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   【翻訳資料】韓国労働運動の歴史を学ぶ
                      許榮九(ホ・ヨング)

  闘う労働者が労働運動史の第一著者
   
~サムスンは解雇労働者キム・ヨンヒを復職させろ!
(翻訳にあたって)本稿は許榮九(ホ・ヨング)AWC韓国委員会代表・平等労働者会代表が二〇一九年八月二二日にソウル市江南(カンナム)駅交差点で行った三星(サムスン)キム・ヨンヒ解雇労働者高空座込み場支援集会中の路上講演「闘う労働者が労働運動史の第一著者――サムスンは解雇労働者キム・ヨンヒを復職させろ!」の翻訳だ。〔  〕は訳注。



 連帯して下さる同志たちに感謝申し上げます。〔数十年前に労働組合運動を理由に不当解雇され、現在解雇撤回を求めて〕高空座り込み中のキム・ヨンヒ同志が最も苦労していて、サムスン副会長と名前が同じ被解雇労働者のイ・ジェヨン同志もご苦労様です。こうして時々来て顔を見て連帯するだけでは足りないということは分かっていますが、こうして共に連帯している皆さんと一緒にいるということに慰められています。思ってもいなかった路上講演を要請されました。この闘いが路上講演によって解決されるのであれば毎日でもしなければなりませんね。
 連帯の一つの形と思い、ここに来ました。民主労総前副委員長とご紹介いただいたように、闘争現場で以前会ったと思います。話をしたり演説をしたりすることだけでは足りないと常に思っています。今日の演題は「被解雇労働者と労働運動の課題」と公示されていたはずです。労働運動の過程で解雇者が避けられずに発生するものですから、題の順序が逆になっています。メモを中心に三〇~四〇分程度申し上げる予定です。
 今から申し上げる内容は、私が第一著者ではありません。私は第三著者程度になります。第二著者は歴史学者でしょう。第一著者は命を賭けて闘っている労働者です。労働者が闘うこと、闘う労働者が歴史を記録するのです。もちろん、歴史学者が私のように労働者の闘いを語ったり文章として残したりもしますが、闘争それ自体によって歴史を書くものと考えます。生物学的進化論に「適者生存」という理論がありますが、近頃は歴史を記すという意味で「記す者の生存」という言葉を使うこともあります〔訳注―「適」と「記」のハングルの綴りが同じなのでそれに引っ掛けた〕。
 私たちが光化門(グァンファムン)に行くと李舜臣(イ・スンシン)将軍や世宗(セジョン)大王の銅像しかないだろうか? もちろん彼らは歴史的に立派な人物でしょう。私たちが見るドラマや映画は、朝鮮王朝実録に出てくる王朝史をめぐる話しかないだろうか? もちろん小説では〔義賊〕イム・コクチョンのような小説がありますが、歴史的に考証できる記録が足りないので、証拠と事実関係が求められるため、民衆の歴史が再現されるのは現実には難しい側面があります。
 だから労働者の闘いを記録しなければならないと思います。最近はSNSが発達していて非常に良い条件です。昔の全労協〔訳注―一九八〇―九〇年代の韓国の労組連合組織〕と民主労総を建設した当時を考えてみると、記録がそれほど多くありません。当時、労働者ニュース製作団のようなメディアで困難な中、撮影して作りました。おそらく国家情報院〔旧KCIA〕・検察・警察にもっと沢山の資料があるかもしれません。私は個人的に数多くの演説や討論をしてきましたが、「記す者の生存」について認識していたせいか、ほとんどみな記録として残しました。資料集も出し、今も記録しています。
 過ぎ去った時期に民主労総の委員長や幹部として闘った仲間に尋ねると記録がそれ程ありません。権永吉(クォン・ヨンギル)、段炳浩(ダン・ビョンホ)委員長などの演説文はむしろ情報機関に行けば見つかるでしょう。労働者が権力を握ったのであればそうした資料を探し出せるはずです。青瓦台〔チョンワデ、大統領府〕が今日、日韓軍事情報保護協定(GSOMIA)を破棄しましたが極めて当然と思います。締結された当時からでたらめでした。朴槿恵(パククネ)は青瓦台の中に幽閉されていましたし、総理である黄教安(ファン・ギョアン。現自由韓国党代表)は南米に出張に行っていて、経済副総理が主宰する閣僚会議でGSOMIAの締結を決議しました。署名は国防省で国防大臣と駐韓日本大使が代理署名しました。米国がさせる通りに日本と仲良くしなければならないという協定だったと思います。
 韓国をホワイト国から除外すると日本が発表している現在の状況を思う時、過ぎ去った時期の日韓関係を考えることになります。先日私が十分ではないけれども資料を整理して韓国労働運動一三〇年史を講義したことがあります。一八七六年に日本帝国主義の強圧で江華島(カンファド)条約が締結されてから一四三年が経ちました。一八九四年、東学革命が起きました。それ以前の日韓関係のうち、壬辰倭乱〔イムジンウェラン、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争〕を考えてみると、日本の侵略で途方もない荒廃を被りましたが、李舜臣将軍の勝利、義兵闘争、日本の国内事情などの様々な要因で勝利した戦争と記憶しています。しかし、旧韓末の一九一〇年に日韓併合が強制的になされるまで歴史は明らかに敗北した歴史でした。
 ある人は壬辰倭乱を、李舜臣将軍が苦難を被ったが、それでも国家権力と民衆が、軍隊と義兵が結合して戦ったので勝利できたが、旧韓末は国家権力の官軍と日本軍が連合して東学農民軍を踏みにじったので国は滅びるほかはなかった、と主張しています。その後、国を取り戻そうと独立運動に立ち上がった義士や志士の中には、東学農民軍討伐の先頭に立った人もいました。当時の国家や国は王朝体制を指すものだったので、両班(ヤンバン、地主の支配層)から見れば封建体制に抵抗する民衆は討伐の対象になったのでした。
 韓国憲法の前文を見ると、三・一運動精神を受け継ぐとなっていますが、三・一運動を三・一革命に変えなければならないと考えているのと同時に、憲法前文を東学革命から始めるべきと思っています。一八九五年、チョン・ボンジュン将軍をはじめ東学革命の将軍五人がソウルに移送され死刑に処された典獄所(ジョンオクト)という、鐘閣(ジョンガク)にある永豊(ヨンプン)文庫の前です。西大門(ソデムン)刑務所が作られる前にあった監獄で、ここで絞首刑に処されました。昨年そこでチョン・ボンジュン将軍銅像除幕式がありました。
 近代的法律が当時導入されて単審でなく二審を経て執行する段階でしたが、その施行に先立ってチョン・ボンジュン将軍を急いで処刑してしまいました。二審まで待つ間に民衆が立ち上がるかもしれないと考えて急いだのでしょう。最近ドラマで見た通り、鳥銃に抗して竹槍を持ち、ほとんど体一つで対抗しました。冬に農民軍が履いた草鞋は雪解けで水が入り、足は凍傷にかかるほかありませんでした。官軍と日本軍の合同討伐作戦でほとんど抹殺されるほどでした。以降、国が滅びて両班や官吏の家の人々が独立運動に大挙立ち上がりましたが、旧韓末の民衆の抗争は弾圧したのです。それが韓国の歴史の限界と思います。
 一八七六年、開港と共に日本帝国主義の収奪が始まりました。初期の略奪は大きく二つですが、食糧と鉱物でした。鉱山を発掘して鉱物を掘り、港を通して略奪していきましたが、韓国最初の労働運動は炭鉱労働者の闘争から始まりました。そして鉱物を船に載せる仕事をする港湾労働者も労組を作って闘いましたが、近代的意味での労働者といえます。従って、鉱山と港湾の労働者の闘争が韓国労働運動の出発点といえます。
 日本帝国主義によって強制開港されてから一四三年、近代的意味での資本主義的賃労働関係の中で労働運動が始まってから一三〇年余になります。それ以前に実質的に国権は奪われていましたが、一九一〇年、強制的に併合されて朝鮮は没落しました。日帝は東洋拓殖株式会社を設置し、土地調査事業を通じて略奪していきます。乙支路(ウルチロ)・明洞(ミョンドン)の入口で見ると、KEBハナ銀行(旧外換銀行)のそばに羅錫疇(ナ・ソクジュ)烈士の銅像があります。そこに東洋拓殖株式会社があったのですが、この建物に爆弾を投げて通りで警察と銃撃戦を行って逮捕され散華しました。初期一〇年間に土地を強奪され、収奪と略奪が進みました。反面、親日勢力は土地を認めてもらうことができました。それで三・一運動が起きるほかはありませんでした。先に私は三・一革命でなければならないと話しました。
 私たちは歴史で三・一万歳運動だけ教えられ学びました。もちろん、柳寬順(ユ・グァンスン)烈士に代表される万歳運動が全国各地で起きたことは事実です。ですが三月二日から繰り広げられた労働者闘争の歴史は教えられていません。当時、鍾路で労働者デモが起こります。兼二浦(ギョミポ)製鉄所〔訳注―三菱製鉄によって一九一七年に黄海道(ファンヘド)松林面(ソンニムミョン)に建設された製鉄所〕、東亜(トンア)煙草工場〔訳注―一九〇六年に金子直吉が設立した煙草会社で、一九二一年まで韓国の煙草産業を主導した日本企業〕、鉄道労働者が本格的にストライキを行って鍾路で街頭デモに打って出ます。太極旗を持ち万歳(マンセー)を叫んだ行動への言及にとどまり労働者闘争に触れないこれまでの通説に納得できますか? 労働者が生産を止めてストに立ち上がったことを知らなければなりません。
 労働者がストをして鍾路で街頭デモを行ってから今年(二○一九年)でちょうど一〇〇年になる年です。ソウル駅から光化門、鍾路から光化門、光化門から鍾路に行進する場所は非常に歴史的な場所です。李明博(イ・ミョンバク)政権当時、光化門交差点に明博山城(ミョンバクサンソン)〔二〇〇八年に米牛肉問題で一〇〇万人ろうそくデモが起きた時に警察が各所に設置したコンテナーによるバリケード〕で封鎖し、朴槿恵政権の時に鍾路一街(イルガ)で農民の白南基(ペク・ナムギ)さんが警察の放水で吹き飛ばされて生死の境を彷徨い亡くなりましたが、青瓦台から一〇〇mの地点にまでろうそく抗争を通じて前進することができました。
 私がろうそく抗争の最終局面に青瓦台前集会で、労働者民衆がここまでくるのに六〇〇年かかったと話したことがあります。昔民衆が宮廷の前まで敢えて行くことができたでしょうか。行けません。光化門広場に目安箱の鐘があり直訴を上げたといいますが、それは地方の進士〔ジンサ。科挙の小科に合格した人〕や両班が韓服を着て上京して行うもので、学のない民衆は南泰嶺(ナムテリョン)〔ソウル南方の峠〕を越えることも難しかったのです。たとえそこを通過したとしても、〔漢江南岸の〕黒石洞(フクソクドン)の渡し場で船に乗る前に叩き出されました。
 ろうそく抗争以前は進出できた場所が光化門だったのですが、現在では[その先の]青瓦台前まで来られるようになりましたから、朝鮮王朝五〇〇年、その後一〇〇年経って六〇〇年かかったと話したわけです。鍾路や光化門で労働者がストライキとデモをするようになってから一〇〇年経ったという点を申し上げておきます。三・一革命が起きた一九一九年三月二二日には車今奉(チャ・グムボン)という鉄道機関手が労働者七〇〇人を組織して万里洞(マルリドン)から独立門(トンニムムン)まで街頭行進を行います。そして三月二七日、京城(キョンソン。現在のソウル)駅前で数千名の労働者が集まり、朝鮮労働者大会を開きました。今の全国労働者大会と言えます。
 三・一革命は二カ月間続きましたが、万歳デモ一五〇〇回、延べ人数二〇〇万人が参加、七千五百人が殺され、四万六千人が検挙されました。その四年後の一九二三年、義烈団の申采浩(シン・チェホ)先生の「独立宣言書」によって朝鮮革命宣言が発表されました。その年に最初のメーデー行事が執り行われました。九六年前のことです。一九二五年に朝鮮共産党が創党し、一日八時間労働制、最低賃金、集会・結社の自由などが宣布されました。〔しかし韓国の労働者は〕一日八時間、週四〇時間労働を今もなお争取できないまま世界最長時間労働に苦しめられています。
 人間らしい生活のできる最低賃金さえ保障されずにいます。最低賃金一万ウォン(約千円)の公約は破棄され、現在の最低賃金すら奪い取ろうとする攻撃が続いています。文在寅(ムン・ジェイン)政権一年目に最低賃金線上にある六〇〇万人の労働者にとって賃金引き上げ分は、政府支援金の三兆ウォン(約三千億円)を除くと一〇兆ウォン(約一兆円)程度の引き上げでした。その年に韓国の一〇大財閥が社内留保金として蓄積した額が五〇兆ウォン(約五兆円)を超えます。その一〇兆ウォン(約一兆円)の賃金引き上げ分で国が滅びると〔保守野党と右派マスコミが〕大騒ぎしたところ、結局文在寅政権は所得主導成長、最低賃金一万ウォンの公約をすべて破棄してしまいました。今、日本が経済報復しているので、サムスンの〔副会長で実質最高責任者である〕イ・ジェヨンが日本へ行き来しながらまるでサムスン電子を押し立てて救国の独立闘士のように振舞う状況に至りました。
 一九二九年、朝鮮半島で最初の地域連帯ゼネストである元山(ウォンサン)労連ゼネストがありました。元山地域の二二〇〇人余りの労働者が日本帝国主義に抗して三カ月間闘いました。しかしその大部分が解雇されました。資本は労働者を解雇して生計を断ち、労働者の内部で仲たがいさせて分裂されることにより闘争を無力化させていきました。弾圧の強度が激しくなりました。その後、公然闘争はますます難しくなりました。それ故、一九三〇年代は革命的労働組合運動、赤色労組、地下運動、パルチザン、海外移住が始まりました。命をかけなければできない労働運動になりました。安載城(アン・ジェソン)の小説『京城トロイカ』(二○○五年。邦訳書(吉澤文寿・迫田英文共訳)あり)を読むと一九三〇年代当時の労働運動が理解できます。
 今、キム・ヨンヒ同志が高空座り込みをしていますが、韓国で最初の労働者の高空座り込みは、一九三一年五月二九日、平壌ゴム工場の女性労働者、姜周龍(カン・ジュリョン)が乙密台(ウルミルデ、高さ四〇尺=一二m)で九時間行ったものです。キム・ヨンヒ同志は降りるように要求したりしても拒否するように、姜周龍も当時、無理に引き下ろすならば飛び降りると叫びました。それほど高くない屋根で、空間的に持ち堪えがたく、引きずり降ろされるほかはありませんでした。

※ここからつづき

 〔一九四五年の〕解放以降は朝鮮労働組合全国評議会(全評)、「評議会」という単語が大変重要です。官僚化した組織ではないことを意味するものです。解放以降に一六の産別組織に二二三支部、一七五七地方組合、全組合員が五五万人でした。民主労総が一〇〇万人を超えましたが、当時と今の労働者数を比較すれば途方もない組織だったといえます。当時は農民が多数だったことを勘案すれば労働者の多数が組織されたといえます。全泰壱(チョン・テイル)烈士の墓地の隣に碑石が一つありますが、「三〇〇万勤労者」となっています。もちろんそれよりは多かったでしょうが、労働省が統計的に管理している数字ではなかったかと推測しています。
 賃金労働者は現在約二〇〇〇万人に少し足りないと労働省や統計庁が公式に出しています。民主労総の労働者大会に行くと最近は「二五〇〇万労働者」と話すこともあります。アルバイト労働者、短時間労働者を含めば公式統計よりはるかに多いということを示しています。一九九五年に民主労総を創立した当時の組合員数は四〇万人に過ぎませんでした。ですが、解放直後に五五万人であるならとても大きな組織です。当時も一日八時間、最低賃金の要求に変わりはありませんでした。そして解雇と失業に反対するという要求を掲げました。
 労組は解雇には当然反対しますが、失業に反対するという要求は労組の要求というよりも社会的要求かもしれませんが、当時全評は「失業反対」も主な要求に掲げました。それで全評傘下には「失業者委員会」がありました。就業者と失業者は全く同じ労働者階級だと全評は規定しました。こうした伝統を受け継ぐのであれば、民主労総もアルバイト労働者などの未組織労働者と失業者の問題を解決するために役割を果たすべきでしょう。
 解放直後に米軍政下で工場稼動率が落ちます。なぜ落ちたのでしょうか? 日本の資本家が去った工場を労働者が自主管理しようとするや、南側を支配し始めた米国がこれを容認するはずがなかったのでしょう。それで工場の稼動を止めて労働者を追い出したのでしょう。一般的に解放以後に工場稼動率が落ち生産量が減ったと言うだけですが、自然にそうなったわけではありません。他方で米国は自国で過剰生産された商品を持ってきて販売する必要がありました。当時の工場閉鎖は働き口を失って解雇されることでもありましたが、南側の経済が日本帝国主義から米帝国主義の支配に入っていく状況だったのでこれに反対する闘争でもありました。言ってみれば反帝国主義闘争でした。
 全評は一九四六年九月二四日、一日にコメ四合の配給、職場閉鎖と解雇に絶対反対などを掲げてゼネストに突入します。組織された労働者二五万人、未組織労働者五万人、同盟休校一万五千人が参加して一週間ゼネストを展開します。しかし九月三〇日、米軍政は戦車と機関銃で武装した警察三五〇〇人を前に立て、大韓労総など右翼テロ集団千人と合わせてゼネストを破壊します。この過程で三人が死に、数百名が負傷し、一八〇〇人が西大門(ソデムン)刑務所に閉じ込められました。
 全評ゼネストが鎮圧されると同時に、同年一〇月一日、大邱(テグ)人民抗争が触発されました。大邱・慶北(キョンブク)は現在非常に保守的な地域になっていますが、当時は「南韓[ナムハン。韓国南部の意]のモスクワ」と呼ばれました。この過程で死亡三千人、行方不明三千六百人、負傷二万六千人、一万五千人が投獄されるに至ります。まさに戦争でした。全評は一九四七年に一日ゼネストを展開しましましたが、弾圧により組織が崩壊する結果をもたらしました。
 労働者は現場に戻り、現場労組は御用の大韓労総に置き換えられました。面白い逸話のようなものですが、大韓労総が作られた時、労組を設立する際に最近は労組委員長を中心に役員が構成されますが、当時は総裁・副総裁がいて、その次に委員長がいました。それで、大韓労総の初代総裁は李承晩(イ・スンマン)、副総裁は金九(キム・グ)でした。国家権力が労総[=労働組合のナショナルセンター]を作ったことが分かります。金九もまた民族主義者でしたが、労働者階級の代弁者ではなかったことが分かります。
 もう一つ、一九四八年の済州(チェジュ)四・三抗争について吟味する必要があります。一年前の一九四七年、三・一節二八周年済州島大会で警察の発砲により六人が死亡した事件を機に、三月一〇日に済州地域の労働者の95%が参加するゼネストがあったという事実を想起する必要があります。四・三抗争は偶然に起きたわけではないことを示しています。米軍政と李承晩勢力が南側の単独政府を樹立するための投票を全国で唯一中止に追い込んだのが済州地域でした。韓国の歴史は、一九一九年三・一万歳運動が全国に広がり、一九四八年済州で四・三抗争が起きたということを述べるだけで、その過程で起きた労働者ゼネストと解雇について話しません。
 一九四八年、制憲議会憲法が作られる際に初代国会議長が李承晩でした。その国会で憲法を制定し、その法により李承晩を大統領に選びました。当然、米国の保護下でなされたものです。その当時の国民が願う体制についての世論調査の統計を見ると、社会主義70%、共産主義10%、資本主義などその他20%でした。李承晩は米国に操られていて、国会議員の相当数が保守的指向を持っていましたが、当時の社会的雰囲気が反映された進歩的な憲法だったといえます。制憲議会以降、今に至るまで憲法は何回も改正されましたが、当時の制憲憲法には、公共部門といえるガス・電気・水道・鉄道・道路・輸送はもちろん、金融・保険なども国公有化しなければならないと規定していました。近頃は保険といえば三星生命など民間の保険しかが思い浮かびません。三〇年、四〇年の生涯を三星など財閥系保険会社の民間保険に入ると、会社はその金でビルを買って投機し、そのように金を回し富を増やして引き継ぎます。今、三星生命に長期間加入していた癌患者が約款通りの保障を受けられずに闘っています。
 銀行だけでなく保険会社も国公有化しなければならないと制憲議会憲法に規定した理由が分かると思います。金は国家が管理すべきです。もちろん、諸個人が月給をもらってひと月生活するのは私的に管理すべきですね。しかし銀行や保険などは国家が管理すべきなのに、[一九九八年の]IMF外国為替危機以降は中央銀行である韓国銀行と産業銀行以外は国策銀行のほとんどが民営化されてしまいました。金が資本の側に渡る限り労働者は搾取されるしかありません。
 一九六〇年の四・一九革命当時、前日に高麗(コリョ)大生が街頭に出て、ソウル大文理学部では宣言文が出るなど、大学生が四・一九革命の主役でした。しかし、当日李承晩政権の発砲で数百人の死亡者が出て、中高生が大学生より多く死亡しました。青瓦台の噴水台の前で一人デモする所に行ってみると、地面に四・一九革命当時の最初の発砲地域という表示があります。
 当時は小学生もデモに出ました。韓国は今どうなっていますか? 高校の時は大学入試の第一次試験を受けようと、〔研究論文の〕共著者として名前を載せて内申評価を上げて大学に行き、大学に行ったら英語の資格に就職準備で忙しく、それでも就職できなければ〔予備校・専門学校の集中地域である〕鷺梁津(ノリャンジン)の専門学校に行ってさらに数年勉強してということで、社会がどのようになろうが若者の活力が弱まっているのです。
 全労協と民主労総の時期〔である一九九〇年代前半〕に労働者が闘った時、労学同盟は基本でした。全大協や韓総連をはじめとする学生運動組織があったから可能なことでしたが。民主労組を作ったという理由で三星財閥の弾圧を受けて高空座り込みをしているこの場所にそうした連帯闘争が作られるべきですが、そうなっていないのが現実です。こう言うと民主労総だけでもしっかり闘えと言われるでしょう。しかし民主労総もよく見ると非常に厳しいです。ですが、より厳しい状況の労働者がいるという事実を肝に銘じなければなりません。こうした労働者の問題を共に抱えて行くことができなければ労働運動は停滞して官僚化するほかはありません。
 一九七〇年代の苛酷だった朴正煕(パク・チョンヒ)維新独裁政権の時期には女性労働者が韓国民主労組運動の先鋒で闘いました。数日前に牡丹(モラン)公園でYH貿易のキム・ギョンスク烈士四〇周忌がありました。YH闘争によって一八年間の朴正煕軍事独裁政権が没落することになりました。一九八七年の労働者大闘争から今まで五千人を超える労働者が拘束され、解雇・焼身など数多くの労働者の死と献身によって全労協と民主労総を建設し、ここまできたのだと思います。ここではキム・ヨンヒ三星被解雇労働者が、大邱に行けば実質的に朴槿恵によって解雇された嶺南(ヨンナム)大病院二人の女性労働者が高空座り込みをしています[この闘争は今年に入って解雇撤回、現職復帰を実現し勝利的に解決した]。
 組織された労働者が自らの雇用と賃金だけ握りしめて行ったとしても、それが全て守られるわけではありません。全評は失業者も含めて共に進むべきと宣言して組織したはずです。ですが今、失業者までは至らなくても、被解雇労働者は直ちに共に抱えて進んで行かなければならないでしょう。こうした展望を提示して運動を繰り広げなければなりません。今の労働運動は反省すべき点が多いです。連帯とともに労働運動に対して多くの指摘をしなければなりません。キム・ヨンヒ被解雇労働者が完全に降りてきて地を踏み、元の場所に戻れるようにしなければならないでしょう。私は二〇〇六年、廬武鉉(ノ・ムヒョン)政府が非正規職悪法を通過させようとした時、国会前の闘争で逮捕され、公共部門の職場で解雇されて八年間復職できずに定年が過ぎました。
 いわゆる労働人権弁護士[出身の]大統領の時期でした。当時私たちは反対しましましたが、米韓FTAが通過すれば貿易規模が増えて働き口が増えるといいました。今はどうですか? 米国のトランプや日本の安倍を見て、地球上に自由貿易がありますか? 強大国は保護貿易で、弱小国には暴力的自由貿易で収奪していっています。米国で廃棄処分される兵器を〔韓国政府が〕数百兆ウォン〔数十兆円)を投じて今後数年間買い取ることが自由貿易なのか問わずにはいられません。
 ろうそく革命を通して政権が変わりましたが、最近曺國(チョ・グク)法務大臣候補者をめぐる論争を見ながら革命は続かなければならないと切に感じています。私が講演を始めた時に第三著者といいました。私がこうして話せるように整理してくれた歴史学者が第二著者です。しかし、あの高空で座り込みを行うキム・ヨンヒ同志のような労働者が労働運動史の第一著者だと申し上げて私の話を終えます。
   
     (高橋功作 訳)




 

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