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■【書評】 斎藤幸平『人新世の「資本論」』 集英社新書 ―共産主義者は地球環境問題をどう考えるか 二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの増大による地球温暖化―気候変動問題は、地球上の生物全体の問題としてだれも無視することのできない政治問題―国際問題になっている。トランプの四年間には停滞したが、現在米中対立が深まる中にありながら、バイデンも習近平も、地球温暖化問題を国際政治の重要領域として扱わざるをえなくなっているのが現実だ。 この問題を、マルクス主義の立場から扱ってベストセラーとなっているのが、斎藤幸平著の『人新世の資本論』(以下、『人新世』)である。斎藤幸平の論議内容は明確である。地球温暖化による気候変動問題の深刻な事態を科学的に踏まえた上で、これに対する「グリーン・ニューディール」など各国政府の産業政策(経済成長政策)、ケインズ派の環境政策、あるいは科学技術によって解決できるとする立場、また、スターリン主義の無策、バスターニの「豪奢なコミュニズム」などを徹底批判する。その本旨は、資本主義批判、あるいは資本主義的生活の延長でしか「社会主義」を構想できない人々に対する批判である。 その批判の上で提起する内容は、『資本論』の再評価をもってする「脱成長コミュニズム」である。徹底した資本主義批判の上で共産主義を対置するのだが、その共産主義の中身を「脱成長コミュニズム」として提示する。それは社会的に共有され管理されるべき富=〈コモン〉を再建する方途だという。〈コモン〉は「アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する『第三の道』を切り拓く鍵だ」とし、マルクスのコミュニズムとは、この〈コモン〉を再建することだと説明する。 『人新世』の実践的結論は、〈コモン〉を実現する運動としての「ミュニシパリズム」である。斎藤は「ミュニシパリズム」を「国境を越える自治体主義」だとしている。具体的には、〇八年恐慌と一〇年代の欧州財政危機・通過危機の中から起こったスペイン・バルセロナの市民運動―革新的な地方自治体運動であり、その国際的な結合である。このバルセロナ市政の主要な取り組みの一つに「気候非常事態宣言」がある。 斎藤は、この「ミュニシパリズム」が、マルクスの捉える〈コモン〉を再建すると主張し、「気候非常事態宣言」の署名運動をはじめとして可能な運動から着手することを呼びかける。 環境問題において『資本論』が積極的に扱われ、さらにベストセラーになっている。現代の日本にあっては稀有な出来事であり、左翼運動の中にあっても、これに喝采を送る人々が少なくない。 しかし、この閉塞した日本帝国主義の下で階級闘争に真剣に取り組んでいる青年共産主義者の間では、この著作は極めて評価が低い。日々実際に闘っている若者たちにとっては、この斎藤の内容が「共産主義運動」として提示されることには強い違和感があるようだ。共産主義者として『人新世の「資本論」』をどう捉えるべきか、吟味してみよう。 ●1章 地球環境問題と共産主義運動 ヒトが引き起こしてきた地球温暖化による気候変動という地球環境問題を、共産主義の側からどう捉えるのか。一致した見解があるわけではなく、広く「共産主義者」と自認する人々の間では、次のような対応(考え方)が存在しているだろう。 ①階級闘争を課題とする共産主義運動の範疇ではない問題として、地球環境問題を埒外において考える人々は現在もいる。 ②同じように埒外の問題だとしながら、良心的に運動上の共闘は追求する。 ③共産主義運動が地球環境問題を捉えられないことを批判し、環境運動の立場にたって共産主義運動を批判する。 ④共産主義運動の内容を根底から捉えなおし、地球環境問題が共産主義運動の範疇にあることを再確認して、共産主義運動の内容そのものを豊富化することをもって、方針を拡大する。 斎藤幸平の論議の出発点が④の立場をとるということにおいて、私たちの論議と同一であると言い得るだろう。その意味で、②のような妥協的な論議とは比べものにならない内容をもっているとはいえるだろう。 それではなぜ、われわれは斎藤の論議に違和感を抱くのだろうか。 『人新世』は、「はじめに」で「SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』である」という挑発的な文言で始まる。「帝国的生活様式」を批判し、ケインズ主義的「グリーン・ニューディール」を批判し、既存の「社会主義国」の生産力主義を批判する。この本書の前半の歯切れの良さが、後半ではどんどん収縮していく。結局のところ結論は「ミュニシパリズム」である。〈コモン〉、アソシエという概念をもって語るのだが、結論(方針)は地域運動のグローバルな結合、である。 われわれは市民運動そのものを批判したり排除したりするものではない。 かつて、「共産主義者」を標榜し、共産主義になれば解決するが、資本主義の下での運動では差別問題は解決しない、などという人々がいたが、われわれはそういう論議に与するものではない。現代の資本主義の下での矛盾、たとえば、差別問題も、軍事基地問題も、原発問題も、資本主義の下でも解決できるならば解決すべきなのである。われわれは、個別課題を取り組む人々と共に闘う。課題によっては、闘う人々に学び、可能なかぎりの信頼関係を追求する。それは地球環境問題においてもそうである。 市民運動や市民の闘いを基盤にした革新市政を支持し、共に闘うのは当然である。われわれは反基地運動において、名護市民の闘いやオール沖縄の闘いを支持し連帯して闘ってきた。そういう観点から、バルセロナの市民運動を捉えることも当然できるだろう。 われわれはミュニシパリズムが問題だとは考えない。問題は、ミュニシパリズムなのではなく、ミュニシパリズムをマルクスが目指した「脱成長コミュニズム」だと主張する斎藤幸平の共産主義論である。 ●2章 資本主義とは単なる「システム」なのか 斎藤の資本主義批判は一貫して「資本主義システム」の批判である。国連やそれを構成する帝国主義国政府、あるいはブルジョア・マスコミがさかんに宣伝する「持続可能な開発目標(SDGs)」とは、現代資本主義の基本的な枠組みを維持し、それどころか、資本主義としての経済成長を続けることを前提とした環境問題をはじめとした矛盾の解決策であり、その限界は明らかである。米国民主党の推し進めようとする「グリーン・ニューディール」とて同様である。バイデン政権や菅政権の下でなされようとしていることは、水素燃料や電気自動車の開発を「新産業」と捉えて、その技術革新での拡大再生産を進めようとする資本の新たな戦略と合致して進められるものである。斎藤が批判するように「資本主義システム」の下では、環境や人々の生活から発想されるのではなく、あくまでも、資本の再生産という利害から組み立てられており、このシステムが続くかぎり、この矛盾から脱却することはできない。 われわれ自身も確かに、資本主義をその経済システムとして捉えて批判する。しかし、資本主義は単なる「システム」なのであろうか。賃労働とそれを搾取する資本との関係で成り立っており、いかに産業技術が更新されようとも、資本主義が続く限りこの経済関係は変わらない。しかしながら、資本主義を「資本主義システム」と言って済ますことはできない。資本主義は、法であり、国家であり、警察、軍隊、監獄=暴力をもった権力である。そして、現代の資本主義は金融資本を支配的資本とする帝国主義であり、植民地・従属国を経済・政治・軍事さまざまな手法で支配関係におく。だから、われわれの資本主義批判は、単にその経済システム批判に止まらない。 資本主義システムは確かに社会全体を網羅するようなシステムではあるが、古くなったら、買い換えて取り替えられるようなシステムではない。資本主義は、ブルジョア独裁権力の下にある、政治的な体制なのである。その経済構造を批判しただけでは、その転換を展望することなどできない。財政政策も含めた政治的、軍事的な体制として捉え抜き、この体制との権力闘争として対決しない限り、労働者階級人民の側に社会を奪還することはできない。 ●3章 一八七一年のパリ・コンミューンとマルクス 斎藤は、現行の『資本論』では、マルクスの資本主義批判が『資本論』第一巻刊行の一八六八年以降に「理論的な大転換」を遂げたことを読み取ることができないと主張している。この点は、前著『大洪水の前に――マルクスと惑星の物質代謝』のテーマであり、斎藤の重要な論旨である。 斎藤によれば、現行の『資本論』は、第一巻は若きマルクスの「生産力至上主義」の観点を残した内容となっており、第二巻、第三巻は、エンゲルスがその編集過程で、『資本論』の未完の部分(=マルクスが晩年のノートにおいて発展させた内容)がどこにあるのかを隠蔽してしまったのだとしている。マルクスの「理論的な大転換」は、斎藤自身が読んだ晩年のマルクスのノートの中にあるという。具体的には、ドイツの農芸化学者リービッヒ、農学者フラースに関する晩年のノートにおいて、マルクスは「脱成長コミュニズム」の思想に至っていたと断言し、マルクス自身が『資本論』第二巻、第三巻を最終的に仕上げていれば、その内容の変更あるいは加筆がなされていたはずだと主張するのである。 しかし、一八六八年以降のマルクスは、農芸化学のノート作りにだけ没頭していたのであろうか? 同時期、一八七一年のパリ・コンミューンに際して、マルクスは、これをプロレタリア革命として総括する『フランスの内乱 国際労働者協会総評議会の呼びかけ』を執筆している。パリの労働者階級が自ら武器をとって立ち上がり、ブルジョア独裁権力と対決し、プロレタリアートの独裁をかちとっていく過程、さらにはティエールとビスマルクの結託によって敗北していく過程まで克明に捉えている。マルクスは、政治権力の問題として、また軍事問題としても、プロレタリア革命を鮮明に捉えている。『資本論』を執筆し資本主義を総体として明らかにしながら、同時に、第一インターナショナルの革命家として、世界史で最初のプロレタリア革命を分析し総括していた。 この『フランスの内乱』の内容が、レーニン『国家と革命』に引き継がれ、ロシア革命の勝利を導くものとなったことは、共産主義者であれば無視できない歴史的つながりである。 斎藤は、「晩年のマルクス」が、その苦闘した共産主義の内容=「脱成長コミュニズム」を研究ノートの中だけで展開し、エンゲルスにも理解されないばかりか、その遺稿はエンゲルスによって隠蔽されたとして、孤独な思想家のような印象で描いている。これは、共産主義=革命家としてのマルクスを捉える上で、大きな誤りである。 斎藤が方針として提示した自治体運動、地域運動のグローバルな結合ということには、政治革命としてのプロレタリア革命、権力問題が抜け落ちている。共産主義を「脱成長コミュニズム」「ラディカルな潤沢さ」として提示する内容は、スターリン主義批判として読むべき内容はあるのだが、革命家マルクスが提起した革命運動とはかけ離れている。 ●4章 曖昧な現代帝国主義批判 もう一点付言しておくと、現代の資本主義をどう捉えるのかという点で、その分析が非常に乏しいという問題がある。われわれは、金融資本が支配する帝国主義の世界支配として現代世界を捉えた上で現状分析を行うが、斎藤はこの点をあいまいにしている。 資本主義の歴史的変遷をいかに捉えるのかという論議においては、『資本論』以降の論争が不可欠であり、レーニン帝国主義論を欠落させた論議はありえないであろう。博学な斎藤がこの点を欠落させているのは、何らかの意図があるのだろうか。不明である。 「植民地主義」という用語との関係で「帝国主義」という言葉も使われるのだが、マルクス亡き後の資本主義に関する論議が、エンゲルスからスターリンに飛躍し、現代的な批判として突然「気候毛沢東主義」なる用語が説明なしで飛び出してくる。真面目に現代帝国主義批判、あるいはスターリン主義批判の論議がなされないまま、言葉のイメージだけで「帝国主義」や「スターリン主義」が使われていて、何をどう批判しているのか、諒解しようがない。 とくに、「エンゲルスは『資本論』の体系性を強調しようとするあまり、『資本論』の未完の部分がどこにあるのかを隠蔽してしまったのだ」(『人新世』一五二頁)に続く文脈では、結果的に「マルクスは大きく誤解されたままだ」とし、「そしてこの誤解こそ、マルクスの思想を大きく歪め、スターリン主義の怪物を生み出し、人類をここまで酷い環境破壊に直面させることになった原因といっても過言ではない」と結論している。 分かりやすく歴史を省いたのであろうか? ここでは、パリ・コミューンもロシア革命も論議されることはなく、エンゲルスの『資本論』編集問題とスターリン主義が直結されている。この部分は、どう読んでもプロレタリア革命に対する悪意しか感じられない。 書評として紙数の限りもあり、論議はここまでとする。 この著作の根本的問題は、マルクスが資本主義批判の重要な結論を、『資本論』の論議の組み立ての中には全く残さずに、ただノートに記しただけだとしているところにある。裏返せば、斎藤は、『資本論』を読んでも資本主義批判の結論に至らない、と批判しているのだ。しかし、『人新世』の結論部分、ミュニシパリズム=コミュニズムの論議はマルクスの革命観とはかけ離れており、むしろ、斎藤の論議の仕方にこそ資本主義批判の不徹底があると言わざるをえないだろう。 われわれは、資本主義批判、経済学批判としての『資本論』の論理の中からこそ、資本と労働と地球との関係を捉え直すということを真剣に行うべきだと考える。 (香川 空) |
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