく、「男性らしさ」、「女性らしさ」に捉われ、支配階級の性管理に都合の良いジェンダー観が身に染みこんでしまった、われわれの解放の道標となるだろうと考える。セクシャル・マイノリティの権利のために、彼ら・彼女らのたたかいに具体的で、適切な支援を行い、共にたたかっていかなければならないのは当然である。しかし同時に、われわれの中の、わたしやあなたが、「性」や「ジェンダー」に捉われない生き方をすることは、解放の中身のためにも、必要なのである。たとえば「やっぱり男にはわからない」、「子どもにはお母さんが一番」、「イケメン」、「美人」等の発言、恋愛関係において、一対一のカップルが『通常』であると思っている考え方について、今一度自分のジェンダー観や性的な価値観を顧みて、捉え直してみよう。この本の結びにあるように、「結局、性の多様性は、現実にいる人々、個人の生活に帰着するのである」。
 しかし、当然ながらセクシャル・マイノリティの解放のために必要なことは、単なる意識変革運動ではなく、その差別構造の根本原因を粉砕するための実際のたたかいである。資本主義・帝国主義国内での、性管理・家父長制を通した階級支配、階級支配のための差別分断と明確にたたかっていく必要性がある。特に、日本においてはセクシャル・マイノリティに対する差別構造は天皇制と強固に結びついているため、天皇制をそのような視座から捉え撃つことも不可欠であろう。同時に、わたしが今回の記事を書くにあたり深く考えさせられたのは、セクシャル・マイノリティの差別構造の根本原因はなんなのか、ということである。
 資本主義社会は差別を増長・再生産するものであり、これに対して革命による政治的・経済的・社会的な構造変革が、差別の構造をも変革するための大きな契機になりうることは間違いない。しかし、これまで見てきたように、セクシャル・マイノリティに対する差別の根本的な原因は、決して資本主義社会にだけにあるわけではないのだ。理想的な意味での民主主義が実現すれば解決する、と言えば単純に済むかもしれないが、さらに一層深く考える必要性があるようにわたしには感じられる。セクシャル・マイノリティが差別されない構造とは、単純な差別の禁止などではなく、非常に広い意味での『性の自己決定』が保障される構造であると思う。それが具体的にどのようなものなのか、共に考えていきたい。
 われわれが、この世界的な、また日本の、共産主義運動のコンテクストのなかで、多くの反省をもち、そしてセクシャル・マイノリティの解放闘争を推し進めることは、歴史的にも必要不可欠である。苦しみ、たたかっている被差別者とつながり、ともにセクシャル・マイノリティに対する抑圧を真に終わらせるために、前進し続けていこう。





 

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