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 ■4・25 沖縄

   県民大会に九万三千余が総決起




 普天間基地を即時返還せよ!県内移設を許さないぞ!怒涛の怒りで燃える沖縄人民大衆は全島で総決起をかちとった。二〇一〇年四月二十五日、歴史的な「米軍普天間飛行場の即時閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外移設を求める県民大会」が開催され、沖縄島会場の読谷村運動広場には九万人、宮古島会場には三千人、石垣島トライアスロン大会のため前日に開催された石垣島大会に七百人、基地問題での県民大会としては九五年一〇・二一県民大会を上回る合計九万三千七百人が総決起したのだ。
 否それだけではない。実行委員会は当日仕事等で参加できない人々に「黄色」での意思表示の協力を呼び掛け、商店や家の玄関先などに黄色の旗やのぼりが掲げられ、黄色のシャツなども目立った。まさに沖縄全島が、鳩山民主党連立政権にイエローカードを突きつけた歴史的な日となったのである。鳩山政権は大会当日「辺野古修正案=くい打ち桟橋方式」をマスコミにリークし、沖縄人民の総決起と団結を分断・圧殺しようと画策したが、沖縄人民の鳩山政権への不信感と怒りは倍増するだけで、それはむしろ県民大会成功への大きなバネともなった。
 読谷会場は、かつて日本軍の滑走路を米軍が占領し、補助飛行場、パラシュート降下訓練場、滑走路損害査定訓練として使用していた軍事基地であった。また、一九四五年四月一日、米軍の沖縄島上陸地点でもあり、チビチリガマの住民集団死の悲劇を刻む歴史的な地である。村あげて実力で返還をかちとった基地跡地での県民大会、今なお残る滑走路跡地の上に参加者の貸切バスや自家用車が延々と並ぶ光景は、まさに爽快な構図であった。
 今大会に向けては、各市町村で実行委員会が結成され、バスの確保や宣伝活動が展開された。沖縄青年団協議会(沖青協)は、当日朝、糸満市平和祈念公園から読谷までの約四十八キロメートルの道程で黄色たすきリレーを貫徹した。与那原町では約四百五十名が結集して出発式を兼ねた町民大会を開催して集会に参加した。地元読谷村では、〇九年十一月の米兵ひき逃げ死亡事件に抗議する村民報告集会が約二千名の結集で開催され、日米地位協定の抜本改定を求める決議を採択し、県民大会に臨んだ。報道では開会から三十分後も十キロメートルの渋滞が続き、大会終了時に間に合わなかった人々も多数いたという。
 「うりずんの季節」(初夏)にふさわしい太陽がふりそそぐ中、午後三時、大会は読谷高校生の河口さんの司会で開始された。歴史の幕開けだ。地響きのような拍手が巻き起こる。「島ぐるみ」闘争を象徴するかのように、壇上のスタンドには知事と全四十一市町村長(代理二人)や県議、市町村議長、実行委員会代表などが黄色のスカーフ・はちまきをして並んでいる。実行委員会共同代表の翁長雄志那覇市長は、「基地を押し付けられた沖縄で、基地問題で県民同士が争うのは残念だった。今ここに県民の心が一つになったと高らかに宣言する」「県民の誇りとアイデンティティーにかけて沖縄の思いを発信していこう」と開会あいさつをおこなった。
 主催者あいさつで共同代表の高嶺善伸県議会議長は「戦後六十五年、安保改定五十年、日米安保の負担を押し付けていて、なぜ普天間基地一つの返還もできないのか。米軍の事件事故で二、三日に一度の割合で県民は被害に遭う。基地負担は限界を超えている。県内移設は断じて許されない」と訴えた。
 決意表明で伊波洋一宜野湾市長は、「一九九六年に普天間基地の全面返還が合意されたが、十四年間も放置されてきた。六年前には沖国大でのヘリ墜落炎上事故も起きた。県内移設の条件付きに固執するならば、沖縄からの米軍の撤退を求めることになる。在沖米海兵隊のほとんどがグアムに移転することは明白だ。『最低でも県外』と言ってきた鳩山政権には、代替地探しではなく、普天間基地の即時閉鎖と返還を要求する」と確固たる信念で力強い決意を表明した。
 稲嶺進名護市長は、「一月の名護市長選挙で勝利したことで、新たな基地はいらないという民意が一つになった。そして県議会での全会一致決議と、今日の沖縄の流れをつくる起点をつくった名護市民を誇りに思う。政府の辺野古案回帰論など場当たり的なやり方は、県民を愚弄するもので断じて許せない。民主主義と人権を取り戻す闘いだ。私は信念をもって最後まで貫き通す」と自信にあふれる決意表明を行い、ひと際大きい拍手が鳴り響いた。
 勝連沖埋立て案が浮上したうるま市の島袋俊夫市長も「勝連沖案は一九九六年に地元住民の反対運動で廃案にしたものだ。政府の『地元首長や漁協も反対していない』なる発言は事実無根で、市議会でも全会一致で反対決議を行った。市には米軍・自衛隊基地が十一ケ所もあり、宮森小学校への米軍ジェット機墜落事故や相次ぐ原子力潜水艦の勝連ホワイトビーチ寄港などは、基地問題と日米安保の縮図の現実だ。勝連沖埋立て案に断固反対し、『最低でも県外』との公約を実現せよ」と訴えた。
 さらにウミンチュ(海人=漁民)の勝連漁協・赤嶺博之組合長も決意表明に立ち、「辺野古が駄目なら勝連沖、さらにまた今日の県民大会をあざ笑うかのような辺野古修正案報道など許しがたい。勝連沖はモズク生産県内一で自然豊かな海を破壊することはウミンチュの職場を奪うことでもある。沖縄には陸であれ海上であれ、基地はいらない」と訴えた。
 圧巻は高校生代表として登壇した普天間高校生の岡本さん、志喜屋さんの発言であり、二人の訴えは共感と感動の渦とともに会場に響き渡った。「厚さ六センチメートルの窓いっぱいに見える飛行機の胴体。これが普天間高校の日常の光景だ。沖縄に基地があることは仕方がないと考えていないか。それぞれの立場で基地問題に向き合ってほしい」「純粋に、素直に考えて、やはり沖縄には基地は必要ないと思う」とのべ、二人で「未来は私たちの手の中に」と声を合わせて結んだ。闘いは世代を継承して継続されることを確信した。
 大会はその後、共同代表の大城節子沖縄婦人団体連合会(沖婦連)会長の提起による大会決議・スローガンを満場の拍手で採択した。つづいて行動提起を行った大会実行委員会事務局長の新里米吉県議は、会場カンパが五百万円余集まったことを報告し、明日から百名規模の代表団で東京行動を展開することを明らかにした。また四月十八日の米軍基地移設反対集会に島の半分以上の一万五千人もの住民が決起した「移設候補地」徳之島の三町長(天城町・徳之島町・伊仙町)や、グアム・チャモロをはじめ各地から寄せられた連帯メッセージを紹介して、全国の仲間との連帯も確認した。当日は、この県民大会に呼応・連帯して、東京、青森、京都、岩国、大分、鹿児島など全国で集会が開かれ、沖縄・安保、米軍再編を問う怒りと闘いが燎原のように拡大していることも付記しておく。
 最後に、共同代表の仲村信正連合沖縄会長の「沖縄の御万人(うまんちゅ)の心を一つにして日米両政府に普天間基地問題解決を迫るため、共に頑張ろう」との音頭で、会場いっぱいのガンバローが声高々に三唱され、歴史的な四・二五県民大会を閉じた。参加者の顔はみんな晴れ晴れとしており、充実感と共に新たな闘いへの決意に満ち満ちていたことはいうまでもない(ガンバロー三唱の時間になっても参加者が列をなして入場して来ていた。渋滞で参加できなかった人が多くいたのも肯ける光景であった)。
 ところで、今大会には二日前にやっと参加を決めた仲井真「県」知事も登壇し発言した。あいさつはいつもの原稿棒読みとは違ったが、内容は型通りのもので、普天間基地の危険性を一日も早く政府は除去せよ、過重な基地負担を大幅に軽減せよ、との「意見を申し上げ」、鳩山政権は公約どおり責任ある解決策を示さなければならない、「私からの注文だ」と発言した。ガンバロー三唱も周囲から促されてしぶしぶ拳を上げる始末だったという。その発言内容には当然のことながら「普天間基地の即時閉鎖・返還撤去」も「基地の県内移設反対」もなかった。仲井真は「野次もなく良かった」と漏らしたらしいが、まばらな拍手しかなかったことが沖縄人民大衆の回答であったのだ。当然ながらマスコミも「現行案・修正案否定せず」「政府は想定内の発言」と報じ、二律背反の姿勢を指弾した。
 仲井真は、「復帰」後最大規模の十一万六千人の結集で闘われた〇七年九月二九日の「教科書検定意見撤回要求県民大会」の際も、県民大会開催そのものの意義を否定し当時の自公政権の意向に従い早々の幕引きを画策し、沖縄人民の根源的な怒りの深さの前にしぶしぶ大会参加をしたことも記憶に新しい。鳩山政権の県内移設・辺野古修正案の水先案内人として立ち振る舞う仲井真を、国民新党・下地ともども、沖縄人民の壮大な闘いの本流によって必ず粉砕しなければならない。
 四・二五県民大会の歴史的勝利を受け、断固として普天間基地撤去・県内移設反対・辺野古への新基地建設絶対阻止へ進撃しよう。この力をもって、米軍再編粉砕、日米安保粉砕の闘いを全国で巻き起こそう。

 
 

 

 

 

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