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 ■3・18 千葉
 

 市東さんの南台農地を守り抜こう

 耕作権裁判闘争・千葉地裁デモ

 

千葉地裁デモ

 三月一八日午後、耕作権裁判闘争に先立ち、三里塚芝山連合空港反対同盟呼びかけの千葉地裁デモが取り組まれた。この日の裁判は、市東孝雄さん本人と、長年にわたり父東市さんの援農をしてきた方の証人尋問だ。
 正午から千葉市中央公園で、反対同盟事務局・太郎良陽一さんの司会で集会が開かれた。
 反対同盟事務局の萩原富夫さんは以下の趣旨で発言した。本日の耕作権裁判は、市東孝雄さん本人の証人尋問となり大変重要だ。全力で闘おう。三里塚現地では先日、B滑走路北側延伸工事の状況を見てきた。北側では谷地や畑にどんどん土が入れられているのを確認した。芝山町菱田地区では空港排水設備と思われる工事が進んでいることを確認した。私たちは田んぼの周りを一周するデモをして、空港機能強化粉砕と3・31芝山現地闘争への結集を訴えた。
 つづいて、動労千葉、市東さんの農地取り上げに反対する会、関西実行委が、それぞれ連帯のアピールを行った
 司会の太郎良さんが、集会のまとめと行動提起を行った。成田空港機能強化を阻止するために、芝山住民と団結して闘いを大きくしていく必要があると語った上で、3・31芝山現地闘争への結集を呼びかけた。
 最後に、「市東さんの農地を守り抜くぞ!」「空港機能強化粉砕!」「耕作権裁判闘争に勝利するぞ!」のシュプレヒコールで気勢を上げ、千葉地裁へ向けたデモに取り組んだ。
 デモ終了後、参加者は耕作権裁判傍聴闘争に向けて千葉地裁へと向かった。


耕作権裁判傍聴闘争

 三月一八日に千葉地裁で耕作権裁判が開かれた。空港用地内に住み営農する反対同盟農民の市東孝雄さんの南台農地の一部を空港会社が奪うために起こした裁判だ。四七年間現地で支援活動を行ってきた方の証人調べと市東さんの本人尋問が行われた。
 まず、証人調べでは、支援に入る前と後の経緯が述べられた。その中で、これまでの弁論で何度も指摘された通り、空港会社が市東さんの賃借地と主張する土地(いわゆるE1)は、実際は石橋家の土地で、かつ、垣根などに用いられるキャラの木が植えられていて耕作不能であり、孝雄さんの父親である東市さんも農作業していなかったことが明らかになった。
 空港公団は他人の土地を市東さんの賃借地と決めつけてそれを返せと訴えている。誤認に基づく裁判であり、そもそも裁判として成り立たないのだ。そんな矛盾した裁判ゆえに一八年間も続いてきた。公判があれば出廷しなければならず、その準備や打ち合わせも含めて時間を取られる。農作業にとって甚大な打撃であり、この点だけでも空港会社は厳しく断罪されるべきだ。
 証人調べではまた、市東東市さんが「自分は革命家として生きる」「自分は〔反対同盟委員長だった〕戸村思想の後継者だ」「空港公団〔現在の空港会社〕と反対同盟は水と油だ、膝を交えたら終わりだ」と集会や日常生活の中で繰り返し語り、中国侵略戦争に二度にわたり計八年も兵士として動員され抑留された経験から革命的祖国敗北主義の必要性を強調していたことが明らかになった。そして、市東東市さんは空港絶対反対の信念を持っていたので、空港会社が証拠として提出した小作地売買に関する「同意書」「境界確認書」に署名することはあり得ない、と締めくくられた。
 市東孝雄さんの本人尋問では、まず、自身、父、祖父の生年月日とその耕作地の歴史を語った。父親から農地を受け継いだ経緯ゆえに、その耕作地に誤りがないことを明らかにした。さらに、空港公団―空港会社と結託して農地取り上げを進めた成田市農業委員会、千葉県農業会議を厳しく批判した。そして、証拠を隠し続けてきた空港会社を弾劾した。
 原告である空港会社の弁護人の質問は「戦前の交換はなかったという話の陳述書は取ったのか?」「南台の畑はどうなっているか?」「困っていることはないか?」だった。市東さんの話を一切無視し、それは聞くに値するものではないと見下す考えを露骨に示した、憎悪と高慢と冷笑に満ちた噴飯物の代物だった。階級的鉄槌を下して粉々に打ち砕き踏みしだくべき暴言であり、万死に値する。
 次回公判は同じ千葉地裁で五月一三日午前一〇時半。万難を排して結集・傍聴し、「農地強奪を許さない」「反対同盟と、市東さんと連帯しよう」というわれわれのスローガンを物質化して耕作権裁判闘争に勝利しよう。


市東さんの本人尋問・要旨

 ――父はビルマに抑留されて帰国が遅れたため、農地改革の時に間に合わず、小作地の自作転換ができなかった。堀之内と中央の農地は自作地で、天神峰と南台の農地は小作地だ。母は病気がちで、農作業は父が一人で行った。子どものときは麦踏みを手伝った。中学校卒業後、「農業では食っていけない」「手に職を持て」という父の言葉に従って船橋のレストランに就職した。その頃、空港建設の話が出て、富里で大きな反対運動が起こった。その後、成田に空港が来ることが分かり、父が反対運動に参加した。家族会議を開いて、長男の自分ではなく、次男が農業を継ぐことになった。しかし、会議から一〇日後に弟は交通事故で死んでしまった。それで、自分が五〇歳になったら家を継ごうと決めた。
 父は一九九九年一月に八四歳で死んだ。遺言状には、土地・建物と耕作権を長男に相続する、土地・建物は空港公団に絶対に売り渡すな、母の介護を頼む、とあった。当時は収用委員会が頓挫していて、萩原進さんから、土地を取られることはない、と聞かされていた。それで、私は農業がやれると喜んだ。仕事の整理をつけて、天神峰に骨を埋めるつもりで同年一二月二六日に帰ってきた。南台の農地のいわゆるA・B・C・Dを父は耕作しており、これを引き継いだ。これらすべては藤崎さんの賃借地だ、という認識だった。
 一九七一年に石橋の提案で石橋が耕作していたCとAを交換した。石橋にとってCには農道がなく不便だったからだ。その交換の結果、父はB・C・Dを耕作した。一九八七年に石橋が移転した後にAを耕し始めた。また、C・Dの耕作について地主から何か言われたことはない。
 天神峰に帰って農業を始めた当初は赤字だった。進さんの指導で四年目から食えるようになった。地主の藤崎と岩沢にもあいさつに行き、地代を払った。その後も地代を払い続けた。二〇〇三年一二月二五日の新聞記事に「地主が土地を売却した」という見出しが出た。地代を払った数日後のことだ。地代を払う際に特に話は出なかった。同日、公団から手紙が届いた。「土地の解約をしてほしい、相談したい」という内容だった。登記簿を調べると、八八年に売却されていた。騙されていたということだ。地主の所に行って訊いたところ、藤崎は「八八年は仮契約で、本契約で売ったのは〇三年だ」、岩沢は「俺は売っていない、だから地代をもらっていいのだ」と答えた。これまでの裁判の中で、公団と地主が結託して、売却を発表するまでは地代を受け取っていい、という話をしていたことが明らかになった。
 〇六年には公団が解約申請したという記事が出た。そして用地部長アサコとホサカ、他に一人の計三人で南台の畑に来た。私は、「話すことはない、すべて葉山弁護士に一任している」と言って帰ってもらった。同年七月三日に農業委員会に行った。農地法で農地を取ることに驚いた。申請書の中の土地の確認に誤りがあったが、農業委は、書類が整っているから問題ないので了承した、と言った。農業委が現地に来たことがある。マイクロバス二台に乗り、降りてから一分もせずにまた乗った。こちらは話そうとしたが、応じなかった。千葉県農業会議にも何度も行って誤りを指摘したが、離作補償があるから問題ないという対応だった。補償といっても一五〇日分しかなく、ふざけている。きちんとした審議もなかった。同年一〇月に本件の訴訟を空港会社が起こして今年で一八年目だ。それ以外にも、これまで小作地明け渡し裁判、櫓明け渡し裁判など複数の裁判を抱えて大変だが、自分を農業から離れさせようという意図が空港会社にあったのではないか、と裁判を通じて思っている。
 南台農地の農道は幼い頃からあった。父がそれを一人で作った。農道を基準にして向かって右と左の農地は借りてはいるものの自分のものだ、という認識が父にはあったから、農道を作った。学校の行き帰りに団結街道から働く父の姿が見えた。石橋や根本の農作業の様子も見た。空港会社が自分の賃借地だと決めつけたE1には当時から木が横たわっていた。市東家が耕したことはない。
 一九七一年に石橋からCをAと替えてくれという話があった。父は石橋と親交があったので断り切れなかった。一九八七年に石橋が移転した後にAも耕作し始めた。空港会社は「戦前にも交換があったのではないか」といっているが、事実ではない。戦前、石橋の手伝いをしていたセキネトメさんから話をそのように聞いた。父の妹である「みずかけのおばさん」も祖父を手伝っていたことがあるので話を聞いたが、交換はなかった、と言っていた。石橋のこどもら(カツエ、トシエ、ミツオ)にも話を聞いたが、交換がなかったのは間違いない、と言っていた。ちなみに、みつおはAとCの耕作者が替わっていたことに驚いていた。
 父は頑固で、誠実で、頑張り屋だった。空港会社は、父が裁判闘争のためにわざと嘘をついた、と主張している。しかし、三〇年後に裁判になることを想定してそのために事前に資料を作ることなどあり得ない。「同意書」「境界確認書」に署名することは絶対にない。自分の土地を書き間違えるとか、署名をするとか、そういうことは絶対にない。
 自分にとって有機農業は生きがいだ。昔は農薬を使っていたが、産直の会が発足した八七年の翌年八八年に父が本格的に産直を始め、それ以来農薬と化学肥料を一切使っていない。時間をかけて土地を改良してきた。ハウスを使わずに露地栽培で、土の力を使って旬の野菜を消費者に提供している。季節に応じて約六〇品目の野菜を生産している。消費者と顔の見える関係を作ってきた。野菜に責任を持つという姿勢で産直を行ってきている。南台ではできる限り農業を続ける。私にとって農地は命だ。単なる土地ではない。小作権者の合意もないのに底地を買い、かつ、それなのに一五年間も地代を取り続けて騙してきた。空港会社は正規の書類を出して明け渡しを求めているわけでもない。
 前回の公判で証人台に立った元空港公団職員の法理は、土地買収に関して報告書を作って上司に報告し、書類は永久保存されている、と述べた。だから、「同意書」「境界確認書」を作成する際の地主との交渉記録と報告書は一切ない、という空港会社の主張は嘘だ。空港会社に小作地を明け渡すことは絶対ない。「裁判長に置かれましては、空港会社の明け渡しの請求を却下していただきたい!」――

 


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