共産主義者同盟(統一委員会)






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■『戦旗』1620号(9月5日)6面

 
今こそ労働者は反戦・国際連帯に立ち上がろう
  
                    
                     
小原 薫



 ロシアによるウクライナ侵略の戦禍は収まることがない。米中対立は、無謀なアメリカ上院議長ペロシの台湾訪問という事態の中で、お互いに軍事訓練を行いけん制し合っている。こうした事態を奇貨として日帝は「軍事力の増強が必要」だと米帝から武器を買い込み、「戦争法」「重要土地規制法」「経済安保法」を作り戦争体制への準備を進めている。一方、安倍元首相の射殺によって旧統一教会なる反共詐欺師集団に自民党が侵食されている事態が明らかになっている。安倍元首相はこの団体だけではなく「日本会議」や「神社本庁」などの宗教右派と深いつながりを持ちながら改憲への道を先導していた。だからこそ、安倍を引き継ぐ岸田首相は労働者人民の反対の声を押し切り「国葬」を強行することを早々と決めた。
 労働者階級は、再び差別排外主義の下で組織されるのか否かが問われる時代の中にいる。この情勢の中でわれわれは「今こそ労働者は差別排外主義に抗し反戦・国際連帯に立ち上がろう」と呼びかけ、闘いを組織しよう。そのために、戦前の労働者の国際共同闘争の意義と限界を捉え直していくことが重要である。


●1 中国における日中労働者の共同闘争

 日帝は、一八九四年日清戦争の過程において一一月中国遼東半島で中国人の虐殺を行いながら旅順を占領した。そして、翌九五年「日清講和条約」を結び「清朝から遼東半島、台湾の割譲」を行った。三国干渉によって遼東半島は一時手放したが、日露戦争を経て日帝は一九〇五年、旅順・大連一帯の付近(関東州と呼ばれていた)と南満州鉄道とその付属地をロシアから引き継いだ(ポーツマス講和条約)。この後、一九一〇年に日帝は韓国併合を行った。こうしてアジア侵略は進められた。
 この日帝が占領した地域には日本の産業構造の転換を象徴するような大企業が次々と進出した。その一つに川崎造船がある。一九一八年一月二二日には中国大連市の川崎造船所大連工場において中国人・日本人の労働者が連合してストライキに決起した。このストライキには日本の神戸本工場の労働者も連帯ストライキを闘っている。日本における川崎造船所神戸本工場における闘いは、日本の労働運動の黎明期における画歴史的闘いであることは、よく知られているが、中国大連での闘いについてはほとんど知られていない。このストライキは二日にわたって貫徹され、賃上げ等の要求を勝ち取っている。また同月二五日、中国大連市の満鉄沙河口工場でも一二九二名の中国人労働者と八六三名の日本人労働者が賃上げと危険手当を要求して連合ストライキを九日間行ったが、不当逮捕などの弾圧が行われて要求は叶わなかった。一九二〇年にはこの工場でリストラ反対の共同ストライキを中国人一二〇〇名日本人一三六五名で四〇日間行い勝利している。このストライキを行いながら同年五月一日のメーデーは共同集会が行われている。
 しかし、日帝のアジア侵略が進む中でこうした日中労働者の共同闘争は途絶えてしまった。


●2 日本における日朝労働者の共同闘争

 日本においても一九二三年のメーデーでは東京では「植民地解放」を決議し、大阪では「日鮮労働者団結せよ」のスローガンが掲げられた。
 しかし、日帝は労働者の闘いの前進を恐れ一九二八年の治安維持法改悪、特高警察の設置3・15共産党員の大検挙など国内治安体制を強めた。翌二九年一〇月二四日の「暗黒の木曜日」と呼ばれたウォール街の大暴落は、未曽有の世界大恐慌の合図となった。日本にもその波は直撃し、中小企業は次々倒産し、労働者の賃金も下落した。こうした中で、日帝は、一九三二年の満州事変(柳条湖での満鉄爆破)と、侵略戦争へと歩を進めていた。
 こうした中でも一九三〇年に闘われた岸和田紡績女工ストライキでは、日本人女工・朝鮮人女工の共同闘争が行われている。岸和田紡績の女性労働者の闘いも戦前の労働運動の大きな闘いとして特筆されているが、この闘いに朝鮮人女工たちも参加し果敢に闘い抜いた。
 また、東京の多摩川では砂利採堀を多くの朝鮮人の人たちが担っていた。砂利採取の現場では「一九三〇年代に入ると河原での手掘りの採取が禁止されるようになり、次第に機械を使う大規模な採取業者に低賃金で雇用されるようになって」(『東京の中の朝鮮』在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会編)いた。
 こうした中で一九三一年に下丸子付近で賃上げと砂利採取権を求める闘いが果敢に行われている。この時、赤色救援会東京地方委員会は次のような檄文を発している。
 「去る七月二〇日丸子多摩川砂利採取の朝鮮の兄弟達六百余名が集まって1、砂利採取権を労働者に与えよ! 2、機械船を撤廃しろ! 3、砂利の値段を六割に値上げしろ等々の要求を決めるために職場大会に移ろうとした時、突然襲来した官犬ども……直ちにデモに移り……素手で兄弟たちは屈せず二時間余に渡って闘い続けたが……一二〇人の兄弟たちが大森、蒲田、世田谷の各署に検束された。多摩川砂利採取の兄弟たちが掲げた要求は生きんがためのやむにやまれぬ要求だ。内務省は悪辣なる資本家合同組合に、これまで自由に採取していた一里余にわたる地域を譲渡し……合同組合は機械船で採取した砂利を半値で問屋へ卸すことによって、手掘採取の兄弟たちを窮地に追い込んでいるのだ。(中略)これまでダラ幹の影響下にあった日本人労働者は三百代言交渉に愛想をつかし、代表者八名を職場大会に送り、民族的偏見をけとばして日鮮労働者連帯闘争の実を発揮したのだ(後略)」(『在日朝鮮人運動史』朴慶植著より)。
 このように争議は、日朝の労働者が共に闘った。しかし、一九三二年満州国設立、国際連盟脱退と中国侵略戦争に向けた動きが進む中で、こうした共同闘争は崩れていった。日本反帝同盟(一九二九年一一月結成)第二回大会(一九三四年)に次のような報告を行っている。「神奈川県砂利採取の打ち切りを端緒として起きた砂利争議の際、日鮮労働者は合同して起ち、要求の全部を貫徹した。然るに雇用主は要求を実行しない。そこで再び要求の即時実行を迫ったときは、一〇〇名の朝鮮人労働者は起ったが日本人は起たない。『諸君ら日本人には新しい仕事を世話するから朝鮮人と共にストライキなどをやるな』と欺瞞されたためだ。(中略)日本の勤労者大衆の中から帝国主義からの影響たる民族主義と排外主義を叩き出すことこそ我が同盟の中心的任務である」(『在日朝鮮人運動史』)というように、共同闘争が崩れると同時に中国侵略戦争に向けた動きは強まっていった。


●3 国際共同闘争の意義と限界

 日帝が侵略した中国において、また朝鮮半島から生活のために日本にきた労働者と日本人労働者が共同闘争を行ったことは意義深いことである。労働者として連帯し団結することは当たり前のことである。その当たり前が困難になるのは、帝国主義足下の日本人労働者が為政者にからめ取られてしまうからである。
 一九〇五年のポーツマス講和条約の時、日本では「日露戦争で一〇〇万の戦力を動員し、二二億円を費やしたのに、賠償金も取れない講和を結ぶとは何事か」と日比谷焼き討ち事件が起きた。戦争遂行のためにナショナリズムに煽られていた労働者民衆は更なる大陸の領土略奪を求めて暴動を繰り広げた。そして、こうした差別排外主義の機運は一九二三年の関東大震災時の朝鮮人・中国人等の大虐殺となって再び吹き荒れた。差別排外主義の下に労働者民衆が組織されてしまったことは、アジア太平洋侵略戦争に動員されていった大きな要因になっている。労働運動の現場においても、日本人労働者は懐柔され戦線から離脱した。
 こうした教訓をしっかりと捉え返すことが今こそ重要になっている。中国や朝鮮への排外主義的言説が巷にあふれている。日本人労働者は、この差別排外主義に抗し、反帝・反侵略・国際連帯の闘いに勝利するという任務を貫徹していこう。


 


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