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■寄稿(2009年5月)


   プロレタリアートの階級形成と差別―被差別を越える道  (上・中)

                                                      小山田竜胆



  小山田論文の掲載にあたって

 編集局はわれわれの綱領・路線・理論活動・実践を深化することをめざし、『戦旗』紙上での積極的な論議、提起にむけた投稿をよびかけている。また、寄稿を歓迎している。以下の論文は小山田同志から投稿されたものである。社会主義革命の主体―労働者階級、被抑圧人民・被差別大衆をいかに獲得し革命的階級へと形成していくのか、という課題はわれわれにとって重要な領域の課題である。この論文はこの課題をめぐる一つの意見として執筆者の責任において投稿されたものである。掲載については反対意見も存在したが、上記の論議を進める目的のために掲載する。論文の内容については編集局はこれに与するものではない。
                                    『戦旗』編集局 

 ◆もくじ

◇はじめに

1)プロレタリアートの二重性と差別―被差別を越える方途
@被差別被抑圧者の解放の内包を必要とするプロレタリアートの階級形成
A被差別被抑圧者のプロレタリア革命への参与
Bプロレタリアートの二重性と抑圧する側の部分性

2)差別―被差別を越える飛躍の環としての価値尺度の相対化
(1)差別する側が問われない構造の克服―相対化
@闘いの逢着―糾弾を取り巻く環境限界
A優劣関係再生産への回収構造
B戦いの孤立化とブルジョア民族主義≠ヨの回帰

(2)被差別者の飛躍の環―全体への責任主体となること
@糾弾決起にある可能性
A権力―責任―決定主体の形成と指揮指導能力の獲得
B全体性獲得の回路としての抑圧する側への指導・教育
【分離主義】【全体性の獲得】【抑圧する側への指導・教育】

(3)差別抑圧する側に必要な部分性の自覚―自己相対化
@主人意識―「差別抑圧する側にさせるもの」との一体化
A共同の闘いと部分性の自覚
B抑圧民族主義的態度と訣別するために―レーニン民植テーゼの再確認

3)価値尺度の相対化と共産主義

◇おわりに



 ●はじめに


 労働者がいかにしてプロレタリア革命の主体=プロレタリア独裁を実現する支配階級となるのかの階級形成論は、被抑圧民族人民被差別大衆の解放闘争論と不即不離のものである。それは、被抑圧被差別者の多くが無権利状態の労働者であり(あるいは不断に無権利の労働者として資本主義的生産関係に投入され)、その解放のためには二重の目標設定が必要だからである。それを通してこそ、被抑圧被差別者がプロレタリア全体の利害の立場に立つことが可能になる。同時に、それが抑圧民族人民の労働者に自己の限定性・部分性を自覚させ、真に全体性を獲得する営為ともなるからである。

 このたたかいは、マルクス主義を復権させる歴史(人類史)認識と結合する。近代主義的にまたスターリン的に歪曲されたマルクス主義≠ナは、労働者の解放も被抑圧民族人民の解放も絶対に不可能であり、したがって人類全体の「前史」を終わらせることもできない。いわゆる「生産力主義」と総括されるこの西欧マルクス主義とスターリン主義と闘いうる視座は、被抑圧民族人民と抑圧民族人民の労働者がプロレタリア的結合を実現する実践に宿る。ブルジョア的所有関係に規定される社会諸関係を越える闘いであり、そのためには不断に「生産力主義」に汚染される強者≠フ論理が見直されるべきである。そしてまた、機械的近代的国家論(廃止しうるものとしての国家)ではなく、「共同体(社会)から生まれ死すべきものとしての国家」(止揚する国家)というマルクス・エンゲルスの国家―社会論に依拠してこそ道は開かれる。

 私は、部落解放闘争に学びつつ(主体としての)女性解放闘争を実践し、在日朝鮮人(総称)との連帯活動を行ない、また障害者解放運動からも考える契機を与えられた。基底的には、アメリカの黒人解放闘争からも(ほとんど文献、映像からだが)ある。被抑圧者の解放は、その歴史性が違うように、具体的にはそれぞれ違うものであり、また当然違わなければならない。抑圧民族などのそれもまた然[しか]りである。それは一般論のみでは対応できないのであり、具体的に探究され実践されるべきである。ただ、一言いえば、それは国家がどのように形作られてきたか―国家形成(あり方)との関わりで捉えられるべきであり、そうしてこそプロレタリア革命との不可分性を見いだすこともできる。それぞれの具体的な解放の道を展望するためにも、ここでは諸解放闘争の諸実践の中から一般化・教訓化できるプロレタリア革命と被抑圧民族人民被差別大衆の解放の関係を述べよう。

 少なからぬ被差別者がプロレタリア革命に自己の解放の方途を求めてきたのであり、糾弾を水路とした被差別者の解放闘争自体が階級闘争を牽引してきた。

 歴史的に、差別抑圧に呻吟してきた被差別大衆は、さまざまな制動・弾圧をはねのけて糾弾に決起してきた。差別行為を弾劾し、差別者を糾弾し、差別意識を暴き、差別を生み出す社会構造に立ち向かいたたかってきた。このたたかいの中で自らの主体的力と能力を確信し、分断を突破し、同じ差別に苦しむ被差別者同士の結合を実現した。さらには、さまざまな被差別諸層と結びつき、差別抑圧する側に位置する(させられる)労働者・市民をも糾合し、共闘を拡大した。

 被差別者は運動の発展を通して、社会的差別分断構造と資本主義の支配の関係を突き出し、差別との闘いを階級闘争の内に据えてきた。他方、差別する側に位置させられる労働者人民は、この闘いに呼応し参加し学び、差別抑圧の重層構造の中の自らの存在を問い、解放闘争と結びつき差別排外主義と闘う中にこそ、自己の解放―階級闘争の勝利があることを理解し、実践してきた。

 糾弾闘争はこのような位置をもち役割を果たしてきた。そうであればこそ、階級闘争の前進のためには、この闘いの中で実現されてきた被差別者そして差別する側の共同の闘いのさらなる飛躍が求められる。とりわけ、たたかいの前進を欲する双方の先進的部分が、差別―被差別を越える道を探るその一助として、以下のことを考えたい。

 被差別者・被抑圧民族にとっては、部分や陰に押し込められていることの自覚を通した全体性の獲得、プロレタリア革命全体の責任を引き受ける見地を獲得することである。そのためには、抑圧民族・差別する側に置かれる労働者もその解放にとって、全体だと仮装されている自己の相対化―部分性の自覚がなされるべきことも強調しておかなくてはならない。

 抑圧民族や差別する側が全体であるような、あるいは(たとえば「日本人並み」というように)基準であるような尺度は、抑圧民族や差別する側が常に優越するような尺度でもある。この尺度に手をつけなければ、闘いは抑圧民族や差別する側が第一であるような序列に回帰してしまう。部分の自覚も不断に、劣った部分・優れた部分にされて定められた枠に回収されてしまうのである。不当である(あるべきではない)として否定するだけでは、尺度の相対化はできない。なぜそのような現実があるのか、なぜ現実に劣位に置かれつづけるのかの、その現実の形成と根拠を歴史の中に求める具体的探究を、現在の地平から再度始めねばならない。これまでの実践がさらに深く捉えることを可能にしている。そこに被差別―差別を越える展望を汲み取ってこそプロレタリアートの解放にとっての教訓となる。汲み取る力はまた、マルクス・エンゲルスやレーニンの考え方を理解する力となる。水平社宣言は、人間解放の精神・思想をもって価値観を転換することで、画期的な闘いを実現した。価値尺度そのものの相対化は、この人間の解放をさらに引き寄せるだろう(注:1)。

(注:1)抑圧と差別も、民族と人民も厳密には区別されその関係が示されるべきであるが、ここではあまり区別しない。「被差別者」「被抑圧者」と「差別する側」「抑圧する側」という言い方を基本としつつ、適宜、「〜者」「〜側」などと使う。対称的にしない理由は以下である。

 被差別者(差別される側)は、「障害を持っている△△さん」ではなく「障害者(障害者の△△さん)」という言い方に端的なように、存在そのものをまるごと規定される。「女」や「障害」等が個人の属性として認められるというより、個人がこれに下属させられている。それが現実である。同時に、「被差別者」との語(「女性」ではなく「女」と自ら言うことなども含め)は、差別から逃れるのではなく「被差別の自己」を押し出し肯定するものとして使われてもいる。

 「差別者」という言い方はそれに対応するのだが、差別する側にいる者が「差別者」と言われることに何かキツイものを感じるのは、それが(個人に対する)一面的な規定でありレッテル貼りであり、実際≠反映していないと思うからである。自分たちは個性ある存在であり、差別者でないあり方を選択≠ナきる自由も持っているというわけである。ここに、自由を持っている者と持っていない者との、置かれている立場の差が象徴的に表われる。それは、差別する側の枠の広さであり、享受している自由ゆえにそのエッジ〔淵〕(限界)を見ないで済み、それへの下属に気づきにくいこと(自覚の希薄さ)でもある。この非対称性は実践を通してこそ変えられるのであり、この現状をそのまま表示しておきたい。



 ●1)プロレタリアートの二重性と差別―被差別を越える方途


 「理論、実践、戦術および組織上の諸問題をたえず共同で解決することによって結束を固めた全プロレタリアートに依拠」(『民族問題にかんする批判的覚書』(以下『覚書』)国民文庫版一四頁)してこそ、革命党は生き生きとした活動を実現でき、革命を手繰[たぐ]り寄せることができる。そのためには、プロレタリアートの階級形成の中に被差別被抑圧者の解放闘争をはらみ込まねばならない。このプロレタリアートの二重性は、被抑圧者が全体から自己の利害を見ることと、抑圧する側(の労働者)が自己の部分性・限定性を自覚することによってこそ、団結が形成されることを示している。


 ▼(1)被差別被抑圧者の解放の内包を必要とするプロレタリアートの階級形成

 プロレタリアは、支配階級になるためにこそ、女性問題(性的分業問題)や身分問題(日本では主に部落問題)や障害者問題、民族問題などを学び、我がものとする必要がある。支配階級になるとは権力を持つことであるが、それは具体的には指揮権・決定(決裁)権を持つことである。それはまた、全社会を運営する見識・判断力・指導能力(統治能力)を獲得することであり、全体に責任を持つことの表明であり、実際にそれを引き受けることである。それによって、諸階層からの信頼を取り付けることも可能になる。

 労働者は、反戦闘争をはじめ、ありとあらゆる資本制社会の矛盾―ブルジョアの非道と闘うところに、常に姿をみせる。それは、労働者こそが、ブルジョア秩序と根本的に闘いえる指導勢力だからである。資本制の発展の中でその数を増大させ、資本主義の諸矛盾と闘い、資本制を根底から覆[くつがえ]すのみならず、新しい別の社会を作りだす力をプロレタリアートは、持っている。

 しかしそれは、可能性としてあるだけで、実際には労働者自身が分断され、指揮権や決定権はブルジョアジーに簒奪されている。国家や企業の運営においても、その能力は、ブルジョア社会・ブルジョア国家の保全とブルジョアの労働手代としての利潤の追求のためにのみ、発揮することが許容されているだけである。このような(ブルジョア的所有関係に規定される)状況を越え、搾取や収奪のない、階級そのものを必要としない社会を実現させるためには、労働者は自らをプロレタリアートとして、支配階級となるべく組織しなければならない。そして、いかなる社会を作るのかの実地として、プロレタリアートを形成している女性や部落民や障害者、諸民族の解放をも我がものとして内包しなければならない。


 ▼(2)被差別被抑圧者のプロレタリア革命への参与

 労働者と同様に女性を含めた被差別者も、プロレタリア革命に自己の解放を措定するならば、レーニンの言った「世界プロレタリアート革命へ自分が参加する見地」(『背教者カウツキー』国民文庫版九二頁)「すべての民族の利害、その普遍的な自由と同権を、自分の民族より上に置かなければならない」(『帝国主義と民族・植民地問題』(以下『民植』)国民文庫版一六一頁)から、自らの闘いを検証する必要がある。

 革命党は(つまり男などの差別・抑圧する側に位置する/させられる者も)、女性をはじめとした被差別・被抑圧者をも革命運動に組織しなければならない。同時に、被差別・被抑圧階層出身の革命家はその解放闘争を組織し革命運動へと指導し、のみならずその解放闘争をもって、革命運動を真に共産主義運動にふさわしいものとなるよう、影響を及ぼさねばならない。また、そうであるからこそ、プロレタリア革命につらなる被差別・被抑圧者の解放闘争の内容は、たとえば女権主義やシオニズムなどつまりブルジョア民族主義的立場から自己を区別し、「階級意識の曖昧化へ導く考え方」(『覚書』一二・七九頁)と闘わねばならない。

 レーニンは「ウクライナ〔被抑圧者〕のマルクス主義者が抑圧者たる大ロシア人に対するまったく当然極まりない憎悪に魅せられる」(『覚書』七七頁・『民植』一七〇頁)ことを認めている。しかしながら、だからこそ「この憎悪のほんのわずかをでも、…大ロシアの労働者の…プロレタリアート事業の上に持ち込むならば、このマルクス主義者は…ブルジョア民族主義の泥沼に陥っている」(『覚書』七七頁)ということと訣別した地点を、全体運動と解放運動の指導の観点においては、作り出さなければならない。


 ▼(3)プロレタリアートの二重性と抑圧する側の部分性

 プロレタリアート自身が常に二重性を持っている。すべての労働者が、また従ってプロレタリア政党の構成員も、労働者として一般的な共通の利害を持つ。他方、「ある職業の代表として、ある民族の一員として、ある地方の居住者として」(『覚書』二〇頁)、また女性や障害者としても、男性やいわゆる健常者としても特殊な問題(課題)を持っている。もちろん、支配的な性である男や支配的民族は、その存在と価値観が一般的普遍的なものと錯覚されているがゆえに、その特殊性には気づきにくいものではある。

 「労働者」といえば、われわれの多くも即座には男(の日本人/白人等々)をイメージしてしまうように、男や支配的民族の労働者の特殊な利害をそのまま一般的普遍的利害であるかのように幻想しがちである。だからこそ、この部分の「言語、心理、生活条件の特殊性」―部分性の自覚=自己相対化が、革命党の綱領とプロレタリアートの闘いを真に普遍的なものにする。労働者の当然の権利が、支配的性や民族の特権にされている事実に気づく契機ともなる。抑圧する側に位置させられることでの自己の困難も省みる縁[よすが]となる。

 「職業、場所、民族、人種上の差異にかかわりなく、プロレタリアート全体に共通する基本的な要求だけを述べている」革命党の綱領は、「生活条件の差異、…社会的勢力の相互関係の差異などに応じて、さまざまに適用される」(『覚書』一八頁)。つまり、これらの差異に応じて、「異なったやり方、いろいろな言語で」なされるのであり、それぞれの集団に特に関係する問題においては、「それに対応する組織の自由な決定に任[まか]される」。この、「一般綱領を達成するため」の「特殊な要求の決定、煽動方法の決定」は、もちろん被差別者にとって絶対に必要なものであるが、差別する側に置かれる者にとっても必要なのである。



 ●2)差別―被差別を越える飛躍の環としての価値尺度の相対化


 被差別者の(部落解放闘争に学んでの)糾弾を水路とした闘いは、差別―被差別双方からの共闘を実現し、また、糾弾を取り巻く社会環境を変えてきた。それゆえ、この切り開いた地平―変化は、たたかいの前進において機能してきた(抑圧する側を基準とした)価値尺度自体を相対化させることを要求しており、それに対応する差別―被差別双方の主体の飛躍を必要としている。

 そのためには、「日本人並み」「男並み」という尺度の下、そこに引き上げてくれる@lな関係、差別抑圧する側が基準であり中心であり主動・主導であるという構造と秩序の相対化が必要である。抑圧する側が全体でありあるいは全体を代表するという関係(注:2)の克服のためには、被抑圧者の部分性の克服と抑圧する側の自己の部分性の自覚、を通した全体性の獲得が求められる。階級(意識)の形成は、ここにあっては別々のベクトルが必要なのである。

(注:2)それは、「少年」が男の子のみを意味し(その場合女の子は「少女」と有徴表現される)、にもかかわらず時には女の子も含むという、言葉の了解に端的に示される。あるいは「彼ら」は男だけを意味するとしてそこに「彼女ら」を付け加え、そしていかなる場合でも、「少年少女」と同じように「彼ら彼女ら」と女を後ろに置く言語処理のあり方も同断である。

 これについては、国立市の小学校の教員などが中心となって編纂された『男女混合名簿の試み どうして、いつも男が先なの?』男女平等教育を進める会編(新評論一九九七年)を参照されたし。一言付け加えておくと、そこでは、慣習的な「男女」という言い方はされているが、行論では「女と男のパーセント」というような言い方も多用されている。


 ▼(1)差別する側が問われない構造の克服―相対化

 糾弾によって切り開かれた地平の、その先に行くために必要なものは糾弾の否定ではなく、糾弾を支えた価値尺度の相対化であり、それを担う差別―被差別の双方の主体の限界―十分性の対象化である。差別する側を尺度としテコとする限り、たたかいは優劣関係を再生産する構造に回収されてしまう虞れを持つ。それは被差別者のたたかいがプロレタリア革命という展望を見いだしえずに、ブルジョア民族主義へと誘引されてしまうものでもある。この構造、この関係性に自覚的に対処することが必要である。

@戦いの逢着―糾弾を取り巻く環境限界】差別は、民主主義的権利の剥奪と同時に、存在そのものを否定する命にかかわるものであり、劣等なあるいは不浄なものとして排除しつつ序列化するものである。被差別者自身がそれを内面化することを要求され、そうすることによってしか生きるすべが無い状態にさせられるものである。それゆえ、糾弾は、被差別者の絶対自己肯定抜きにはなしきれない、力の要るものである。

 しかしながら、日本人並み≠竍男並み≠ニいう「日本人」や「男」を基準・尺度=スタンダードにすれば、わかりやすく理解されやすく波及力を持ったのも、経験上の事実である。

 ところで〈○○並み〉という論理は、就学や就労あるいは選挙権といったアクセスからの排除のみが対象であるかの傾向も持つ。つまり、糾弾の発せられる端緒が存在への脅威であっても、糾弾が噛み合う現実場面(状況・環境)は、「民主主義の不存在」=資本制的民主主義の不十分性―スタートの平等=資本主義的自由主義の徹底化を攻防環にしての○○並みの権利の要求と洗練≠ウれた場合、ということになる。

 この論理では、すでにそれをもっている存在自体は問われにくい。それゆえ、たとえば男が基準・中心・普遍でありそれゆえ必然的に男が優越するという構造も、手がつけられにくい。むしろこの構造と存在を前提にすることで、尺度とすることが可能となる。教育などの内容自体も、実は支配民族(など)を中心にした価値観によって形成されているわけだが、そこでは不問、少なくとも二の次にならざるをえない。つまり〈○○並み〉とは、どこまでも「差別する側」を尺度として、不当性を共通認識に押し上げる機能をもつ装置である。この構造を前提にして、そこへの参入を図るときにこそ効果を発揮するといえる。

 一部を除けば被差別者や闘う側が積極的に〈○○並み〉をスローガン化したことはないにしても、社会状況自体がこのようなものとして反応するということとして、差別―被差別双方をこの枠組みが規定し、その発想を基底において限定した。そういう意味・側面ももっての〈○○並み〉であり、戦いを押し上げるテコの役割を果たしたと同時に、〈○○並み〉では根本に向かうことができないところへわれわれはすでに逢着している。

A優劣関係再生産への回収構造】〈○○並み〉という枠組みにあっては、差別する側が(価値)尺度として存在することが必然となる。ゆえに、「互いに」ではなく被差別者の頑張りだけが要求されがちで、「差別する側を一方的に尊重する関係」ともなりやすい。そして、一方が持っていない権利や自由は特権と化す。そこでは、被差別者の怒りや要求が特権の否定(権利の普遍化)ではなく「特権を分け与えてくれる鷹揚さ」の期待にすりかえられるあやうさがあり、とりわけ差別する側にあっては、自らが尺度なのだから自らを問う必要が発生しない。

 自らを問わないとき、(運動の中にあって)差別・抑圧の側のかかわりは、単に被差別者の怒りのエネルギーにしか着目しない抑圧民族主義的な利用主義となる。主体の意思とは無関係に「糾弾させる」あるいは「糾弾させない」などという論外なことも起こる。

 それだから、「糾弾主体の飛躍」ということが、差別にこだわること自体を否定して「労働者の利害」という名の男や一般民の利害への従属を要求するものともなる。差別する側が問われず、問われないから、被差別者の飛躍のみが、それも、男や日本人や一般民を目標にするかのような飛躍≠ェ差別―被差別の両者の共通目標となってしまう。

 抑圧する側の特殊な利害が普遍的な利害に仮装されている中では、これに対応すれば、被差別者にあっても、被差別にこだわれば部分に固着化させられ、普遍的な利害を掴むことができない。他方、普遍的・全体的な利害を掴もうとすれば、それは自らの怒り、そして解放とは乖離せざるをえない。つまり、普遍的な利害に仮装させてしまう尺度を対象とするところへ進まない限り、諸個人の意図がそうでないとしても、戦いはどこまでも特権の享受・分け前(おこぼれ=恩恵)に与[あずか]る方向へとへとドライブされてしまう。そこでは、差別する側に位置させられる者が優位な序列位置への回帰現象が起こり、〈男が優で女が劣〉といった価値観とその構造自体が再生産される。

B戦いの孤立化とブルジョア民族主義≠ヨの回帰】このような構造は被差別者の解放の志向も歪め、論議を不毛なものにする方向に作用する。そこでは、被差別者にあっても、糾弾を正当化させる内容上の優位性、その普遍的価値を提示し、闘いの方向・方針をめぐって議論する中で抑圧―被抑圧の止揚を課題にするのではなくなってしまう。共に闘うという前提が実は崩壊しているのであり、そこにあるのは、抑圧する側と同じ態度をとる報復関係ではあっても、共に闘う信頼関係の醸成ではない。

 それは不安と自信のなさの反映でもあり、被差別者の肯定性の防衛ではなく限界性の墨守にたやすく変わる。被差別者にとっては劣位に自己を固定化することだし、対抗的にはなれるが教育的・指導的にはなれず、抑圧する側も自己のあり方を問わないですむ。今一度レーニンの言葉を引けば、「労働者をブルジョアジーのいうなりにさせるために労働者をおろかにし分裂させる戦闘的・ブルジョア的民族主義」(『覚書』六七頁)である。怒りのエネルギーが差別―被差別の関係の固定強化に回帰するか、あるいは被差別諸層のプロレタリア的要素ではなくブルジョア的要素の敷衍を試みることになってしまう。スタイルとしてはいかに戦闘的に見えようとも激烈な言葉を使用しようとも、〈○○〉という尺度の下で特権を与えてくれることへの願望に帰着してしまう。どこかに差別者が差別者として存在し続けることが必要な構図である。

 差別する側(の自己)が問われない、それゆえ、被差別の側の闘いの限定性も問われず、実際には戦いを孤立化させるこの構造―関係性自体の自覚―尺度の相対化が必要なのだ。


 ▼(2)被差別者の飛躍の環―全体への責任主体となること

 被差別者自身が、部分に置かれ支配的性や抑圧民族次第になっているという構造―関係性を対象化しなければ、たたかいも不断に優劣関係の再生産へ回帰してしまう。この一方的な部分性あるいは受動的客体であることからの脱却は、糾弾をなしえた自己に内包する価値観への確信に支えられる。そして、全体への責任主体=権力―責任―決定主体として自己を形成してくことの中にある。そのためには、抑圧する側への指導・教育という態度もまた、価値(価値尺度)の相対化を通して獲得すべきであろう。抑圧する側もまた全体に対する部分なのだから、被抑圧者の全体性獲得の回路としてはそれも必要なことである。

@糾弾決起にある可能性】糾弾は、してはならないとされている自己主張の開始であり、貶[おとし]められている自己の恢復の契機である。さらにそれは、共感するものたちの共同のたたかいともなり、差別―被差別を越える契機ともなる。が、その端緒は、経験的に言えば、降りかかる火の粉を振り払うことである。それゆえ、そこには「された」「られた」「くれない」との言い方に端的なように、「受身・被害者」という性格がつきまとう。つまり、糾弾対象(差別抑圧する側)こそが優越しているという状況の中で、攻撃に対する防御としてなされるものである。

 しかしながら、糾弾をなしえる中に自己に内包された正当性を保障するもの―内容上の優位性・価値観が端緒的に存在する。それへの信頼と自信によって深化させれば、それまでの価値観を相対化し価値尺度を転換させる力、可能性を持っている。そうであるからこそ、糾弾の端緒にある限界と、その限界の墨守の果てにある差別―被差別の固定化、ブルジョア民族主義といったものへの回帰と、被差別者は闘わねばならない。

A権力―責任―決定主体の形成と指揮指導能力の獲得】詰[なじ]る一方では、相手が責任主体であり、相手がルールを作り、作る能力がある現実は変わらない(注:3)。階級社会―帝国主義が差別をこととするとは、被支配者の位置に外的にも内的にも順応させることである。そこにおいて被差別者が無傷であるわけがない。差別は外在的なばかりでなく、内面化させられ、実際に社会的に劣らされ、劣っていると意識させられる。自己主張せず相手に合わせるべきだとされること、一方的な受身、待ちの姿勢、支配的民族たとえば日本人(の男)を基準にして考える癖、こういったものが感性そのものをも浸食する。まさしく屈服させられる。差別による人間性の破壊が「他人を信用しない」「他者のせいにするしか生きられない」状況をも押し付ける。全体に対する責任など持たさせられないのである。

 なじる一方でしかないあり方が習い性になっていること自体が、客体であることを(一方的に)強要する差別抑圧の結果である。決断や指揮指導能力が必要とされるところでの不慣れと自信のなさの裏返しですらある。そういう自覚と自己相対化が必要だと思う。「支配階級」は、英語では「ルーリング・クラスruling class」ともいう。解放された植民地人民の国家・社会建設の困難も、主体的には権力行使における不慣れであり、それはルールを作り行使する主体からの排除と客体化にも起因する。この、決定や行為の主体から排除されてきたことを意識し、自覚的に実践克服することも必要である。

(注:3)なじる=悪い点を問い詰めて非難する=こと自体を否定しているわけではない。なじることが、不当な行為をなされた者にとって当然の行為であることは、まずもっての前提である。

B全体性獲得の回路としての抑圧する側への指導・教育】当然のことであるが、優越している者への教育や指導は、そもそも関係性として存在しえない。この関係性を変える闘いが必要であり、それには教育や指導そのものが視野に入るべきである。この限界は、糾弾決起する者以上に、指導の側の問題として、指導内容―共産主義・マルクス主義の内容が問われるし、スタイルを変える必要もある。

【分離主義】被抑圧・被差別者は、部分に押し込められ、陰に押しやられ、全体を代表しないとされてきた。部分でしかないことの絶対肯定としての分離主義には、差別抑圧する側への指導や教育の必要性は発生しない。そこにあるのは、《全世界を獲得する》ための能力をつける必死の努力ではなく、限界の墨守であり、排除―打倒関係の再生産である。分離主義にあっては、革命党と共産主義運動も支配的性・抑圧民族の独占物になっている(している)ということでもある。

【全体性の獲得】抑圧する側の価値観が即時的に全体であるはずはないように、被差別者の価値観も即時的に全体であるわけではない。立場が違うことから見えてくる視点や視野は、共産主義の獲得と実践において有利な内容を提出できるはずである。解放闘争の成果―解放闘争から抽出されてくるもの・普遍化されるものが、今までの(差別抑圧する側に偏った)共産主義≠フ内容自体を相対化するものともなるであろう。プロレタリア革命と共産主義運動における価値観に普遍化させることによってこそ、被差別者は全体を獲得することができる。

【抑圧する側への指導・教育】全体に対する責任とは、われわれの運動で言えば、プロレタリア革命―国際主義の精神による全体への、つまり差別抑圧する側に位置させられる者への指導・教育も課題になるということである(『民植』一五九頁)。糾弾される男≠ノも解放の回路は示されねばならない。マルクス・エンゲルスの観点から捉え返せれば、解放運動にはそのような内容がある。捉え返された内容を持っての、一方の部分である差別抑圧する側に位置させられる者への教育・指導もあってこそ、全体を運営する能力を身に着けることが可能になり、全体への責任が果たせるというものであろう。

 もちろん、逐一的に差別抑圧する側が問題になるのではない。プロレタリア革命の全体利害、共闘の全体利害という回路を踏むことであり、だからこそ、視野に入れるべきものだということである。教育は対象の成長のためにこそすべきものである。なじることとは区別されるべきであり、論議しえる関係を作りだす必要がある。被差別者が「支配階級になる」「社会の主人公になる」とは、そういう自己相対化と全体性の獲得の回路を被差別・被抑圧者が見いだすことである。全体への責任主体となるということに、現状を打破する飛躍の回路がある。

 

 

 

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