共産主義者同盟(統一委員会)

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  ■読者からの手紙     東京・介護労働者

  沖縄平和行進に参加して





 五月十五〜十七日、日米軍事強化とグアム移転協定に抗議して、三十二回目の沖縄「5・15平和行進」が取り組まれた。沖縄本島の東・西・南コースと、宮古、八重山のコースを合わせ三日間のべ七千二百人が参加し、最終日には宜野湾海浜公園の「復帰三十七年 平和とくらしを守る県民大会」に三千五百人が合流した。

 私が参加した南コースは、今も一家全滅の屋敷跡が点々とあり、今なお八千人の遺骨が埋もれているといわれる南部戦跡を巡ってひめゆりの塔に至り、翌日は摩文仁の平和祈念公園から南風原町にひたすら歩いて戻るという三日間四十六キロメートルのコースだ。西コースの出発地でもある本部町の自衛隊P3C送信基地建設反対闘争は二十一年間にわたり、ついに昨年七月建設計画撤回をかちとった。東コースは、ヘリ基地建設反対のオジー、オバーの座り込み闘争が五年間続けられている現場、辺野古海岸を出発地に、極東最大の米軍嘉手納基地を一周する。

 平和行進のスローガンである「生命どぅ宝」「軍隊は住民を守らない」は、天皇制護持の「捨て石」戦として沖縄人十五万人が犠牲となった沖縄戦の教訓だ。労働組合の事前学習会では、一フィート運動の沖縄戦ビデオを観、またコース学習では南部三大壕(轟壕・真壁千人壕・ガラビ壕)の中には五歳以下の子どたちを日本兵が絞殺し薬殺したという証言があり、今回初参加の三十歳前後の青年四人は絶句していた。自分たちの子どもと重なる思いがあるのだろう。

 沖縄現地はまだ梅雨入り宣言がなく、気温三十度前の酷暑の中、真壁集落沿道のお年寄りや保育所・小学校からの声援と拍手に胸が熱くなる。あと数キロメートル、気を奮い立たせての行進となった。皆がひめゆり資料館見学に行っている間、戦後いち早く散乱する遺骨三万五千余柱をおさめたという「魂魄の塔」に一人行ってみた。ひめゆりの塔からサトウキビ畑の先一・五キロメートル程海岸よりだが、年輩の二人と観光客一人しかおらず、只ただ静寂の中にあり、私は花を手向けてきた。

 三日目は、浦添市役所を出発して、嘉数公園で昼食をとり、普天間基地前の抗議闘争から「県民大会」へと合流した。午後三時すぎ野外劇場は一杯になっていた。地元、伊波市長が「基地がなくなると希望を持った復帰から三十七年経ったが、基地は何一つ変わっていない」と挨拶。八重山からは、五月三日「親善訪問」とウソぶく米海軍掃海艦の石垣島強行寄港に対して、市長・市議団や住民が「米兵を街に入れないぞ」とスクラムを組んで約五時間たたかい阻止したことなどが報告された。特別報告として、辺野古のヘリ基地反対協と、東村高江区のヘリパッドいらない住民の会から訴えがあった。本部P3C闘争二十一年間の勝利に続き、新基地建設を絶対に許さない地元住民を先頭にたたかい抜こうと、全体で確認した。最後に、会場全員でスクラムを組みながら「沖縄を返せー」の大合唱で締めくくった。

 辺野古新基地建設を前提に普天間基地など嘉手納基地より南五基地返還がパッケージとされ、日本負担六千億円の米海兵隊グアム移転協定に大きな怒りがわき起こっている。

 辺野古では、アセス後の防衛省は「環境影響評価準備書」に新たにヘリパッド四カ所を付け加えてきた。また高江の座り込みに対して国は「通行妨害禁止」仮処分を申請してきた。しかも当初、八歳の小学生まで含めていたという。何というヤマト意識か。薩摩の琉球侵略から四百年、明治天皇政府の琉球処分から百三十年、そして「核抜き・本土並み返還」といわれた一九七二年から三十七年がたつ、一体どこが変わったのか。平和な島をという願いは踏みにじられたままだ。いま、平和行進参加者の大多数の青年が、一九七二年以降生まれの世代となっている中で、「復帰運動」とは何だったのか? 基地のない平和な島を取り戻すたたかいの歴史をどう継承していくのか?が、沖縄の課題だと言われていた。沖縄―韓国と連帯した岩国・神奈川はじめ日本の反戦反基地闘争のひろがりを世代をこえてつくっていかねばならない。
 

 

 

 

 

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