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  3・8国際女性デー

     

 日本軍隊性奴隷制度に対する闘いの継承を

 女性差別と徹底的に闘い

 戦争・貧困・格差社会をなくそう




 今から二十年前の十二月に、日本軍隊性奴隷制度の被害者金学順(キム・ハクスン)さんが来日、各地で証言を行った。被害の事実を大勢の人の前、テレビカメラの前で話した。金学順さんは、時に声を詰まらせることもあったが、毅然と顔をあげ、過酷な被害体験を証言した。  
 この証言は日本の女性解放運動にとって決定的だった。それまで、韓国の戦後補償要求の闘いや、女性運動によって提起された「軍隊慰安婦強制連行」問題が、日本の女性解放運動の重大な欠くことのできない課題となった。金学順さんと韓国挺身隊問題対策協議会を日本で迎え入れ、金さんを守り、証言集会を運営したのは在日朝鮮・韓国女性たちだった。この証言集会以降、各地で日本の女性運動も立ち上がり、その後のアジア規模での共同闘争がつくられたのである。
 金さんは、来日する日本航空の日の丸を見て足が震え、旅館の畳を見てフラッシュバックに襲われたという。それほどに辛い来日と証言であったが、覚悟を持って来日した。韓国挺身隊問題対策協議会の呼びかけに名乗りをあげた理由を、「日本がPKO海外派兵をしようとしているから」と話し、来日の理由を「日本政府が強制でないと居直っているから、生き証人として証言に来た」と日本政府を糾弾した。
 金さんは、十日間の滞在後帰国するときに「韓国を発つ時に私が決心したことは、全てを話し、最後に天皇の前で死ぬことだった。今は、生き続け、日本がこの問題をどうするか、自分の目で見続けようと思う」という言葉を残した。
 二十年後の今、もう一度金学順さんの言葉と、多くの被害女性の言葉をかみしめ、歴史の事実と女性たちのたたかいをしっかりと引き継いで行くことを誓わなくてはならない。


 ●1 天皇主義者・差別排外主義者との攻防

 金学順さんをはじめ、韓国挺対協のもとに名乗りをあげた被害者は二百人以上、フィリピン、台湾、中国、オランダ、インドネシアなどの被害女性も名乗りをあげた。敗戦地から日本に連れてこられて棄てられた在日の宋神道さんもたちあがった。賠償請求、謝罪請求の裁判が提訴された。
 「従軍慰安婦」(この呼称は、千田夏光氏が著書の題名につけたもの)の存在そのものは一部の人に認識されていたが、被害者が告発糾弾に立ちあがったことで、各国の女性が現在の課題として共に立ち上がることになった。調査や研究も進み、日本帝国主義軍隊が組織した軍隊性奴隷制度であることが明らかになった。被害女性のたたかいに韓国政府も動き、ついに日本政府は「河野談話」(一九九三年)を出すことになったのだが、帝国主義右翼勢力が一斉に反発し、今に至る排外主義運動の側からの攻撃の対象の大きなひとつとなっている。日本軍隊性奴隷制度とのたたかいは、彼らの「慰安婦は売春婦だ」「金めあて」というセカンドレイプ攻撃、暴力的脅迫とのたたかいでもあったし、現在もそうであることをしっかり自覚しておかなくてはならない。
 被害者が要求し、「河野談話」でも触れている「事実の歴史教育をすること」に沿って、少しではあるが教科書に「従軍慰安婦」が記載された一九九六年、右翼勢力は「新しい歴史教科書をつくる会」を旗揚げし、「自虐史観」として被害事実の抹殺を図った。この年、国連でもクワラスワミ報告が出され、日本政府に勧告が行われるなど、彼らとの攻防はより大きくなった。
 二〇〇〇年の「女性国際戦犯法廷」の開催は丸三年かけて準備された。このたたかいにも連日暴力脅迫が行われた。会場に押し掛け、マイクでがなりたてる。デモに張り付き、しつこく罵声を浴びせるなどが行われた。「売春婦」「売国奴」「朝鮮人は死ね」など、聞くに堪えない言葉が繰り返された。間近まで来て、同じ罵声を何回もくりかえす、まさに暴力である。法廷を準備し名前の出ている松井やより氏(ジャーナリスト・故人)などは、宣伝カーで名指しで「売女(バイタ)」と叫ばれ、インターネットでは彼らによる性的侮辱「ババア、レイプしてやる」等の書き込みが行われた。たたかう女性に対する、性的脅迫そのものである。
 そして、法廷が昭和天皇を「人道に対する罪」で有罪にして終了した翌月、NHKのドキュメンタリー番組が、安倍普三、中川昭一自民党議員の介入によって改ざんされ、それを応援する右翼がNHKに押し掛けたのである。
 二〇〇三〜六年には、最高裁までたたかわれた裁判がことごとく「敗訴」という形で終了した。いくつかの判決では「被害事実の認定」が行われ、「救済されるべき」などの「付言」が付くこともあった。性奴隷制度であったことを認めつつも、「国家無答責」(当時の法では国の行為は、賠償の対象にならない)だからというのが「敗訴」の理由とされている。
 粘り強くたたかいは続けられ、二〇〇七年には米下院での「日本政府への四つの要求」が決議されたが、この動きに対して、当時の安倍首相は「日本軍は管理していない」「家に押し入って人さらいのように連れて行く強制はなかった」「決議されても謝罪しない」「慰安婦は性奴隷などではなく、自発的に性サービスを提供した売春婦に過ぎず虐待の事実もない」などと発言。
 この時、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」に次いで、民主党でも「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」が結成されている。そして在特会も同年に結成されたのである。
 まさに、日本軍隊性奴隷制度を告発糾弾するたたかいは、排外主義天皇主義者権力の差別攻撃とのたたかいであった。彼らは、事実を歪曲し無かったことにするための大々的なキャンペーンを続けている。被害女性の告発を、たたかいを抹殺しようとしている。
 今、教科書の記述に「慰安婦」問題はない。被害女性たちの要求が押しつぶされてしまった。われわれの力不足である。日本の女性解放運動の力不足である。
 高齢の被害女性が亡くなりつつある今、歴史の事実をしっかりと伝え、たたかいの中に刻印し続けることを誓わなくてはならない。排外主義の抹殺攻撃を打ち破り、女性たちのたたかいを継承しよう。


 ●2 日本軍性奴隷制度の実態とは

 日本軍隊性奴隷制度の歴史的事実は、被害女性たちの告発内容にある。われわれは、彼女たちの声を聞くことから始めなくてはならない。右翼排外主義者や日帝権力は、「強制連行の証拠が無い」と宣伝する。どの帝国主義軍隊が、虐殺や暴行、拉致収奪を記録するだろうか? そのような「証拠」を保管するだろうか? 日本軍は、敗退時に書類など全てを焼き払い、証拠隠滅をはかったのではないか。こういうのを盗っ人たけだけしいというのだ。
 それでもたくさんの「証拠」は出てきているし、元軍人の加害者の証言もあるが、何よりも、被害女性たちの証言、戦後五十年の生活とたたかいに寄り添うことが重要である。被害者の側に事実と真実がある。差別排外主義者たちは、被害女性を名指しで「うそつき売春婦」とキャンペーンを繰り返している。デマを重ねて事実にしてしまおうというのだ。
 だからこそ、われわれは、被害者の声に耳を傾け、伝えていかなくてはならない。最初の金学順さんの証言から二十年もたった。絶対に風化させてはならない。名乗りをあげた被害者ひとりひとりの声を、くりかえし思い起こし、歴史に刻んで行かなくてはならない。
 事実はこうだ。
 天皇主義軍隊日本軍が、組織的に性奴隷制度を作り運営していた。最初は日本人女性を、次いで、植民地下の朝鮮人女性を強制連行した。また、中国人女性など占領地で、現地女性を拉致して性奴隷にした。彼女たちを暴力支配下に置き、すべての自由を奪い、集団強姦を日常のこととして行った。連続して何十人もに強姦され続ける、あるいは、戦闘前線まで連れまわされ強姦された。
 暴力支配は、見せしめのための殺人にまで及び、反抗は完全に封じられた。彼女たちは物資として扱われ、健康は考慮されず病気になれば放置、使い捨てにされた。反抗の見せしめに、目の前で同僚が拷問され、殺されるのを経験した人も多い。多くの被害者は、暴行による傷や強姦による傷害を受け、後遺症に悩まされつづけてきた。
 また「慰安所」とは別に、日本軍は占領地の女性を拉致監禁して、あるいは反植民地闘争の女性活動家や活動家の家族女性を連行して、集団強姦を組織した。
 日本軍は撤退時、女性たちを放置した。敗走する時は殺すこともあった。放置された女性は、生き延びて自力で故郷に帰ることができた人もいるが、帰ることができずにその土地などに留まって、戦後の長い間、家族からは生死不明となった人も多い。
 被害女性の数は、推定で計算して二十万人ともいわれている。
 第二に、この問題が長い間隠され闇に葬られ、被害は回復されず続いてきたという、重大な事実を確認しなければならない。
 戦争の被害は、たくさん証言され記録され、賠償の課題となってきたが、性奴隷制度は隠されてきた。故国に戻れた被害女性が、その被害の深刻さにもかかわらず訴えることができなかったのは、女性差別社会の圧倒的な圧力が存在しているからであった。精神的肉体的な被害の傷痕、その原因を明らかにすることもかなわず、苦しみながらひっそりと孤独の内に生きてきた人も多い。
 結婚できなかった、子どもができなかった、家族を持つことができても隠し通し、秘密におびえて暮した、などなど。女性たちは何も悪くない一方的な被害者であるにもかかわらず、抑圧され続けた。性暴力の被害が、被害者を「汚れたもの」として社会から排除した。社会で生活するには隠し続けなければならなかったのである。戦地からようやくの思いで故国の港に着いたが、故郷や家族の現実を思って、入水自殺した被害者もいる。故国へ帰ることを断念した人もいる。
 沖縄に置き去りにされたぺ・ポンギさんや、言葉も分からぬ日本に棄てられた宋神道さん、中国に置き去りにされた女性たちは生きるために過酷な生活を強いられ、その上に地域社会から差別されて生きてきた。人間関係そのものがたたかいであって、安心した生活を送ることもできなかった。
 第三に、日本では戦後、「公然の秘密」でありながら、反戦運動の内容として取り組まれることはなかったという事実である。男性中心の反戦運動はもとより、母親運動から始まった戦後の女性平和運動も問題にすることができなかった。戦後の米英軍向けの「特殊慰安施設」の提供や、続く基地「売春」街問題を「汚れた女たち」の問題として看過してきたことに通じている。
 公娼制度が廃止され、男女平等は言われても、「性」差別はタブーで、女性は伝統的な「貞節」を強制されていた。接客業の女性や「売春婦」は「転落女性」と呼ばれ、「身持ちの悪さ」や「だらしのなさ」等として本人に責任があるかのように責められる存在であった。その客となることは責められず、男性の武勇伝の一つとして奨励さえされたのである。「従軍慰安婦」もそのような存在として、問題にされることはなかった。性差別は「公然の秘密」であり、その被害は存在しないことになっていた。
 大量に連行された日本人「慰安婦」の存在は抹殺されてきた。ただ一人、告発した城田さんの存在と記録(一九七一年)、城田さんの願いを受けて教会が建てた「慰霊碑」が唯一の例証だ。城田さんの存在と証言も、長い間一部の人たちの認識に留まり、金学順さんたちの告発があってようやく、多くの人に知られるようになった。
 さまざまな記録や証言に日本人女性の記録が出てくる。しかし、この後も名乗り出た人はいない。名乗り被害の告発をすることは、日本社会の中では全てを失い、生きてゆけなくなるからだ。
 特に、初期に連行された日本人は、接客業に従事していた人や「売春」経験者が多いといわれている。強制連行でなく、募集に応じた人も多い。それ故に女性たちは、性奴隷としての被害も「もともと汚れた女」だからしかたない、稼いだはずだからよいだろうという差別圧力が蔓延していることを知っている。差別排外主義者は、「大和撫子は強姦されても黙っている」(小林よしのり)、「一年半『慰安婦』で稼いで芸者時代の前借金を返しても一万残った。兵隊の給料より多い」などと、日本人女性被害者に圧力をかけている。
 名乗り出ることはできない日本社会の現実がある。
 自ら応募した人にしろ、「看護婦」などとだまされて行った人にしろ、日本人女性が数としては一番多いという説もある。いずれにしろ多勢の日本女性が、行くときには想像すらできない性奴隷にされたのである。城田さんは、各地の「慰安所」を連れまわされ、そのくらしを「女にとって地獄だった」と言っている。
 日本軍隊性奴隷制度や戦時の性暴力を無かったこととしてきた反戦反基地闘争であった。
 第四に、日本軍隊性奴隷制度が民族差別によって運営された事実である。安倍は「家の中に踏み込んでの連行でない」と強制連行を否定しているが、家の中に踏み込むこともあったし、路上で拉致された人もいる。働き口の誘いに騙され応じた人もいる。植民地下の朝鮮で、男性も「人狩り」と言うべき強制連行が行われた。性奴隷にするために朝鮮女性を物のように「調達」したのだ。「同じ皇国の臣民」として戦争総動員体制に組み込むが、その実態は暴力と強制連行であり、人間として扱われなかった。
 戦地の「慰安所」でも、朝鮮女性は日本名の源氏名をつけられていたが「朝鮮ピー」と蔑まれた。日本人女性は将校用とされ別待遇で、言葉もわからない朝鮮女性・中国女性は大量の一般兵士の文字通りの「性の道具」として、相手をさせられたのである。
 これらの歴史的事実については、一九七三年にようやくノンフィクション作家の千田夏光によって「従軍慰安婦」がかかれ、その存在が公にされたのである。そして、ウーマンリブ運動を経て結成された「侵略=差別とたたかうアジア婦人会議」(一九七〇年結成)のスローガンに、「再び従軍慰安婦をつくらない」が掲げられた。
 しかし、問題は提起されたが、具体的な被害者の復権運動は、韓国の八〇年代後半の女性運動の高揚を待たなければならなかった。挺身隊問題対策協議会が取り組み、被害女性が立ち上がることによって、真相が明らかになり、たたかいが始まったのである。


 ●3 究極の性差別、性奴隷制度

 日本軍隊性奴隷制度とのたたかいは、女性解放闘争を大きく前進させるたたかいとなった。
 「性」差別問題、女性同士の分断と団結の問題、被害者と支援者の関係、侵略と差別問題、帝国主義国の女性とアジア女性の共同闘争、在「日」女性との連帯などなど、どれひとつもあいまいにできない問題として提示されたのである。
 「性」差別問題はについて、いくつかの重要な論議がされた。
 今、性暴力という言葉は普遍的になっているが、この言葉もこのたたかいの中で使われ始めた言葉だ。
 女性に対する性暴力は、これまで隠されあいまいにされてきた。「女性への暴行」という言葉であいまいにしてきた。法律上では「強姦」や「強制わいせつ」しかなく、その法律の意味は極めて狭く陳腐なものだ。よく批判されるように、「座布団一枚あれば」強姦ではないとされ、女性の被害はしりぞけられた。そこには、女性はそれを望んでいるという、都合のよい社会的妄想がある。法律的には殺されるまで抵抗しないと強姦罪は成立しない。
 たたかいの中で、性暴力という言葉は、この狭義の「強姦」ではなく、望まない性行為を強要すること全体を表す言葉として使われ始めた。女性の肉体と精神に大打撃を与える人格を押しつぶす行為として、性暴力がある。望まない性行為全部が、暴力であって、絶対に許されないことなのである。 
 日本軍は過酷な性奴隷制度の実態を「慰安」だとした。女性の全人格を否定して、性の道具・物と同様に扱い、使い捨てにし殺した。そういうことが、大規模に行われ、大量の男性兵士が「慰安所」に通った。男性は、それを自慢し、笑い話にさえした。性暴力と「慰安」、加害者と被害者に天地ほどのズレがある。女性を殺すに至る差別がある。
 それは、「男性の性欲望は、充足されなければならない」という、出発点からある構造的問題なのである。そもそも「慰安所」を作った理由は、「強姦が住民感情を悪化させて、政治的にまずい」からであった。強姦そのものは是なのである。逆に、宣撫地域でなく敵対地域では政治的に強姦を奨励することさえあった。だから、住民でない女性を手間もかけずに強姦する制度を組織的に作ったのである。
 この「男性の性欲望は〜」は、全ての買春制度や性産業、性の商品化の基礎にある。この強固な「信念」は日常の家庭や職場でもふりまかれ、「好きだからいいだろう」という一方通行で、性暴力が行われる。性暴力を行使する側は、この一方通行に何の疑念もない。せいぜい「政治的にまずいかどうか」の判断しかない。
 日帝権力は、「戦前は公娼制度があって女性たちは公娼だったから問題ない」あるいは、軍票を受け取ったのだから「対価を得た性サービスだ」という。彼らは、対等な取りひきと言い張りたいだけで、誰にでもわかる権力関係、差別関係を忘れたふりをしている。
 公娼制度こそ、官許の性暴力装置であり、軍隊性奴隷制度と変わらない。全ての買春制度は、「男性の性欲望は〜」という信念にのっとり、女性差別を利用し女性(や子供、少年も)を「性奴隷」市場に追い立てて成立している。そこで支払われるのは決して「対価」などではない。多かれ少なかれ性暴力構造の中にあり、女性に完全な「売春の自由」など無い。
 安倍をはじめ、「対価なサービス」を言い訳にすることは、「私は買春大好き、公娼制度バンザイ」と言っていることなのだ。公然と公娼制度復活を掲げる国会議員もいるのだから垣根は低い。彼らの頭の中には、公娼制度―日本軍性奴隷制度―アジア買春ツアー―タイ・フィリピンパブでの買春と、現在も「あたりまえのこと」として続いている。被害者の告発糾弾を認めることは、彼らの過去と現在を否定するあってはならないことなのだ。まさに「男のコケン」にかかわるとばかりに大きく反応したのだ。
 日本軍隊性奴隷制度は、これ以上ないほど悲惨な事態であったが、「過去の特別異常なこと」ではない。今も、監禁レイプを題材にした性暴力を煽るポルノフィルムが量産されている。性奴隷制度は今でも一部の男性の幻想であり、それを拡大再生産して商売にしている者もいる。性暴力は、全ての女性の身近に存在している。性暴力からだれも自由ではないのであり、性奴隷制度とのたたかいは自分のたたかいである。
 その上で、少女だったらより悲惨なのかも論議となった。支援運動の初期のころ「無垢な少女を強制連行して〜」という論調がくりかえし使われ、論議となった。「無垢」を強調することは女性に「処女性」を強要することにならないのか、「売春」女性への性暴力を容認するのか、「売春」女性を排除差別するのかという論議が行われた。
 七〇年代に、「売春」は女性の側の問題のように表されるから、男性の側の問題として「買春」と表すことが論議され、今や社会的な言葉として、「買春」問題となっている。
 しかし、被害のひどさを「無垢な少女」という言葉で何気なく強調することの中に、女性が男性的視線で女性を見る、女性を分断する偏見が未だ克服されていないことが現れた。性暴力は、女性がどういう状態であれ、その被害の多寡にかかわらず、徹頭徹尾加害者の犯罪として弾劾されなければならないことが運動の中で再確認された。
 この地平は、沖縄や岩国での性暴力事件で、「女性の落ち度」「遊び人だから、被害に会う」などのセカンドレイプから女性を守るたたかいとして受け継がれている。


 ●4 軍隊・基地と性暴力を告発する闘い

 軍隊による性暴力、戦争と性暴力は、隠されてきたこともあって、たくさんある戦争被害のひとつとして、過小に評価されていた。しかし、日本軍隊性奴隷制度は違う。軍が国家が組織だって女性を性奴隷にしたのである。この軍隊と性暴力は、女性差別の究極な姿といえる。
 男性ばかりの閉じられた戦闘集団としての生活、戦闘の強制が女性への性暴力の大きな誘因となっていることは、歴史的な世界的な事実だ。実際に戦闘がはじまると、性暴力は多発する。軍事基地の近くには歓楽街が必ずでき、軍隊に都合のよいように業者が女性を連れ歩く。戦地に女性が居たのは日本軍だけではないし、占領地での性暴力はどの軍隊でもあった。しかし、これらはその時々問題にされることはあっても、バラバラなエピソードとして語られてきた。特に、占領する軍隊側の社会では軍隊の性暴力は「しかたないこと」という他人事で容認されてきた。軍隊のために女性を提供することは「必要悪」として容認されてきた。
 日本軍隊性奴隷制度とのたたかいは、その大規模な軍による組織化、過酷な奴隷支配、強制連行と殺人的暴力をあばき、軍隊と性暴力の構造的な事実をあかるみに出した。このたたかいによって、そのほかの軍隊による戦場での性暴力や軍事基地周辺の性暴力、戦闘行為としての集団強姦などが、同じひとつの問題であることがあきらかになった。
 同時期、ボスニアでおきた集団強姦や、当時のカンボジアでの国連派遣軍による強姦の多発、PKO駐留軍と歓楽街の成立などが問題となった。
 韓国では米軍基地周辺の基地村女性の被害に対して、真相究明と女性への支援が取り組まれた。また、朝鮮戦争時の米軍による性暴力の実態が調査され、とりくみが始まった。
 そして、このたたかいの只中の九五年、沖縄で少女強姦事件がおこった。抗議集会には九万人の沖縄の人たちが参加した。「戦後五十年、基地被害にさらされ反基地闘争を続けてきたが、また少女を守ることができなかった」という沖縄の人々の怒りと苦悩も、基地と性暴力の現実を重ねてあきらかにした。
 沖縄での米軍犯罪、特に女性への性暴力は膨大にあるも、あきらかにされたものはほんの一部でしかない。占領下では告発しても無視された。「日米地位協定」でも、犯人の引き渡しは条件がつけられ、米軍に日本の司法権は及ばない。
 米兵相手の歓楽街での性暴力は日常的に行われている。戦闘開始時に戦地に乗り込む海兵隊は、暴力が任務のほとんどを占める部隊として訓練されている。彼らは、危険と恐怖にさらされてもいる。朝鮮戦争時やベトナム戦争時には、「荒れる米兵」によって、暴力事件や犯罪が多発した。海兵隊が歓楽街の一番の客であり、買春客であることはさまざまな統計(次が陸軍、それからずっと下がって海軍と空軍)でもあきらかである。性暴力犯罪を起こすのも海兵隊が多い。米軍はその対策として「復帰」まで、飲食店に「Aサイン」認定し、兵士の衛生的な「遊び」のため制度を整えた。日本軍性奴隷制度と発想は同じだ。
 「復帰」後も沖縄は米軍基地と米兵に占領されている。性暴力に日常的にさらされているのだ。
 沖縄の人々は、少女「暴行」事件として報道されることが、基地の性暴力をあいまいにしてしまうとして、あえて「少女強姦事件」として告発した。九万人の怒りは、性暴力の拠点米軍基地撤去として燃えあがった。米軍は謝罪し綱紀粛正を誓ったが、翌年また強姦事件が発生する。何度も何度も事件が起き、その都度、謝罪と対策が約束されるが、また性暴力が起きる。世界の米軍基地での兵士の性暴力は一年で二千六百八十八件あり、その六割がレイプである(米国防総省発表・二〇〇六年)。兵士の基地内での禁足も行われたが、すぐに解除された。本気で対策などしないのだ。日米安保がある限り、謝れば済むと思っている。日米安保の実態は、日本は未だ占領国扱いでアジア蔑視・沖縄蔑視が兵士のあいだにまかり通っている。米帝の傲慢な世界支配イデオロギーが、フィリピンや韓国の米軍基地で女性を性暴力に晒している。
 「軍事基地と性暴力」の視点は米軍再編に反対するたたかいにも受け継がれた。岩国や神奈川をはじめとする「本土」の米軍基地での性暴力を明らかにしてゆく取り組みが、女性たちによって行われてきた。韓国でも引き続き、基地村での被害の取り組みが行われている。
 岩国基地の再編強化に反対するたたかいの最中、二〇〇七年十月広島で岩国基地所属の米兵による集団暴行事件がおこった。この広島事件に対して当時の広島県知事は「未成年が夜中にうろうろするのもどうかと思うが」と発言した。このセカンドレイプ発言に対して、被害を受けてきた地元岩国で反基地闘争をたたかっている人たちは、「基地と米兵の存在が悪いのであって、女性たちが悪いのではない」と、市長を批判した。
 この広島事件を忘れない取り組みは、広島や各地でも続けられている。
 女性は軍隊と性暴力を許さない。反戦反基地闘争の重大な中身として、性暴力とのたたかいをきっちり孕んでいく地平がつくられた。どんな名目の戦争であれ、性暴力が行われることを許さない。


 ●5 「国民基金」の破産と闘いの地平

 被害女性の告発と支援運動の広まり、国際的な非難に対して日本政府は、九五年「国民基金」という欺瞞に満ちた「補償」方針に着手した。その理由は「賠償問題は解決済みだから、国としてはできない。国民の基金を集めて『償い金』をわたす」というものであった。事業計画には、これ以外にアジア各地に女性能力開発センター・自立センターをつくるなどの宣撫政策も含まれていた。
 被害者の要求は公式謝罪と賠償、責任者処罰、歴史教科書への記載という大きく四点であった。
 その為に、さまざまなたたかいが取り組まれ、アジアの女性の共同行動としてたたかわれた。「国民基金」はこの要求を「金」に切りちぢめて解決しようとするものであった。しかも、悪質なのは、国の犯罪であるにもかかわらず、国民の同情を組織して金をつくるということであった。国家の替わりを国民に押し付けるものであった。被害女性の多くは、すでに高齢で、ほとんどの人が貧しい生活をしてきている。当時、被害事実を知った日本人はおどろき、同情し、また女性たちは怒り、なんとか出来ないかと思っていた。被害者が来日証言する集会には、多くの女性が集まった。「国民基金」はこの同情や怒りを瞞着し、たたかいの沈静化を図ったのである。
 いくばくかの金を出して自分の気持ちを納得させ、この過去の問題を自分の中で清算すること、このことを組織したのだ。被害者と関係のないところで、日本と日本人がすっきりとするものでしかない。
 この「国民基金」に対して、被害者と支援運動の中でも論議が行われた。何らかの形でたたかいの進展と成果を見せたい、高齢で亡くなる被害者に間に合わせたいという支援者の声もあった。しかし、当事者である女性たち声と要求に立ち返ってたたかうこと、「基金」は被害者にとっての解決ではないことが、論議の結論であった。
 当初の支援者であった著名人や弁護士の中には、「解決しないまま、時間が過ぎて亡くなってもよいのか」「原則を押しつけて、貧しいお年寄りの生活を放っておくのか」などの主張で基金推進派になり、国民基金の理事に就任した者もでた。日本では支援者はふたつにわかれたが、推進派は少数であった。基金の側は、札束を持って渡航し、直接被害者を訪ねて金を渡すなども行った。
 しかし、多くの当事者が受け取りを拒否し、また、受け取った人もたたかいを止めず、国民基金は失敗に終わった。しかし、この国民基金を巡る論議で問われた「被害者にとっての解決」は、後に、運動の中ではっきりしてくる重要な内容であった。
 それは、被害からの回復なのである。同情や金を得ることでなく、たたかいの中でこそかちとられるたくさんのことの中で、被害によって傷つけられた自己の尊厳を取り返すことなのである。
 二〇〇〇年の「女性国際戦犯法廷」によって、天皇裕仁に有罪判決が出るも、実際の裁判は二〇〇三年から六年にかけて全て敗訴となった。でも、それはたたかいが負けたことにはならない。
 宋神道さんの名言「俺のこころは負けてねえ」をかみしめよう。宋さんは、判決に打ちのめされた支援者に対して「安心しろ、俺の心は負けてねえから」と慰めたという。
 宋さんは、仙台の田舎でまわりの無理解にいら立ち、そのことが疑心暗鬼になり、孤立して生きてきた。名乗り出たときは、地域で「金が欲しいんだ」と中傷されたこともあった。宋さんは十数年のたたかいで、地域で一目置かれるようになったという。周りが変わり、宋さん自身も変わって、地域の人との交際も進み、安心して暮らせる生活環境ができてきたという。
 ねばり強い支援者の存在、たくさんの出会い、同じ被害者との結合、故国との再会などなど、さまざまな新しい経験を重ねたと思う。運動の行き先を考え、支援者を試し、悩み迷い、論議に参加し政治的経験を重ねた。宋さんは、裁判することを決断し、いろいろな局面があっても闘い続けた。こうしたたたかいによって、宋さんは「負けてねえ」存在になったのではないだろうか。
 宋さんを始め、被害女性たちの自己解放闘争が「国民基金」をその大国的同情融和主義もろとも最終的な破産においこんだのである。
 われわれは、この先輩女性たちの自己解放のたたかいに、女性解放の展望と確信を見ることができた。
 日本軍隊性奴隷制度とのたたかいの地平を、繰り返し伝えよう。たたかいを継承しよう。女性差別と徹底的にたたかうことは、戦争をなくし、女性に貧困と格差を押し付ける社会を変える道だ。反戦反基地闘争の現場で、労働運動や地域運動の現場の中でたたかいを継承しよう。

 

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