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■教育関連3法案改悪阻止! 「日の丸・君が代」処分弾劾!

国際主義を掲げて安倍教育再編攻撃と対決しよう!

 

 教育「再生」を重要課題として位置づける安倍極右政権は昨年、全人民の弾劾の声を無視して教育基本法改悪を強行した。そして今年はこの改悪にもとづいて教育関連三法(教育職員免許法、学校教育法、地方教育行政法)の改悪を強行しようとしている。教員免許更新制度導入を柱とするこの改悪は、あきらかにたたかう教職員を学校現場から排除し戦争のできる国家に見あうように教育を再編しようとする攻撃である。絶対に許してはならない。さらに、今年度の教科書検定では沖縄戦における日本軍による「集団自決」強要が削除され、沖縄人民虐殺の歴史が抹殺されようとしている。

 しかし、こうした状況下にあってたたかう教職員は「教え子を戦場に送るな」の精神を継承し、「日の丸・君が代」の強制と断固としてたたかっている。そして今年八月には、韓国ツアーを組織して韓国の教育労働者との交流・討論が計画されている。

 全国の同志・友人諸君! われわれはこれらたたかう教職員と連帯し、安倍の戦争に向けた教育再編攻撃とたたかっていこうではないか。たたかう教職員・市民・労働者に連帯し国際主義の旗を掲げた反戦運動の内実をもって、教育再編攻撃とたたかっていこうではないか!

●1 改悪教基法の実体化、教育3法改悪許すな

 四月十七日、教育関連三法(教育職員免許法、学校教育法、地方行政法)の国会審議が衆議院で開始された。与党は野党の反対を押し切って特別委員会を設置し、集中審議で三法改悪の早期成立を目論んでいる。また国会審議に先立つ中央教育審議会では、三法改悪案をなんとしても今通常国会に間に合わせるべく、通常一年はかかるといわれる審議を一カ月で終わらせるという「突貫工事」で文部科学省に答申を出した。安倍政権はまさに、ブルジョア民主主義の体裁をかなぐり捨てても、教育関連三法案の強行成立を目指しているのである。

 教育基本法改悪の実態づくりとして行われるこの教育関連三法案改悪の目玉は、教員免許更新制度の導入である。これまでの教育職員免許法に「その授与の翌日から起算して十年を経過する日の属する年度の末日まで、すべての都道府県において効力を有する」という内容を加え、十年ごとの更新制度を導入しようとしている。また「免許状更新講習の時間は三十時間以上とする」として更新ごとの講習を位置づけ、「教員の遂行に必要なものとして文部科学省で定める事項に関する最新の知識技能を習得させるための課題」としてその内容を規定している。そしてこの講習には「指導改善を命ぜられたものは、その研修が終了するまでの間は(講習は)受けられない」となっている。

 あきらかに、政府―文科省が十年ごとに教職員をふるいにかけるという代物に他ならない。

 そもそも安倍は本年年頭の施政方針演説で、不適格教員を排除することを目的として教員免許更新制度を導入することを明言している。四月二十五日の特別委員会では文科省伊吹が「(講習の終了認定を受けられず)五度も六度も受けている人が、分限上の問題がないことにはならない」と発言している。これは、更新のための講習を数回受けても終了できない教員は降任・免職などの対象になるということだ。そしてその講習の終了認定基準は文科省が作成するということである。

 ここまでくればその目的は明白すぎるほど明白であろう。教員免許更新制度の導入は政府―文科省の意向に沿わない教職員の排除以外のなにものでもない。十年ごとの教員免許更新をぶら下げながら、現場教職員の教育内容はもとよりその思想・信条によって選別しようということなのである。免許更新制度が導入されれば、「日の丸・君が代」に異を唱える教職員、反戦を訴える教職員、日本の侵略戦争の歴史を教えようとする教職員は排除される。いやむしろ、教員が教員を続けていたければ、日常不断に帝国主義国家のイデオロギーに沿った言辞を強要されることになる。

 この教員免許の更新制度は、いわゆる「先進国」ではアメリカ以外に導入されている例はないと言われている。つまりブルジョア民主主義的観点からしても、あまりにも露骨な教育内容に対する国家意志の持ち込みとして危険視されている制度なのである。

 さらに学校教育法が改悪されようとしている。

 学校教育法は教育基本法と一体のものとして機能してきた、学校組織の基本的運営・在り方を定めた法律である。今次改悪ではこれまでの学校教育法で規定する「校長・教頭・教員」職以外に「副校長・主幹教諭・指導教諭」を加え、学校経営の多重構造をつくりあげようとしている。

 これは管理職の命令一下、上意下達の体制によって教育現場を運営させていこうという攻撃にほかならない。すなわち、従来の体制では管理職以外はすべて「教員」であり、そこに職としての序列はない。ゆえに、職員会議を最高議決機関として共同体的に学校を経営してきたのであるが、ここにあらためて職として序列をつくることをもって、教職員間の分断を計り、同時にその管理を徹底するというものである。もちろん現在の学校は職員会議の有名無実化と主幹職の導入によって共同体的経営は解体されているが、こうした現実を法制度的に整備し、かつより一層の管理体制の強化をねらうものとして学校教育法の改悪がある。

 そしてこの学校教育法改悪の最大の問題点は、現行法にある「小学校の教科に関する事項は……文部科学大臣が定める」を改悪する点があげられる。

 用語として「教科」を「教育過程」とすることによって、文部科学大臣すなわち政府の教育内容への全面的介入を法制度的に合法化することを意味するようになる。学校、とりわけ小学校の教育を国家意志の注入手段として明確に位置づけ、それを法制度的に整備していこうということである。

 一方、地方教育行政法は教育委員会権限に国が直接介入できるように改悪されようとしている。

 「文部科学大臣は都道府県委員会又は市町村委員会の教育に関する事務の管理及び執行が怠るものがある場合において、児童、生徒等の生命又は身体の保護のため、緊急の必要があるときは、当該教育委員会に対し、当該違反を是正し、または当該怠る事務の管理及び執行を改めるべきことを指示することができる」という内容を「文部科学大臣の指示」として定めようとしている。

 教育行政事務は名目上、各地方自治体の管轄にある。ゆえに各レベルの自治体権限によって教育委員会が組織されている。しかし今回の地方教育行政法改悪案では、この教育委員会に対して文部科学大臣―文部科学省の介入が明記されている。この点は多くの識者から、「中央統制の強化」「権力的統制の復活」として注目されている内容である。

 また同時に教育委員会に対して「目標管理」と「事後評価」制度を導入しようとしている。この場合、先ごろ話題になった全国学力テストがその評価基準となる可能性が高い。そもそも教育委員会制度は、敗戦後、かつての教育勅語教育体制を反省したうえで教育行政に住民が参加することを可能とする位置づけをもって出発した制度であった。もちろん現在は、そうした当初的位置づけは忘却され、地域ボスなどが仕切る教育現場へ圧力を加える権力機構として機能しているのが現状である。

 しかし今回の改悪案は、こうした教育委員会の廃止ではなく、むしろより積極的に国家権力の出先機関となって教育を統制する組織へ再編していこうとする攻撃である。

 しかも「自立性」の名の下に「目標管理」「事後評価」を押し付け、その責任を各教育委員会に押し付けようとするものでしかない。この改悪案が施行されれば、いわゆる「革新」系自治体の教育委員会が狙い撃ちにされることは火を見るよりも明らかである。

 以上、教育関連三法案改悪の中身を簡単に見てきた。

 教育職員免許法改悪は教員免許更新制度を導入し、たたかう教職員の現場からの排除を容易にするとともに、現場教職員の思想的管理をも射程に入れた攻撃である。

 学校教育法の改悪をもって、学校組織そのものの改編をしようとしている。現場管理職の権限の肥大化と同時に文部科学大臣―国家権力による教育内容への全面的介入が目的である。

 地方教育行政法改悪によって、各地方自治体の教育行政に国家権力が介入し、教育委員会なるものを国家権力の出先機関として再編しようとしている。

 これらを簡単にまとめるならば、教育関連三法案改悪とは改悪教育基本法の実体化であり、教育体制そのものを戦争遂行国家に見あうものとして、つまり新たな教育勅語体制への構築に向けたファシズム的攻撃に他ならないということである。

 日教組中央が、これら改悪三法案との対決を回避するなかにあって、戦闘的教職員は国会前闘争をはじめとして教育三法案改悪と断固としてたたかっている。われわれもまた、反戦運動と反改憲運動の中身をもったたたかいとして、これら戦闘的教職員に連帯し教育関連三法案改悪阻止をたたかっていこうではないか。

●2 教科書検定弾劾! 沖縄戦の歪曲許すな

 一方こうした教育関連三法案改悪の動きと同時に、「道徳」の教科としての格上げ―「徳育」の設置策動と教科書検定による歴史の歪曲がおこなわれようとしている。

 教育再生会議は三月二十九日、「道徳」を教科に格上げし「徳育(仮称)」とする方針を決めた。「道徳」を教科に格上げするということは、児童・生徒の成績評価の対象として「道徳」を位置づけるということである。明らかにかつての「修身」の復活攻撃である。しかし、これについてはさすがに内部からの批判も噴出し、今通常国会に提出されるかどうかは微妙な情勢にある。しかし、安倍極右政権―教育再生会議が「道徳」の教科化―「修身」の復活に向けた野心をもっていることは明らかである。

 さらに今年度の教科書検定において、文科省は沖縄戦の「集団自決」から「日本軍に強いられた」という内容を削除・変更するよう出版社に求めていたことが明らかになった。

 文科省は高校日本史の教科書の「日本軍に『集団自決』を強いられたり」「日本軍が配った手榴(しゅりゅう)弾で集団自害と殺し合いをさせ」という記述にたいして、「沖縄戦の実態について誤解をするおそれのある表現」として意見をつけ、削除・変更を求めていったのである。

 沖縄の「集団自決」については大江健三郎の著書「沖縄ノート」の内容をめぐって、旧日本軍守備隊長で元少佐の梅沢裕が出版元の岩波書店と著者を相手に名誉毀損で裁判を起こしている。文科省はこの裁判を引き合いに出し、「梅沢氏が訴訟で『自決命令はない』と意見陳述した」「最近の学説状況では軍の命令有無より集団自決に至った精神状態に着目して論じるものが多い」と検定理由を説明している。

 そもそもいまだ判決が確定していない裁判の一方の意見のみを検定理由とするというのもふざけ切った話であるが、文科省による沖縄戦歪曲の動機はこの裁判を直接の理由とするよりも、アジア・太平洋戦争の賛美―住民虐殺の正当化を目的にしていると思われる。

 今回の教科書検定でも南京大虐殺については、「南京事件の犠牲者数について諸説を十分に配慮していない」という理由で、犠牲者数の諸説併記が求められている。結果、南京大虐殺の歴史的事実があいまい化される表現になってしまっている。

 「日本軍慰安婦」問題については、今回、これといった検定意見がついたわけではない。しかし、それは各社が事前にかつての検定を強烈に意識した結果にすぎない。一社を除いて、慰安婦問題の日本軍関与の事実があいまいなまま記述されるようになってしまっている。

 そして「自衛隊のイラク派兵は何を意味するか」という記述が、「復興活動に武力行使したと誤解される」という理由で、「派兵」が「派遣」として修正されている。同様に「米英両軍がイラク侵攻」という記述が、「米英両軍がイラクへ攻撃」と変更されている。文科省は「一定の国連決議に基づくので『侵攻』ではない」と説明しているが、おそらく、「侵攻」という言葉が「侵略」のニュアンスを含むがゆえの変更要求であろう。まさにイラク侵略戦争の正当化以外のなにものでもない。

 教科書調査官は「(イラクが)混乱していることは認めるが戦闘地域ではない」と教科書会社に説明したといわれている。かつて小泉がおこなったデタラメな答弁と同様のデタラメな説明である。

 今回の沖縄戦の「集団自決」から日本軍の強制を削除した問題は、こうした教科書検定の全般的な流れのなかにあって起きた問題である。文科省はアジア・太平洋侵略戦争の実相から日本の加害の歴史を削除もしくはあいまい化することをもって、侵略戦争と住民虐殺を美化することにやっきになっているのである。訴訟云々は口実に過ぎない。スキあらばアジア侵略、住民虐殺を教科書から抹殺したくて仕方がないのだ。「中立・公正」の名のもとに、歴史の歪曲を強行しようとしているのである。

 そしてわれわれが怒りをもって確認しなければならないことは、これこそが「愛国心」教育の中身だということだ。政府―文科省が言うところの「愛国心」とは一般的・抽象的なものではない。

 「愛国心」教育とは、「集団自決」から日本軍の強制を削除し、それがあたかも沖縄人民の精神的問題であるかのように沖縄戦の実相を歪曲することである。そして、南京大虐殺の被害者数をあいまいにすることをもって、その歴史的事実すら葬り去ろうということである。そして、「日本軍慰安婦」問題から日本軍の関与を否定し、日本政府を告発する被害者のたたかいに唾することである。そして、イラク侵略戦争を正当化し、イラク人民虐殺を賛美することが「愛国心」教育の中身なのである。すなわち、かつてのアジア・太平洋戦争と住民虐殺を賛美し、現在の帝国主義侵略戦争を正当化する教育が「愛国心」教育の中身にほかならないということだ。

 〇七年度教科書検定を許すな! プロレタリア国際主義の精神をもってたたかうアジア人民、そして沖縄人民のたたかいにこたえ「愛国心」教育とたたかおう!

●3 「日の丸・君が代」強制、不当処分弾劾! 

 しかし、これら「愛国心」教育がすんなりと進行しているわけではない。昨秋の教育基本法改悪反対闘争を継承したたたかう教職員・市民・労働者は、戦争に向かう教育を許さず、ねばり強いたたかいを貫徹しているのである。

 今年度の卒・入学式の「日の丸・君が代」強制反対闘争も全国各地で果敢にたたかわれた。AWC日本連絡会議の仲間も、早朝から校門前のビラまきや地域の教育委員会・学校長に対する申し入れ行動をたたかった。AASJAに結集する学生諸君も、「都教委包囲ネット」とともに都内高校の卒・入学式でのビラまきを断固たたかいぬいたのである。

 そして、今年度の東京都内公立小学校の卒業式で不起立・不斉唱のために懲戒処分を受けた教員は三十五名に及ぶ。被処分者数がそのまま「日の丸・君が代」の強制に反対した教職員数になるわけではないが、都内では最低でも三十五名の教職員が不起立・不斉唱のたたかいを貫徹したことになる。しかもこの中には、今回はじめて不起立をたたかった教職員が少なからず存在するといわれている。

 教育基本法改悪情勢下にあって、こうしたたたかいは安倍政権の教育「再生」攻撃の根幹を揺るがしかねないたたかいでもある。教育基本法改悪直後の不起立闘争は、改悪教育基本法弾劾のたたかいとしての意味をもつ。明らかに今年度の反「日の丸・君が代」闘争は、教育基本法改悪反対闘争を継承した安倍の教育「再生」攻撃との真正面からのたたかいとして位置づけられるものであった。

 今年の反「日の丸・君が代」闘争が爆発した根拠とは何か。

 それは第一に、昨秋の教育基本法改悪の暴挙を多くの現場教職員が認めていないからである。むしろ、そのことに対する怒りが充満しているからである。今年度のたたかいはそのことの証明でもある。不起立・不斉唱は当然処分の対象となり、そのことで経済的または社会的に不利益をこうむる。しかし、それでもなお現場教職員が「日の丸・君が代」の強制とたたかうということのなかに、安倍の教育「再生」攻撃に対する強烈な怒りが体現されている。

 第二に、九九年の「国旗・国歌法」成立以降全国で八百七十五人、「10・23通達」が出された東京都では実に約四百名に及ぶ教職員が「日の丸・君が代」問題で不当処分を受けている。しかしながら、いかに不当処分を受けようとも断固として不撓不屈にたたかう教職員が存在する。こうした事実を根拠にして反「日の丸・君が代」闘争が継続・拡大されていっていることは間違いない。

 第二に、「君が代」斉唱時に起立義務が存在しないことを証明した東京地裁判決、いわゆる「予防訴訟裁判」における「9・21地裁判決」の勝利がある。この地裁判決をある程度の法的よりどころにすることで、「日の丸・君が代」闘争の大衆的拡大も保証されている側面もあることは間違いない。

 総じて言えば、教育基本法が改悪されようとも、改悪反対闘争を継承しようとする多くの現場教職員のたたかいが、今年度の「日の丸・君が代」強制反対のたたかいとなって爆発したということである。安倍極右政権がいかに戦争に向かうための教育をなそうとしても、現場教職員のたたかいの火を消すことはできなかったということである。

 であるからこそ、われわれは今春「日の丸・君が代」強制に断固としてたたかった教職員にたいする不当処分を徹底的に弾劾する。たたかう教職員と連帯して、継続的に反「日の丸・君が代」をたたかっていくものである。

 二月二十七日、最高裁は「君が代」ピアノ伴奏拒否訴訟で、校長がピアノ伴奏を命じることは憲法で保障する思想・良心の自由を侵害しないとする判断を下した。校長の職務命令は合憲とする判断である。また今春の卒業式で、「日の丸・君が代」の強制に批判的な前校長が、式典への参加を拒否されていた事実も明るみに出ている。政府―東京都―司法当局一体となった「日の丸・君が代」強制攻撃に断固反撃していこうではないか。

●4 西原博史氏の論文について

 一方、このような形で激烈にたたかわれている反「日の丸・君が代」戦線において、西原博史氏の「『君が代』伴奏拒否訴訟最高裁判決批判―『子どもの心の自由』を中心に」(『世界』七六五号)という論文が波紋を呼んでいる。

 西原氏は憲法学に携わりながら、教育の反動化を許さない運動にコミットし、また教育関係の書物を多数著している人物である。しかしここで氏は、言うところの「子ども中心主義」と相いれない内容として予防訴訟裁判判決内容を批判している。これに対して、当然にも予防訴訟を最先頭で担ってきた教職員は反発している。

 われわれは西原氏の主張自体が「まったくもってナンセンス」という立場は取らない。しかしながら、「愛国心」教育が吹き荒れ、今後いま以上に熾烈な「日の丸・君が代」強制反対闘争がたたかわれるという状況の中にあって、「君が代」斉唱時に教職員が起立する義務がないことを明確にした予防訴訟のたたかいと、通称「9・21難波判決」と言われる東京地裁判決を批判するには、氏の論理ははなはだ説明不足の感が拭えない。そして西原氏がここで展開している論理は、氏の意図するものとは別の角度から今後、東京都側に利用される可能性も十分ある。ゆえに、氏の主張する内容をある程度批判的に検討していきたい。

 それでは西原氏の主張する中身を簡単に見ていく。

 西原氏は冒頭「教師が思想・信条の自由を語ることの違和感」と題して、「教師による『君が代』拒否は決して単純な問題ではない。少なくとも、思想・良心の自由という基本的人権を口にするだけで解決への道が開けてくるほど単純な問題ではない」と提起する。そして氏の知人であるY氏が、小学校六年のころ「日の丸・君が代」に反対する多くの教職員の前であえて「君が代」を斉唱したときの体験談を紹介する。「その時の教師たちの非難のこもった目をY氏は決して忘れられない。黙って座りながら、自らの良心に従って行動しようとする幼い小学生に対して、裏切り者をそしる目を向け、その時以来、二度と目を合わせようとしなかった教師たちの姿を」とその様子を描き出す。そして「教職員が集団として教育公務員としての職権を濫用し、国家シンボルの評価に対する特定の評価を子どもに押しつけた。卒業式は、教師たちに対する忠誠の証しとして座り続けられるかどうかを問う、子どもたちの踏み絵の場だった」と体験談をまとめ上げる。そして氏は「過去にこうした現実があり、それを正当化する教育法理論が通用していたことを考えた場合、教師が思想・良心の自由という基本的人権を口にすること自身が悪い冗談のように響く」と結論づける。

 つづく章では「子ども中心主義と教師中心主義」という西原氏独特の立場を提唱する。「一つは子どもの思想・良心の自由こそ本質だと考える立場である」。それは「自分たち(教師)が子どもの思想・良心の自由に対する侵害主体となっていたかもしれない過去を直視すること」でもある。一方、「思想・良心の自由を口にする運動の中に、ことがらをもっぱら教師の問題と考える立場も浮かび上がってきた」、これを氏は「教師中心主義」と名付ける。「この立場は、教師は子どもにとって権力的存在ではないと言い切ってきた日教組御用法学から脱却できないままに、子どもの成長・発達に対して及ぼす影響をすべて教師の善意に解消し、教師の個人としての思想・良心の自由に対する侵害だけを問題とする」「最近の教師による『君が代』拒否裁判のなかでは、実際にはこの対極的な立場が十分な整理を経ないまま混在している。特に混乱に拍車をかけたのがいわゆる予防訴訟の提起であり、東京地裁二〇〇六年九月二十一日判決である」として、予防訴訟を「教師中心主義」として批判するのである。

 その内容は、「国歌の扱いに関するすべての場面で教師個人の思想・良心の自由が優先されるという命題を、その一般的な形のままに主張することは、偏狭な集団エゴとしての側面も含めて教師中心主義へと立場決定することを意味し、……子どもの自由の保障が真剣に追及されているわけではなく、単に運動論的な名目として利用されているに過ぎなくなる」と、なかなか手厳しいものになっている。

 そして同時に西原氏は、本年二月二十七日に出された「ピアノ伴奏拒否処分取り消し訴訟」の最高裁判決を批判する。最高裁では、上告人(当該教職員)の訴えを退け、当時の「ピアノ伴奏をしろ」という職務命令と懲戒処分は「思想・良心の自由」を侵害するものではないと結論づけた。しかし、このような裁判官多数の意見に対して、唯一藤田裁判官が補促意見として反対意見を述べている。

 西原氏は両裁判の判決を批判する。「予防訴訟東京地裁判決と今回の(ピアノ裁判)最高裁多数意見を批判する手掛りは、私見では、予防訴訟東京地裁判決の中ではなく、藤田裁判官反対意見(ピアノ裁判補促意見)に求めるべきである。教師の思想・良心の自由を運動論的に集団化し、絶対化することは許されない。しかし他方、子どもの思想・良心を育てるための教育を目指すべきとするならば、教師の思想・良心の自由が完全に封じ込められる環境が最適であるはずがない」と結論される。

 以下、西原氏の主張の特徴点を押さえれば、@思想・良心の自由を巡って「子ども中心主義」と「教師中心主義」という二つの立場がある。A「教師中心主義」は教員の思想・良心の自由だけを問題とし子どもの思想・良心の自由を保障しない、むしろそれを侵害する。B「予防訴訟」判決は教職員の個々の事例を集団化し一般化することをもって「教師中心主義」になっている。Cピアノ裁判最高裁判決―多数派意見も「子ども中心主義」から批判されなければならない。Dそしてその批判の中身は「予防訴訟」判決内容に求めるべきではなく、あくまでも補促意見として出された藤田裁判官の意見に求めるべきである、と大体以上のような内容になるかと思われる。

 これまで見てきた西原氏の主張の本筋は、単なる「予防訴訟」批判というよりも、むしろ「日の丸・君が代」の強制を批判する場合には、「子ども中心主義」という立場を明確にしたうえでピアノ裁判最高裁判決のなかの補促意見を論拠にすべき、という主張だと思われる。「予防訴訟」判決に対する手厳しい表現から、多くの教職員に「予防訴訟」批判としての側面だけがクローズアップされてしまっている感もある。

 しかし、氏の言わんとすることがある程度理解できるにせよ、「愛国心」教育が吹き荒れ、すきあればたたかう教職員を一掃しようとする東京都の現状からすれば、やはり危険な主張であると言わざるを得ない。西原氏のいう「子ども中心主義」を曲解すれば、「君が代の強制に反対する教職員は子どもの思想・良心の自由を侵している」という論も十分に成り立つ。しかもその根拠がまったくの御用学者から出されたものではなく、誠実に教育の反動化とたたかおうとする部分から主張されるとなれば、権力サイドがこれを利用しないと保証することはできない。ゆえに、われわれはあえて西原氏の内容を批判的に見ていかなければならない。

 まず第一に「子どもの思想・良心の自由の保障」と「教師の思想・良心の自由の無制限の拡大」が対立的に描き出されているが、現状はそうなのであろうか。

 西原氏が強く主張するように、子どもの思想・良心の自由は保障されなければならないと思うが、それと現在の教職員を取り巻く状況は同じ状況下にある問題なのだろうかという疑問である。

 少なくとも、知人Y氏に対する教職員の態度と、現在教職員におこなわれている「君が代」の強制は全然位相の違う状況であると思われる。

 「予防訴訟」運動の動機となった〇三年の「10・23通達」は、「日の丸・君が代」の強制に従わせるよう職務命令を出すという攻撃であり、従わなければ懲戒処分を出すという攻撃である。つまり西原氏が冒頭報告した知人Y氏の話に即して言えば、卒業式で教員がY氏に「君が代を歌うな。座れ」と命令するようなものであり、それに従わないY氏に教員が何らかの懲罰を加えるというようなものである。現在の「日の丸・君が代」強制の内容は従わないものを、いたたまれない雰囲気にすることではない。それは具体的に命令―懲罰として実践される攻撃である。

 第二に、百歩ゆずって「予防訴訟」が「教師中心主義」であるとして、それが果たして「子どもの思想・良心の自由」を侵害し、子どもが主体的に考える契機を奪うものであるのかという疑問がある。

 少なくても、西原氏は本論でそれを明らかにしてはいない。冒頭に報告された知人Y氏の場合、逆に見れば「君が代」に反対する教員は十二分にY氏の主体性を引き出したといえるのではないか。つまり西原氏は本論のなかで「教師中心主義」がいかに「子どもの思想・良心の自由」を侵害したのかを十分に説明したとは言いがたい。

 第三として総じて言えば西原氏が提唱する、「子ども中心主義」「教師中心主義」という概念が十分説明されているとは言えないと思われる。

 「子どもの思想・良心の自由こそ保障されねばならない」という時、果たしてそれはいかなる状況のことを言っているのかが不明である。誤解を恐れずに言えば、そもそも「教育」という作業は、見方を変えれば「子どもの思想・良心の自由」を侵す作業なのではないか。少なくとも西原氏が「子どもの思想・良心の自由」を声高に叫ぶのであれば、それはどのような教育であるのか、子どもと教員はどのような関係であることが望ましいのかといった領域を説明しなければならない。そうした領域が全く説明されず、ただひたすらに「教師中心主義」として「予防訴訟」運動を批判したとしても、それは当該教職員に説得力をもたせることはできない。ただいたずらに反発を招くだけの主張になってしまう。

 そしてあえて第四としてつけ加えておきたいのは、われわれは「日の丸・君が代」強制問題は、教育問題一般ではないと考える。それは「愛国心」教育の問題であり、言うなれば教育勅語復活を許すのか否かの問題である。すなわち、日本の軍国主義化を許すのか否かという反戦運動の政治課題として位置づける。このような観点からすれば、西原氏の「子ども中心主義」か「教師中心主義」という主張は、「日の丸・君が代」問題をあまりにも教育問題一般に縮めてしまっているように思える。

 もちろんこういった観点だけで西原氏の主張をなで切るのでは、創造的論争に発展はしないであろう。しかし、それでもなお西原氏の主張とわれわれの主張の間には、天皇制や戦争の問題として「日の丸・君が代」を扱うか、それとも教育問題一般として位置づけるのかといった問題が横たわっていると指摘せざるを得ない。そして、いわばその差こそが「予防訴訟」を最先頭でたたかう教職員が、西原氏の主張に反発する根拠ではないかと思われる。

 以上、ながながと西原氏の論文を云々してきたが、あらためて確認したいのは、ここで氏が主張する内容すべてがナンセンスというわけではない。たとえば教職員が子どもに対して権力者的に振る舞っているにもかかわらず、「子どもの思想・良心を守る」的きれいごとを言って運動の正当化を図る傾向にあることは多くの市民運動活動家も指摘している。しかし、だからといって「予防訴訟」のたたかいの意義を低めてしまうことと話は別であろう。本論で西原氏が提起する内容が示唆に富むものであるだけに、あえて批判するところである。

●5 国際主義掲げて安部「教育再生」と闘おう

 二月十四日、東京高裁は東京都教育委員会が元教員の増田さんの個人情報を不当に外部に流したとして「不法行為」という判断をくだした。増田さんの個人情報が三名の都議に流れ、それをもとにこれら都議は増田さんを誹謗・中傷する本を出版したのである。二月十四日の高裁判決は、粘り強くたたかった増田さんたちの勝利である。

 また千葉県では、「指導力不足教員」にデッチあげられた教員の職場復帰がかちとられている。千葉学校労働者合同組合と当該教員のたたかいが、千葉県八街市教育委員会を追いつめていったのである。

 われわれはこれらの勝利の地平を継承して、安倍の提唱する教育「再生」攻撃とたたかっていこうではないか。

 日教組内または独立教組に結集するたたかう教職員は、今夏も8・15を前後する韓国ツアーを計画している。今、たたかう教職員たちは真剣に国際主義のたたかいを求めている。国際的に団結した力によって教育「再生」攻撃とたたかおうとしているのである。韓日のたたかう教職員による交流は必ずや、それぞれの現場に還流され、より巨大なたたかいの炎となって燃え広がるに違いない。われわれもまた、アジア人民との連帯にかけて、これら教職員の国際主義的団結形成のための運動を支援していこうではないか。「韓国・全教組と交流する教職員と市民の会」と熊本の市民運動団体が組織する韓国ツアーの成功をともにかちとっていこう! たたかう教職員は八月韓国ツアーにともに結集しよう! そして、国際主義の名にかけて安倍の教育「再生」攻撃をともに粉砕していこうではないか!

 

 

 

 

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