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  ■労働組合運動の再生に向けて

    ―戦後の労働組合の闘いをふりかえって  第五回

                                長  明


                                      



これまでの掲載

第一二七二号(二〇〇六年十一月五日) 第一回
第一二八五号(二〇〇七年六月五日)  第二回
第一三一二号(二〇〇八年九月五日)  第三回
第一三一三号(二〇〇八年九月二十日) 第四回


 ●4章 「春闘」の登場、
    生産性向上運動を基軸とした資本による労働現場の掌握
     高野総評事務局長の退場と太田―岩井「春闘」路線の登場


 ▼@八単産共闘の発足と春闘

 高野事務局長の総評路線に批判的であった合化労連の太田委員長は、労働組合の闘争について産別中心に闘いを組むべきと主張し、一九五四年十二月九日五単産(炭労・私鉄・合化・紙パ・国労の五単産およびオブザーバーとしての全国金属)共闘会議を開催。十二月二十八日、国労と電産が入れ替わり正式の五単産共闘が発足した。
 その後高野派の批判を受け入れて共闘の幅を広げ、一九五五年一月二十八日、八単産共闘会議を発足させ、「みんなでわたれば怖くない」方式の春季賃金闘争=春闘へ踏み出していった。
 この八単産共闘で発足した春闘において、炭労・私鉄がストライキ、合化労連が二波にわたるストライキを敢行することにより、八単産春闘は一定の成果をあげた。しかし、一方で、政府―資本は「生産報酬による賃金制度構想」の発表にみられるように、賃金引上げの抑制策に打ってでるとともに、賃金を労働生産性にリンクさせる意思を明確に示した。
 実際、政府―資本は一九五五年二月十四日に生産性本部を発足させ、生産性向上運動へ労働組合・労働者を巻き込み、賃上げは生産性向上の成果の配分であるというイデオロギーを、労働者側の闘いを利用しながら、とりわけ春闘のような社会的にも影響力のある大きな闘いの中で、徐々に労働者の意識の中に浸透させていった。(太田の春闘方式は、沈滞し始めていた労働者の賃金闘争を活気づけ、再び賃金闘争に労働者を結集させていった。しかし、同時に政府―資本の「生産性向上による賃上げ=生産性賃金」への誘導攻撃はあからさまで、政府―資本が一方的に設立した生産性本部へ同盟を先頭に、労働組合を巻き込んだ。また、春闘での賃上げ闘争の結果は一律賃上げではなかったため、給与構造《年功と職務・職階を重視した給与体系》から必然化される企業内配分交渉の過程においても労働者に、賃金引き上げは生産性に基づくものであるという資本側のイデオロギーが、徐々に浸透していった)
この八単産春闘が登場した、一九五五年の第六回総評大会で、高野路線に否定的な社会党左派は、岩井章を事務局長候補として高野の対抗馬として押し出し、高野を僅差で破っていった。
 この高野の敗北は、戦前からの労働組合活動家時代に終わりをつげ、その後は戦後の労働組合活動(GHQの下で)で育った組合幹部・指導部を中心とした時代となっていった。
 また、この年の秋闘が鉄鋼労連・全造船を中心に激しく闘われている最中の十月十九日、総評の賃金綱領委員会(担当太田薫、民間六名、総評二名、学者四名で構成)は「賃金闘争の行動綱領(第一次試案)」を発表した。
 その具体的統一目標は「@賃上げ額については徹底した職場討議による決定、A中小零細企業での最低賃金の制定、B賃金決定基準の公開、C同一労働同一賃金、D生産性向上運動との結合などが、示された」(『総評四十年史』より)
 しかし、この行動綱領は、賃金闘争一本やりで、地域闘争や平和闘争の視点が欠落しているとして、高野派の反対に合い、総評機関で正式に決定され採用されることにはならなかった。


 ▼A 米軍「立川基地」拡張反対、労働者が反米軍基地闘争の前線へ

 また、この年、「米軍立川基地」拡張計画に反対の態度を明らかにしていた砂川町は六月十八日、町民決起大会を開催。その決起大会に労働組合も参加、基地拡張反対の強固な労農提携の陣形が作られていった。七月一日からの立川基地拡張強制測量に対し、東京地評・都労連は組合員を動員し、警察機動隊と対峙していった。そして、この年の九月の第二次強制測量、十一月の第三次強制測量を東京地評を中心とした労働者は農民・学生とともに、逮捕者三十名、負傷者約六百名をだしながら闘い抜き、砂川農民と信頼関係を作り上げ、そして、出身職場の労働現場に新たな息吹を持ち込んだ。
 この砂川闘争は総評の地域政治闘争の形をつくるとともに、東京地評傘下組合の戦闘化をもたらし、総評の政治的・社会的課題に対する本格的実力闘争の陣形をつくりだした。(砂川闘争は、翌年の一九五六年の第二次砂川闘争で、農民と支援が強制測量に頑強に抵抗し、結局、政府―調達庁に測量をあきらにめさせ、一九六八年の基地拡張計画中止発表に追い込んでいった)

 ▼B 五六年春闘 八単産春闘から総評春闘へ

 五五年の八単産で出発した春闘は五六年以降の労働運動を彩った春闘(=賃上げ闘争)として、総評の闘いの主軸となり、賃上げは春に決定するとことが徐々に一般的になっていった。
 五六年春闘は二月十五日、官公労の「超勤拒否」の第一波からはじまり、二月二十五日第二波、三月十八日第三波の実力闘争、そして三月十九日の第四波では、炭労・合化そして他の民間組合がストライキに入り、つづく三月二十八日の第五波での電機労連の部分ストライキ、四月十日全鉱がストライキを挙行し、資本・経営から前年を上回る賃上げを獲得していった。
 この五六年春闘の成果を総評は八月大会で「独占資本や政府の『デフレだから賃上げできない』『企業競争のためには賃上げを我慢しよう』という生産性向上運動、賃金ストップのデマ宣伝をはねかえし、多くの労働者が戦後最大の統一賃金闘争を組織することによって『労働者が守勢から攻勢に転じる契機』をつかみ、春季賃上げ統一闘争を前進させることができたと総括した」(総評『四十年史』より)ここに、戦後労働運動の一時代を築いた、総評を中心とする春闘、春季賃上げ闘争が形作られたのである。
 また、この年の秋の賃上げ闘争は春闘に加わってない鉄鋼・全日通・全造船の部隊によって、総評大会終了後、闘われた。
 鉄鋼労連は三月大会で二千円の賃上げと大手五組合が七月から統一闘争で闘うことを決め、七月に要求を一斉に提出し、産別闘争として九月六日から数波の部分ストライキ、二十四時間ストライキを敢行するという闘いを行い、賃金ストップを打破していった。

 ▼C 米軍「立川基地」拡張反対闘争、
         農民と支援の労働者・学生、警官隊と衝突


 五五年の強制測量につづき、米軍駐留司令部の要請を受けた政府は、立川基地関係で新たな強制測量をする方針を決め、調達庁が十月初旬に、立ち入り調査をすると関係住民に通知してきた。
 地元反対同盟や支援労協などは測量を実力で阻止する方針を立て、十月四日からの千五百名の宿泊体制と、連日五千人動員態勢を決め、強制測量と対峙した。
 十月十二日、十三日から装甲車を先頭に押し立てた警官隊が、反対同盟・支援のピケ隊に突入し、小競り合いとなり、ピケ隊九百名強、警官二百名弱の重軽傷者が出る事態となった。この事態の中で、批判が政府に向けられ、政府は「第二次強制測量の目的はほぼ達した」として、十五日以降の測量を行わないこととした。
 この砂川闘争の闘いの中で「土地にクイは打たれても、心にクイは打たれない」という言葉が生まれ、砂川農民と支援の労働者・学生が闘い抜いた砂川基地拡張反対闘争は、基地拡張を許さず勝利していった。

 ▼D 五七年春闘、官民一体の闘いと公労協―国労に対する弾圧

 五七年春闘は、賃上げと最低賃金制の確立を二大目標とし、官民一丸の全国的な産別闘争で闘う方針の下、三月十一日から十五日に官民の実力行使を集中させて闘われた。
 三月八日の炭労七十二時間ストに続いて、十一日、炭労大手十四社、私鉄大手十三社、合化労連十社の二十数万人がストライキに突入、国労・機労が勤務時間中の職場大会、全専売、全逓、全電通、全林野などは休暇闘争で、闘いに合流していった。
 この実力行使を背景に民間は順次妥結し、公労協も当局の仲裁申請、政府の仲裁裁定尊重声明で解決に向かった。
 しかし、三月二十三日国鉄において、当局が約束した業績手当を支給できないとしたことから紛糾し、国労は、同日正午からの全国一斉職場大会開催を指令した。しかし、交渉は進展せず、午後二時から職場大会に突入し東京管内主要路線で一時的全面的な運休状態となり、実質的な「ストライキ」状態となった。
 この五七春闘の公労協の闘いに対し、政府―三公社五現業理事者、なかでも国鉄の理事者の攻撃はすさまじく、国鉄を除く二公社五現業に対する処分が合計八百八十八名であったのに対し、国鉄では二十三名の解雇を含む七百五名の処分が行われた。
 この処分に対し、総評―公労協はただちに抗議の闘いに突入。国労は五月十一、十二日の両日、駅や操車場で三時間の職場集会を行い、貨物列車に春闘の時以上の遅延をだすという闘いをもってこの政府―当局の処分攻撃に抗議の意思を表明した。
 この抗議闘争に対し、国鉄理事者は六月三日から十一日にかけて第二次処分を行った。
 この第二次処分に対し、国労は六月四日から五日にかけ半日職場大会で抗議を貫徹した。
 すると国鉄当局は七月三日第三次処分を発表、その内容は闘いの先頭を担っていた国労新潟つぶしの意図(地本闘争委員と元地本委員長を懲戒免職)が歴然とした処分攻撃であった。
 この処分に対し、七月十日から新潟鉄道管理局管内の各職場で抗議闘争が展開され、七月十三日から十六日には、国労中央の指令を超えた実力行使が行われ、十五日には組合員五人が県警に逮捕されるという事態となった。
 しかし、十六日国労本部は中闘会議を開き、激論の末、交渉を中央に移すことを決定、闘争中止指令を発した。
 この国労中央の闘争撤退をみた新潟鉄道管理局は七月十七日、地本委員ら十五名の解雇攻撃を行ったのである。
 この国労新潟闘争への攻撃と国労本部の戦術転換によって、その後の新潟地本は悲劇的な分裂に追い込まれていったのである。
 この五七年春闘において、政府・資本は春闘の一翼を担い始めた公労協、なかでも公労協の中心部隊である国労に対する徹底した戦闘力解体攻撃として、国労の戦闘的翼を担い始めた国労新潟に集中攻撃をかけたのであった。

 ▼E 鉄鋼労連の五七年秋闘での敗北、そして春闘へ合流

 九月二日、鉄鋼労連は諸要求を提出し、交渉に入った。しかし、資本側は「ゼロ」回答で鉄鋼労連に答えてきた。
 労連はこの事態を打開するため十月八日第一波の二十四時間スト、十月十一日から十二日の第二波、二十四時間スト、十月十七日の四十八時間ストを行ったが、資本側はかたくなにゼロ回答をつづけた。
 鉄鋼労連は総評の資金援助を含めた支援を背景に、十一月二十六日までに十波の四十八時間スト、十一月三十日には第十一波の二十四時間ストを敢行したが、住友金属のわずかな賃上げと、神戸製鋼の生涯給の若干の増加回答以外、何ら獲得できず、闘争を収拾していかざるをえなかった。
 この五七年の鉄鋼労連秋闘の敗北をもって、秋の賃金闘争は幕を閉じ、ほとんどの単産が春の賃上げ闘争=春闘に合流していった。
 また、鉄鋼労連の秋闘の敗北は、賃金闘争における敗北だけでなく、資本・経営による職場ヘゲモニーの奪還、職場における組合の影響力の排除へ向かっていった。
 この五七年鉄鋼労連の秋闘を粉砕した資本・経営は八幡資本を先頭に職場からの組合影響力の排除にのりだした。
 五八年春には八幡製鉄戸畑製造所への新鋭設備の導入と同時期に提案し採用されたライン・アンド・スタッフ制(作業長―工長制)という現場職制機構が、労働者を生産性向上運動に駆り立てる武器となっていった。
 すなわち、八幡資本―経営は、製造現場から労働組合の影響力を排除し、労働者を会社イデオロギー=生産性イデオロギーのもとに包摂し、そして製造現場を掌握するため製造現場での経営代表として作業長の誇りをくすぐり、そのうえ実益を与え、作業長に労働者の労務管理の役割をもたせた。このようにして、八幡資本・経営は作業長に労働者を掌握させ、かつ、コストダウンの任務を担わせ、労働者を生産性向上運動(QC運動、ZD運動等)に巻き込んでいったのである。
 この八幡資本の方式が年々鉄鋼各企業に浸透し、徐々に鉄鋼労連の戦闘力はそがれていった。

 ▼F 景気後退、不況下での五八年春闘と王子労組つぶし

 五八春闘では労働側は、三月三日の第一次統一行動を皮切りに、三月十三日からの第二次統一行動(炭労が二十四時間、四十八時間ストライキ決行。私鉄、国労、機労、全逓、全電通が順法闘争等の統一行動)、三月二十三日からの第三次統一行動(私鉄の二十四時間スト、炭労の無期限スト、公労協の順法闘争等)、そして三月二十七日から第四次統一行動(合化労連の二十四時間ストライキ、炭労の無期限ストライキ、公労協の順法闘争等)を闘い決着を図ったが、なべ底景気と表現される景気後退局面の中で、資本・経営の賃上げに対する壁もあつく、民間は第七次統一行動まで設定し闘い抜いたが、要求額の半額程度の賃上げで、闘争を収拾していった。
 この五八年春闘のさなか、王子製紙において会社が賃上げ要求に対し、連続操業という提案を逆におこなった。そして王子労組が四月二十四日から二十四時間ストライキ、部分ストライキを繰り返すと、会社側はロックアウトを強行し、五月十四日期限切れの労働協約について@ユニオン・ショップ条項の廃止、A組合費チェックオフ拒否、B時間中の組合活動・便宜供与の大幅削減等を提案し、労組をつぶす攻撃にうってでてきた。
 六月十八日からの無協約状態を突破するため王子労組は七月十八日より無期限ストライキに突入した。会社側は、八月に入って結成された第二組合を使い、操業再開を強行し、八月十九、二十、二十五日には、王子労組ピケ隊と強硬就労を企てる会社・第二組合との間で大乱闘となった。そして、九月の札幌地裁の王子労組の構内立ち入り禁止仮処分後、仮処分執行を巡って、王子労組側ピケ隊と警官隊が衝突し、多くの負傷者を出した。
 九月二十五日苫小牧工場では第二組合員を入構させるとともに、王子労組にロックアウトをかけた。そして、中労委の斡旋を労使受諾して争議は収拾したが、王子労組には多大な打撃となった。

 ▼G 五九年春闘、賃上げの前進と政府提案最賃法の成立

 五九春闘は二月二十五日の第一次統一行動(鉄鋼労連二十四時間ストライキ、炭労・全鉱・私鉄・合化労連・全金・全印総連・全日自労などが時限ストライキや職場集会)、三月四日第二次統一行動(鉄鋼労連二十四〜四十八時間ストライキ、全造船・炭労が二十四時間ストライキ、合化労連は三月三日に二十四時間ストライキ、公労協は時間内職場集会)。第三次統一行動では三月十日〜十三日に炭労等が二十四時間ストライキ、全造船が一時間ストライキを打ち抜くとともに公労協は時間内職場集会、自治労は休暇闘争にはいった。そして、三月二十日の第四次、三月二十五日〜二十七日の第五次統一行動を闘うことにより、多くの労組が前年の賃上げを上回る回答を引き出した。そして、総評の課題としてあった最賃法案については、政府案に対し、社会党が全国一律最賃のうえにそれより高い業種別、職種別、地域別最賃を積み上げるという修正案をまとめ、総評・社会党・全労会議・新産別・中立労連は最低賃金制要求貫徹共闘会議を結成し闘った。しかし、四月七日、自民党は修正要求に応じることなく衆議院で政府案を可決していった。

 ▼H 五九年日米安保条約反対闘争への決起
   企業整備=人員整理=組合つぶしとの闘い・三井三池闘争へ


 五九年春闘後、三井鉱山資本は企業整備という名の下、人員整理攻撃を強め、組合と合意した希望退職募集に応募者が少ないと見るや、本格的な企業整備案を発表した。
 これに対し、炭労は企業整備に対しては柔軟に闘うという方針を決定するとともに、三井鉱山の労働組合(三鉱連)支援を決定、三井資本と対決していった。
 一方、総評の呼びかけで、三月二十八日に結成された「安保条約改定阻止国民会議(これ以降は、「国民会議」と略す)」は三月三十日の第一次統一行動を皮切りに、夏から秋にかけて条約阻止に向けた大衆行動を取り組んでいった。

 ▼I 安保条約反対闘争下での六〇年春闘と三井三池闘争

 六〇年春闘は安保条約反対闘争が広範に闘われる中で、四月五日の合化・全金・全印総連が二十四時間ストライキ、六日には電機労連が統一ストライキ、そして、二十六日に合化・紙パが二十四時間ストライキを打つと、資本側は安保闘争を牽引している総評を中心とする労働側に大幅に譲歩し、四月から五月始めにかけて争議は解決していった。
 一方、前年の十二月十五日指名解雇者千二百二名をだした三井三池労組は壮絶な戦いに突入していった。一月末の会社側の全山ロックアウトに対しては、無期限ストライキと大衆決起集会、全国へのオルグ団派遣で対抗し、そして、総評・炭労の支援のもと、闘争態勢を確立していった。
 これに対し、会社・資本側は三井労組の分裂工作を進め、ついに、三月十一日三井三池中央委員六十九名が戦術転換の中央委員会開催要求をするまでに至った。
 そして、炭労の全支部四月上旬統一ストの直前、三鉱連各山では組合分裂という状況もあり、統一スト指令の返上が相次いだ。炭労は三月二十七日三鉱連の要請を受け入れ、ゼネスト中止指令を発した。
 炭労が戦術転換した翌二十八日、三川鉱の強行入坑をめぐってピケを張っていた第一組合員と強行入行しようとした第二組合員とが衝突し、流血の大乱闘が起こり、翌二十九日ピケを張っていた三池労組員久保清氏が暴力団員に刺殺される事件が起きた。
 この刺殺事件で、三池現地では憤激が高まり、闘争は到底収拾できる状態ではなくなり、炭労大会は闘争の続行を決めた。これに不服の三鉱連は、三池闘争から離れていき、三池の闘争は三井三池労組と炭労および総評の闘いとなり、六月までは東の安保闘争、西の三井三池闘争として激しく闘われた。
 日米安保条約が自然承認となったあとも、三池の現場では労働者が果敢に闘いを展開していた。三池現地には総評―炭労の支援者が続々と入り、七月十八日から組合側ピケ隊二万人が会社の仮処分決定執行要請を受けた警官隊一万人と対峙し、仮処分期限日の二十一日を前に「ホッパー前」は一触即発の決戦状態となった。
 この状態の中で、総評―炭労は池田内閣に働きかけ、七月二十日早朝に、中労委の三度目の斡旋申し入れを会社、組合とも受け入れ、衝突は回避された。
 このあっせん案は、職場活動家の指名解雇を認めていたため、結局、三井三池労組の戦闘力は解体させられていったのである。
 この炭労―三井三池の敗北が、戦後労働組合を牽引してきた戦闘的労働組合運動の最後的解体としてあり、戦後労働組合運動の終焉といっても過言ではない。
 この後、春闘は一九五五年体制としての春闘、つまり、大手企業―大企業中心に、生産性向上を前提に、生産性向上分の一部を、春に闘争を組むことで賃上げとして獲得し、労働者の不満を一定発散させ集約するものへと変化していった。
 この体制内での賃上げ闘争の枠からはみ出る労働組合運動は弾圧の対象となっていった。

 ▼J 日米新安保条約調印と激しくなる批准阻止闘争

 一九六〇年一月十六日岸首相は渡米し、十九日、新安保条約に調印した。これに対し、総評―「国民会議」は条約の国会批准を阻止すべく、安保反対一千万人署名行動を起こすと共に、二月二十五日の第十二次統一行動を皮切りに大衆行動を強めていった。
 そして、六〇年春闘が早々と終結するなか、安保反対闘争は大衆的闘争に転化していった。自民党が強行批准の姿勢を見せはじめた四月二十六日、従来の代表による国会請願とは異なる大衆行動として国会請願運動が国民会議によって開始され、日比谷公園に結集した七万五千人の参加者が朝から夕方まで行動を行い、日比谷をはじめ全国でその夜、百万人の安保反対の集会が開かれた。
 五月十九日の安保特別委員会で、自民党が審議を打ち切ったことに対し、総評は緊急大動員を指令し、この日以降反安保闘争をひと月間にわたり闘い抜いた。
 五月二十日、衆院本会議で自民党が単独採決を強行、国会周辺は労働者・市民・学生の怒りのデモで埋められた。
 六月十一日〜十九日の第十八次統一行動では、十一日の国会請願デモに二十数万人が参加し、十三日から十六日には参議院での強行採決を阻止するため、連日数万人の国会請願デモがおこなわれた。とりわけ、六月十五日には私鉄、炭労、全鉱、公労協がストライキ、職場集会で闘い闘争に参加すると共に、全国三百四十五カ所で、日米安保反対の集会が開催され、百万人が集会・デモに参加して闘った。そして、この日、全学連のデモ隊が国会構内に突入、警官隊と衝突し、闘いの中で東大生樺美智子さんが死亡すると共に、重傷四十三名を含む五百五十五名が負傷した。
 六月十八日には日比谷野音で「学生虐殺抗議全学連総決起大会」が、また三宅坂で国民大会が開催され、大会終了後、二十五万人のデモ隊が国会、アメリカ大使館、首相官邸を取り囲み、安保条約反対の意思を表わし樺美智子さん虐殺への抗議行動を行った。
 六月十九日午前〇時、労働者・学生・市民四万人が国会周辺に座り込むなか新安保条約は自然成立した。
 六月二十三日、安保条約の批准書が交換され、新安保条約が発効した。そして、この日新安保条約発効とともに、岸内閣総辞職が発表された。


 ●第五章 戦後労働組合運動の過程。労働運動再生に向け奮闘しよう

 ▼@ 戦後労働組合運動の到達点と五五年体制


 戦後労働組合運動は、一九五〇年の総評結成後、一九五二年の電産産別の解体そして企業組合への誘導、一九五三年の全自―日産労働組合の解体、一九六〇年の炭労三井三池への攻撃と炭労の戦闘力喪失によって、労働組合の産別化―職別化という全国横断的組織への組織展望を政府―経営者側に最後的に封殺された。
 また、資本―政府は一九五四年の日鋼室蘭労組への攻撃、五七年春闘での国労新潟に対する徹底した弾圧、秋闘における鉄鋼の闘いに対する経営側のゼロ回答、五八春闘における王子労組つぶしと分裂攻撃にみられるように、会社・当局と闘う労働組合に対して攻撃を集中し、闘わない労働組合、労使協調の組合へと、労働組合を変質させていった。
 資本―政府はそれでも抵抗する戦闘的労働組合に対しては、会社の第二労務担当を担い始めた全労会議(後の同盟)を不当労働行為であることを承知しながら援助し、彼らに第二組合を組織させ、抵抗する組合の力を奪っていった。
 資本は組合の企業内組合化そして御用組合化を推し進めると同時に、新規採用時においては、会社=資本とは異なった考え・意見を持つ者の排除(この頃から、日本における大手企業の採用試験の傾向は就職試験というより、就社試験つまり、現在、浜口桂一郎が著書で表現している「メンバーシップ社会」=企業社会への登用試験となっていった)を行い、職場秩序を資本=経営者の下に組み込んでいったのである。
 この職場秩序を前提に、一九五〇年代後半そして六〇年代にかけ、大手製造業は新鋭設備を導入し、そして新設備導入に伴う新職制機構の導入を行う一方、生産性向上運動を企業内労働組合の協力を得ながら実施し、驚異的に生産性を増大させていった。
 一方、企業主義が浸透しはじめた労働組合はこの企業の驚異的生産性向上の中、拡大しはじめた組合員の闘争忌避の感情を利用しながら、資本が取得する膨大な利潤から一定のおこぼれを分けて貰うこと(企業内組合に所属する正規職組合員が対象)により企業内組合員を納得させ、対資本・経営との闘争から組合員を徐々に遠ざけ、企業内協議(実態は組合幹部の第二労務担当への変貌と、組合幹部の会社内での出世と自己保身=自己利益追求)へと労働組合の重点活動を移していった。
 闘争より労使協議という対資本・経営に対する組合指導部の基本的姿勢は、製造拠点・生産現場での労働者の闘いを大幅に後退させることになっていった。
 資本・経営者は闘いが後景に退く中で、企業主義思想の組合役員・活動家に助けられ、新たに社員になった者、そして戦後労働運動を闘いぬいてきた労働者に、「企業あっての組合。生産性の向上なき賃上げは会社を成り立たせない(=会社倒産)」という考え方=イデオロギーを徐々に浸透させ、このことを是認する者だけしか組合役員になることができないよう直接・間接に企業主義組合役員を援助し、戦闘的=階級的考え方の組合役員・活動家・労働者を職場から排除する企業・職場体制をつくりあげていった。
 その結果、六〇年代、大手製造業における職場とりわけ生産現場での戦闘的・階級的労働組合の考え方・影響力はほとんどなくなっていった。
 このような大手製造業の職場・生産現場における労働組合の組織実態の中で、総評指導部は対資本・経営に対する職場・生産現場での労働組合の権威を立て直し、対資本・経営との闘争体制再構築を目指し、政治的課題中心の大衆カンパニア闘争を組み立てた。
 そして、大衆カンパニア闘争へ動員された組合員大衆が、社会的矛盾を実感するなかから、意識を活性化させ、闘いに立ち上がることで組合運動が再活性化することを期待した。
 しかし、一旦資本・経営のもとに掌握された大手製造業の職場・生産現場労働者の意識を変え、対資本に対する闘いに立ち上がらせる現場組織の再構築はほとんど実現することができなかった。
 そればかりか、資本・経営者の力・援助を背景にし、総評方針を政治闘争至上主義として批判する組合勢力に職場・生産現場での組合実権を掌握されていった。
 このような民間大手組合に対し、賃金を初めとする労働条件ひとつとっても政治的力による解決を図らざるを得ない状況におかれていた公労協・公務員組合、あるいは公共性・独占性の強い私鉄等の組合が政治的大衆カンパニア闘争の大衆動員の中心を担うようになっていった。
 これら産別に結集する労働組合員は大衆的政治闘争に参加する中、政治的にも職場的にも活性化し、その後の総評運動の中心となっていった。
 社会党と表裏の関係にあつた総評・組合指導部は公労協・公務員・私鉄等の労働組合が闘いの主力になるなか、大衆的カンパニア運動を組む一方、これら産別・企業の課題を社会党を通し、自民党と政治的知り引きを行うという枠組みのなかで解決を図るという運動に没入していった。
 その後、職場での闘い、大衆的政治的カンパニア闘争の組織化が困難になる中、これら産別の組合指導部は、国会における闘いがあたかも総評労働運動、組合の闘いであるかのよう装い、労働組合運動を選挙運動・政治家に従属させはじめ、資本・経営との闘いの場から労働組合運動を遠ざけ、現場における資本・経営との闘争を放棄していった。
 戦後戦闘的に職場で闘ってきた労働運動が、資本の攻勢で職場での影響力を失っていく中、労働者大衆は資本・経営と対決することにより経営・資本に対する階級意識を覚醒させたり、自己を成長させたりする機会を、また、労働者同士の横の広がりを強め、団結を強める機会を奪われていった。そして徐々に労働組合運動からダイナミズムが失われてゆき、結果的に一九五五年体制の枠の中での組合運動となっていった。
 結局、総評・組合幹部の指導は、政治的大衆カンパニアに決起し政治的に目覚めた労働組合員を、組合が支持する社会党(政党)の選挙活動に囲い込み、そして組合運動を社会党の国会議員を増やす選挙活動に集約し、組合員の重要な要求については国会での社会党の質問を通し、実現できるものはさせていくという方針が中心となっていった。
 それ故、労働組合員の政治的前進・成長は必然的に、投票行動・選挙活動に集約されざるを得ず、極端に言えば、資本・経営との闘いより(職場で起こる理不尽な様々なこととの対決・対応)、選挙活動こそが組合活動であるという意識を労働組合員、とりわけ組合役員=活動家に蔓延させた。また、様々な労働条件を主体的に闘い取るのではなく、国会等をつうじ間接的に保障させる、あるいは労使協議の中でおこぼれをもらうことが組合活動であるという流れになっていった。
 つまり、一九五五年体制とは企業組合を前提として、企業内協議(日本においては使用者と組合役員の談合という性格が強い)を行う一方、組合員の不満は政治運動=選挙活動と投票行動で集約する体制であるといって過言ではない。

 ▼A 企業組合路線を克服し労働者のための労働組合運動を強化しよう

 戦後、政府・資本と労働者・労働組合の熾烈な闘いは資本の労働者・労働組合の企業組合への取り込みと、労働現場の資本・経営者への奪権が中心環としてあり、一九六〇年三井三池で資本・経営者が勝利することで、戦後の労働者の攻勢には決着が付けられていった。
 その結果、日本の労働組合が、資本の攻撃に後退を重ね、資本の考えそのものを受け入れるあるいは受入れやすい企業組合(正規社員のメンバーズクラブ化)に純化して五十年が経過した。
 この五十年の間に労働組合の幹部は資本との取引の中で、組合員にとってというより、組合幹部にとっての権益を数多く作り上げ、後輩の組合幹部にこの権益を連綿として引き継ぎながら企業組合組織を守ってきている。
 すなわち、労使協調を前提として、大手企業労働組合幹部の多くは組合上部団体や経営者の推薦・斡旋で各種政府委員や自冶体委員、労働組合や会社出資の様々な団体(労金・労済等)、子・孫会社等の役員に組合役員退任後就任することを当然視し、実行しており、今ではそのことが既得権益となるなかで、彼等はその行為に何らの矛盾も・痛みも感じない存在となっている。民間大手組合、とりわけ連合に結集している組合幹部の多くがこのような既得権益に群がる道を歩んできたし、今後も歩んでいこうとしているのである。
 このように現在の日本の大手労働組合は企業組合として組合役員を先頭に体制内化し、企業の発想そのものを平然と受け入れ、労働組合として企業と距離を置いた価値観を持ち活動することなど考えられない存在となっている。
 一方、一九九〇年代のバブル崩壊以後、とりわけ橋本行革以降そして森―小泉政権の新自由主義政策への転換の中で、資本は全ての労働者を日本的労使関係としての企業組合(メンバーズクラブ)の中に包摂することを放棄しはじめただけでなく、積極的に日本的労使関係の解体に着手(部分的には日本的労使関係を残しながら、とりわけ自分達に都合のよい企業内組合は残し利用する)してきた。その結果、職場・労働現場に新たな矛盾と新たな労資関係が生じてきている。
 現在日本の各地で家計の主たる生活費を稼ぐ非正規職(派遣、契約、パート等)の労働者が著しく増大している。生活不安を抱く労働者が大量に生み出され、労働者が闘いに決起する状況を醸し出してきている。
 この状態に対し、企業労組は何ら手を打たず、傍観するだけで、非正規労働者とともにこれらの問題を取り上げ、解決することをしようとしてこなかったし、また、できないことも明らかである 。
 私は何としても、企業組合にがんじがらめになった労働組合運動と決別する方法を見つけ出すこと、そうしなければ日本の労働者、労働運動の未来を描くことはできないと考えている。
 企業内組合から決別するためには、企業連合でない本来の意味での産別(産別協約で労働条件等を規定)組合をつくり上げるか、地域の一般労働組合を強化し、地域の様々な労働者を結集させて、地域組合を強化拡大し、地域の力を全国的力まで高め上げてていくことを目指すべきであると考えている。これが、戦後激しい闘いを闘い抜き、敗北してきた日本の戦後労働運動から引きだした教訓である。
 いま労働運動・労働組合に必要なのは、生活不安に悩まされ、ワーキングプアーに追い込まれている労働者と団結し、労働者の連帯運動を強化し、彼らとともに闘い、彼らの問題の解決をめざす労働組合組織を目指しつくりあげる、そして新たな労資関係を構築し、労働者の労働条件を向上させ、労働者の権利を獲得し・守ることである。
 再度、日本の現状を確認する。日本資本は政府の後押しを受け、一九九〇年代なかば以降、他国資本に世界で勝つため、日本的経営を背景に追いやり、そして投げ捨て、労働者から収奪し蓄積した資本を持って世界各地に進出し、現地の労働者から更なる搾取・収奪を強化する道を歩んでいる。
 そして、日本国内においては正規社員がリストラされ、削減された正社員に代わり非正規労働者が多くの職場に配置されてきた。
 その結果、日本国内では、年々生活できない労働条件で働かざるを得ない大量の労働者が生み出されてきている。
 このような労働者を団結させ、労働者の正当な権利と公正・公平な労働条件を目指し、闘い抜く労働組合・労働運動がなんとしても必要である。
 日本の労働組合運動の主力は現在、企業労組であり、この延長線上には、決してこのような問題に取り組めないことは自明の理である(最近、ある産別・単組の役員と話す機会があった。その役員の話では、「『非正規の賃金を上げると、自分達の賃金が下がる』と組合員が反論してくる」というのが多くの正規労働者組合の実情である)。
 企業労組の内側から企業労組を変革し、労働者のための組合に作り変えるという展望は考えうるであろうか。残念ながら、既得権益に守られた組合役員とそれを是認することにより自分達の利益も守られていると考えている組合員が多数を占めるそれら組合の革命的転換を十年、二十年で望むのは夢でしかない。
 それではどうするのか。
 派遣・請負・契約等様々な雇用形態、そして企業労組のようにメンバーシップ的要素も無く、使用者からの便宜も図ってもらえず、職場で孤立し、過酷な労働条件の下で働き、家には寝る為だけに帰るだけ、そして地域でも孤立している労働者が増大している。このような労働者が気軽に相談し、他の人と連帯・団結を確認でき、また資本と協議し、不当・不正に反撃する第一歩として地域組織に結集させること。
 そして、地域にしっかりと根を張った組合を企業組合の外につくり・強化していくことが必要であり、まずはそのことに全力をあげ、資本への反撃を開始していくことだ。
 また、良心的に、階級的に闘い抜いている大手企業組合あるいは大手企業組合の中で、苦吟している組合活動家は、この地域組織の強化に公然・非公然に関わり、協力し、地域組織・組合の強化を共に担っていくことに踏み出すべきでだ。
 この地域組合、地域活動を強化することで、地域の労働者の団結と活動力を高めること。その地域組織の団結・地域活動の活発化を前提に、資本とまともに交渉できる全国規模の組織を展望し、作り上げることにより、企業主義イデオロギーに染まった企業主義労働組合運動に風穴をあけ、日本の労働組合運動の再生を勝ち取ろう。
労働運動・労働組合再生に向け、共に前進しよう。


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本号で追加した参考文献

○『春闘の終焉』   ………… 大田 薫
○『現代の労働運動』 ………… 大田 薫
○『日本労働運動論』 ………… 岩井 章
○『総評の再生』   ………… 岩井 章
○『生産性と労組』  ………… 生産性本部
○『生産性運動50年史』………… 生産性本部
○『戦後日本労働運動史』下…… 佐藤 浩一編


 

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