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 ■9・13 沖縄・本部町

 自衛隊P3C送信基地建設阻止闘争

 21年目の完全勝利集会かちとる



P3C基地建設阻止闘争・勝利集会(沖縄)
 九月十三日、P3C基地建設阻止勝利集会が本部町上本部中学校体育館で開かれた。これは、日帝―防衛省が七月九日、本部町に対して正式に基地建設を断念する旨の通知をおこなったことを受けて開催されたものである。集会には、町内外から約二百五十名の人々が参加して長かった闘いの勝利を祝った。

 この闘いは、一九八七年二月、日帝―防衛庁(現防衛省)が「シーレーン防衛計画」の一環として、那覇基地へのP3C対潜哨戒機の配備とASWOC(対潜戦闘作戦センター)建設をおこない、本部町・上本部米軍飛行場跡地にその送信所を、国頭村に受信所を建設することを発表したことから始まる。当時、沖縄労働者人民にとって、沖縄国体―天皇の沖縄上陸阻止闘争が重大な政治闘争課題としてあり、現場では「日の丸・君が代」強制反対闘争、米軍用地二十年強制使用阻止闘争などが熾烈に闘われていた。沖縄国体では天皇名代・皇太子アキヒトに「天皇の戦争責任・戦後責任糾弾」を真正面から掲げて決起、各会場での抗議行動・集会が幾重にも展開された。知花昌一さんによる「日の丸」焼き捨て決起もこの時だ。まさに、天皇(制)と日本軍(自衛隊)とをセットで持ち込もうという、沖縄五・一五侵略反革命体制の再編強化攻撃との重大な過程だったのだ。

 当日は台風十三号の影響で、当初予定の豊原闘争小屋横広場から移動しての開催であったが、くしくも一九八八年十月二七日、八百五十名が結集して初めてのP3C基地建設反対の大衆集会が行われたのも、上本部中学校体育館(旧館)であった。(旧『戦旗』一九八八年十二月十日号参照)

 集会は冒頭、志半ばで亡くなられた区民・友人への黙祷から始まった。いつも笑顔だった石川清敬副委員長など多くの人々の顔が浮かぶ。

 主催者あいさつに立ったP3C基地建設阻止対策委員会の川上親友委員長は、本部町内外、県内・全国からの多くの支援に感謝をのべ、闘争勝利を高々と宣言した。そして、沖縄戦と戦後米軍支配を主因とする旧上本部飛行場跡地の跡利用問題にもふれ、原状回復を放棄するばかりか、地主を分断し軍事基地を押し付けてきた日本政府の責任を厳しく糾弾した。

 次に、喜納政一副委員長が闘争年表をもとに、経過報告をおこなった。建設工事費の予算繰り越し断念・建設業者との契約を解除した一九九五年三月時点で実質的な勝利をかちとっていたが、火種を残したまま今日まで引き伸ばしてきた日帝―防衛省(当時は防衛庁)への怒りが高まる。

 歓声の中、闘争の最先頭で闘った当時の委員長、喜納政豊前委員長が発言に立つ。八十三歳ながら今なお元気いっぱいだ。自衛隊は軍隊であり、軍隊は住民を守らない、通信基地といえども軍事基地であり、戦争の際真っ先に攻撃対象になる、子や孫のためにも一切の戦争政策に反対する、豊原区民の思いは今も変わらないことを改めて表明した。そして、十七万人の署名を突きつけて建設断念を迫った一九九四年二月の東京行動などをふりかえり、沖縄の基地問題は今なお解決していないとして、基地の県内移設・名護新基地建設を絶対に許さない、軍事基地撤去の闘いを引き続き闘おうと檄をとばした。

 つづいて喜納委員長とともに闘いぬいた照屋全豊・元豊原区長もお礼の発言に立ち、会場はさらに盛り上がる。照屋元区長は五里霧中で闘い抜いてきたことを振り返り、援農活動など数々の支援に感謝した。

 さらに地域代表として、当初からともに闘い抜いてきた小浜利秀本部町議(町議会議長)、来賓の高良本部町長、支援団体代表の北部地区労・仲里議長が連帯の発言をおこなった。最後に、「二十年間も住民に苦渋を強いてきた国の責任は重大」「戦争のための軍事施設はこれからもずっと、この地域には要らない。沖縄のどこにも要らない」とする勝利集会アピールを全体で確認し、川上委員長の音頭で団結ガンバロー三唱の中、勝利集会を閉じた。

 集会後、ひきつづき祝賀交流会が開催された。各界から連帯あいさつを受け、とくに「勝利の連鎖」として辺野古・高江への連帯を何度も何度も確認して、歴史の一コマに大きな区切りをうった。

  
 

 

 

 

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