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   「同一価値労働同一賃金」検討

     非正規雇用労働者・低賃金労働者の組織化のために

                           遠井怜子




 ●1 はじめに

 いま日本の労働運動・労働者階級の闘いは、大きな転換期にあるといっていい。
 戦後体制(五五年体制)における中心的な労資関係であった終身雇用・年功賃金≠、経営―資本家が投げ捨てることを公然化した新時代の日本的経営(一九九五)≠ゥら十六年、非正規雇用という有期の使い捨て労働力が、すでに労働者の三人に一人以上を占めることになった。この事態は、慢性的な失業・半失業者群の存在、正社員への長時間労働圧力、労働者の賃金水準低化(労働者の半数以上が年収二百五十万円以下)などを伴って進んでおり、若年層の結婚・出産の困難(少子化)や十三年連続の三万人を超える自殺者の背景ともなっている。
 このような事態は、二十一世紀を前後する地球規模での資本主義市場の拡大、資本間競争の激化につれ、資本の運営コスト削減のための規制緩和の一環として進んできた。自動車・家電をはじめ様々な消費財が国際的規模で生産される一方、職に就くための労働者間競争は底辺への競争≠ニ言われるように、各国に膨大な失業・半失業者群を生み出しながら、世界的規模で激しさを増し、労働者の賃金・労働条件を悪化させている。日本ではフリーター漂流≠笏h遣切りが社会問題となり、同じように中国では蟻族≠ェ社会問題化し、アラブ諸国でも「パンと自由」を求める若者たちによって一連の民主化の嵐≠ェ吹き荒れた。このような同時代的な問題に、私たちはぶつかっている。
 日本では、「コスト削減」という名のもとに進んできた雇用・労働条件の破壊に対し、左派労働運動、先進的労働者によって、労働運動再生の様々な試みが繰り広げられてきた。このような中で、二〇〇〇年を前後して、初めは女性労働者を中心に、そして青年層に広がる非正規雇用労働の中から若年労働者によって、差別賃金・待遇の是正を求めて均等待遇要求が掲げられてきた。均等待遇二〇〇〇年キャンペーンなどとして、社会的姿をあらわした均等待遇要求運動において、先進的労働者が掲げたのが「同一価値労働同一賃金」であった。そのモノサシとして「職務分析・職務評価」が導入されるに従い、これは新しい賃金闘争となるか否かをめぐって、様々な意見が登場してきている。また「同一価値労働同一賃金」の言う「価値」をめぐって、様々な見解が出されてきた。挙句の果て は、二〇〇八年以来、日本経団連が、最初はおずおずと、そして最近は大声で、「同一価値労働同一賃金」を取り入れることを主張し始めた。国際労働運動からすれば、経営者団体が、その本来の意味を歪曲して賃金闘争の考え方を主張するなど、ありえないことである。何故そのようなことが起こるのかと言えば、賃金闘争とは、その社会のありよう、労資関係の歴史を反映するものだからである。日本労働運動の歴史的経緯とその転換期を背景に、日本経団連の主張や、労働側の種々の意見は生み出されている。階級的労働運動の再生を、一歩でも進めるために、本稿では、この整理を行ってみたい。
 先述したように、日本社会・日本帝国主義は、一九八〇年代から現在を過渡に、戦後の日本社会のあり方から大きく転換を遂げつつある。戦後復興とアメリカ帝国主義の兵站拠点として経済成長(生産資本拡大)してきた時期から、世界市場において欧米や新興資本主義国の独占資本・多国籍資本との、しのぎを削る国際資本間抗争へと足を踏み入れ、それに見合う政治・経済・社会体制を整えつつある。
 この二十年ほどが明らかにしてきたように、その道は、日米安保同盟の強化、米軍再編を通した戦争遂行体制づくり、国内における労働コストの削減(低賃金化と使い捨て)、企業優遇政策と他方で増税・福祉切捨て、世界市場制覇のための国内産業・流通の海外侵出(国内産業の空洞化と失業者拡大)などである。巨大化し多国籍化した独占資本・金融資本による新自由主義とグローバリゼーションと呼ばれる攻撃は、私たち労働者の雇用・生活を経済的に圧迫するだけでなく、今年三月十一日、東日本大震災時に起こった原発事故のような人間の生存環境の破壊に対してさえも、自産業の利益のために、原発推進策は変えないと公言するような反人類的な性格を持つ。しかしながら、戦後階級闘争の中で形づくられた労働運動は、このような攻撃に対し、労働者を階級的に団結させ、独占企業の横暴を押しとどめる力を弱体化させている。私たちは、どうこれを克服し、労働者の階級的団結を再生し、その社会的力を獲得していくのか。問題の整理は、そのような観点から行っていきたい。


 ●2 賃金闘争とは何か?

 賃金闘争とは、人間の体の中に宿る「労働力」という商品≠フ売買をめぐる、資本家に対する労働者の集団的闘争である。
 賃金労働者は、近代以降、資本主義に不可欠の労働形態を担う主要生産主体として登場してきた。封建時代には、主要な生産主体は農民であり、主要な生産手段は土地であった。商工業は、じょじょに発達し、都市が形成され都市間の交通もあったが、封建領主(日本では各藩)による領土支配の枠から出るものではなかった。だから資本主義は、封建領主の領土・農奴支配権を奪い取る革命を伴って登場した。資本家は自由、平等、博愛≠掲げ、農民や労働者を味方に引き入れたが、資本家は、封建領主から領土(農地)を奪っただけでなく、多数の農民を生産手段である農地から引き剥がした。
 そうして資本主義社会では、一方では、土地や工場や原材料などの生産手段が、一握りの資本家の所有となり、他方で、生産手段から切り離され、資本家に自分の労働力を売る以外に生きていくための生活費(賃金)を得られない賃金労働者という社会的な存在(階級)が広範に存在するようになった。
 本来、自然を変革して生計を得る労働は、集団労働や協業・分業を通して人類の様々な能力や社会性を培うものであったが、階級の発生とともに、多くの民衆にとって労働は、生産手段を握った支配者を富ませるための苦役という側面を持つようになった。農民は封建領主に年貢をあげるために働かせられ、そして現代の賃金労働者は、資本家に剰余価値(労働者に払った賃金以上の儲け)をあげるために働かされる。本来、社会は様々な要素を持って運営されており、その成員は何らかの意味でのその担い手であり、それは正当に評価され、平等に生きる権利があるが、資本主義社会では、労働者は資本家が儲けられる間だけしか生きることはできず、差別選別あるいは排除・遺棄・抹殺される。
 人類は、資本主義社会に至るまでの長い歴史の中で、互いの生産物の交換をおこなってきた。その長い歴史的経験を通し、生産物の交換に共通の平均的尺度は、それを生産するために使われる労働時間であることを知ってきた。そういうことからすれば資本家が買う労働力の値段(賃金)は、その生産費と再生産費、すなわち、労働者が暮らし、こどもを生み育てるための費用である。しかし、強欲な資本家は、儲けを多くするために、あれこれやの理屈をつけて、賃金を切り下げようとする。資本家は、利益を上げるため、労働者にカツカツにしか賃金を渡さなくて済むように、労働者を分断し総賃金の抑制をはかる。資本家間の競争が激しくなるにつれ、賃金切り下げは一層ひどくなる。労働者は、生きていくために立ち上がらざるを得なくなる。
 労働者の賃金は、売り手市場・買い手市場という表現が、雇用情勢で使われることに見られるように、労働市場において、買い手である資本家と、売り手である労働者の需給関係や売買交渉によって決定される。生産手段と財貨を持つ資本家は有利であり、圧倒的強者である。労働者が、売買交渉を有利にする鉄則は、団結して買い叩かれないことしかない。生活できる賃金を求める闘いを基礎にして、労働運動は成長し、現存の労資関係や社会制度を築いてきた。それは、その国の成り立ちや、労資の攻防の歴史によって異なっている。本文では、「同一価値労働同一賃金」を通して、その一例をみることになる。
 またキチンと理解しておかなければならないのは、賃金闘争は、それ自身によって、資本による賃労働の支配を変えるものではないことである。賃金闘争とは、賃労働と資本関係を前提とした、経営(資本家)と労働者の間の、労働力売買の取引契約をめぐる集団的交渉である。賃金闘争は有職者の運動という限界を持つものであり、その社会の文化・思想レベルを反映しながら行われる。本来は、この社会の中で平等な一員である労働者・女性・障害者たちなどあらゆる人々に、真に対等な生活を保障させるための闘いは、賃労働と資本の交換関係(売買交渉)の中ではなく、生産手段を私的に所有することで資本家が占有している社会的な富を、資本家から奪い返し、社会のものにすることによって実現する。過渡的には税の拠出と社会保障政策によって、真の一歩は社会主義革命によって……。そのためにも、賃金闘争における彼女ら・彼らの差別賃金・待遇に対する闘いへの連帯は、きわめて重要である。
 賃金闘争の役割は、当然、社会の平均的水準の生活を獲得するためのものであるが、資本との集団的交渉を通じて、自分たちは労働者という社会的存在の一員であり、社会的力を持っていることを知っていく、もっとも身近な闘いを生み出すことである。そして、資本家階級が、性別や国籍、能力や障害など、社会の支配的イデオロギーによって労働力の交換価値をランク付け、差別分断することと闘い、階級的連帯心を育むことである。


 ●3 同一価値労働同一賃金とは何か?

 階級闘争全体の中での、賃金闘争の限定的性格を踏まえた上で、本題に入っていこう。「同一価値労働同一賃金」は、欧米産別労働運動の「同一労働同一賃金」の原則の上に、発展してきたものである。日本においては、いくつかの例外を除いて産別労働運動を形成することはできず、企業内労組を前提とした賃金体系にあり続けてきた。この歴史的違いを抜きにした理解、あるいは社会的標準賃金率を守る労働者の団結の仕組み≠ニしての「産別」の無理解(というのは日本、あるいは韓国においても、産別労組は、同産業の企業別労組連合が一般的だからである)が、さまざまな混乱や誤謬を生み出している。
 「同一労働同一賃金」は、欧米先進国における労働運動が、資本家による厳しい弾圧をはねのけて団結と交渉力を強め、同産業労働者の賃金と働く条件の改善を実現する基礎として、長い歴史をかけて闘いとってきた団結の仕組みである。この長年にわたる闘いは、欧州各国で社会規範や法制度を築き上げ、ILO創立(一九四四)のフィラデルフィア宣言にうたわれるなど国際的労働基準へとおしあげられた。
 この「同一労働同一賃金」の内容とは、同じ質や量の仕事に対して、同じ賃金を支払う、という原則である。欧州諸国では、産業別や職業別労働運動による団体交渉の積み重ねによって勝ち取られた協約が、社会的拘束力をもって同じ職種の労働者に拡大する。それは、企業を超えて労働者個々人の実際の賃金をも規定する。すなわち、産業別の職種別熟練度別の横断的な賃率が、労資の集団的な攻防によって労働市場で確立するという仕組みである。これが意味することは、労働者の団結・闘いによって、資本(企業)間競争の外に労務コストを置き、労働者が資本間抗争に巻きこまれ、労賃(労働力の価値)の値崩れ・安売り競争に走ったりすることがないようにすること。すなわち社会横断的賃金率≠ノよって、資本に対する労働者の企業を越えた社会横断的団結を守る、ということである。このような仕組みでもって、社会的力を持った欧州の産別労働運動の一部は、さらに労資攻防の外に、労働者の生存権を置いた。すなわち労働者(労働力)の生産・再生産費の基礎部分のいくつか(住居・こども・教育・医療・介護など)を、国の社会政策として保障する社会福祉国家を築き上げてきた。(社会福祉国家は、歴史的には植民地の土台の上にある一国規模の帝国主義の城内平和とでも言うものであり、グローバリゼーションの進行の中で、いま大きく揺さぶられている)
 この「同一労働同一賃金」の発展として、「同一価値労働同一賃金」は登場してきた。前者(「同一……」)においては、同じ仕事・労働については、横断的賃金率が同じ賃金を保証している。しかし、異なる労働については、賃率は異なっている。そこで問題となったのは、工業化の進展や戦争動員の中で、拡大していった女性労働であった。同一労働においては、男女賃金格差はなかったが、男性家父長を柱とする「家族賃金イデオロギー」の影響は、欧米では、男性が多くを占める男性職には高い賃金、女性職には低い賃金、という形をとっていた(木本貴美子「家族・ジェンダー・企業社会」一九九五)。
 「同一価値労働同一賃金」は、この賃金差別是正の闘いの中で生み出された。「同一労働同一賃金」であれば、同じ労働であるため、その賃金が、「労働」の成果に対して支払われているのか、「労働力」の使用に対して支払われているのかは、問題にされない。資本・経営は、「労働」の役務を少し変えて、「異なる労働だし、成果が違うから低いのは当然だ」と主張する。労働者間の分断イデオロギー・差別イデオロギーを巧みに使った差別賃金に対し、裁判闘争や集団交渉などを通して、差別賃金是正の闘いが編み出されてきた。それが、職務のいくつかの要素を分析し、より低いとされている類似労働を行なうのに、どれだけの「労働力・労働能力、あるいは労働強度」(知識の習得や熟練度なども含め)が必要なのかを計り、より高いとされる労働力の使用と比較して、賃金の是正をはかる、というものであった。前述したように、資本家(経営者)は様々な基準や理屈を持ってきてランク付けするが、人間の体内に宿る労働力は、多少の疲弊度の違いなどはあっても、本質的には同等なのである。賃金差別・待遇を人権侵害とする女性労働者の憤りの中から、「同一価値労働同一賃金」は生み出された。
 この闘いが反映され、一九四六年には、国際労働機関憲章前文に「同一価値の労働に対する同一報酬の原則の承認」が明記され、一九五一年、「同一価値労働について、男女間での賃金格差を禁止(ILO第一〇〇号)」、一九五八年、「雇用および職業についての差別待遇に関する条約・ILO第一一一号条約」ができていった。
 欧米諸国では、これらの法整備が進み、有名なものにはイギリスの同一賃金法(equal value)、カナダのペイ・エクイティ法(pay equity)などがある。繰り返すが、これらは概括的に見て(詳細に見れば、どのような制度にも欠点はあり、本題とそれていくので今回は省く)、社会横断的標準賃金率をめぐる労資攻防の結果、生まれてきたものであり、労働運動(団結と闘い)の仕組みと無縁に論じることは危険であることを、日本の例では証明してくれる。


 ●4 同一価値労働同一賃金と日本労働運動

 ヨーロッパやカナダでは、その職務(仕事)のために用いられる労働力(技能・負荷など、労働強度とも言う)を比較数値化し、類似労働と比較して高いほうに向かって賃金を是正していく運動・賃金闘争として、「同一価値労働同一賃金」は生み出された。その前提には、企業を超えた社会横断的賃金率が、労働運動によって一定強制されている歴史と社会があることを見てきた。残念ながら日本には、全体的に見たとき、社会横断的賃率やそれを実現する労働運動の仕組みは存在しない(全日建連帯労組や全港湾など局所的にあるが)。日本社会における賃金闘争は、欧米とは異なる状況・文化の歴史の上に形成されてきた。
 日本の賃金体系は、「企業別・終身雇用・年功序列」賃金である。この原型は、戦前の「皇国賃金」、戦後の「電産型賃金」にある。これらは「生活給」と呼ばれている。この二つは、まったく正反対の立場から作られたものであるが、その基盤は、後発資本主義国(あるいは敗戦資本主義国)であった日本社会である。すなわち、低賃金、貧しい社会保障、封建的家族制などに根拠を持って、家族扶養賃金=iこれに伴う年齢給=jが形づくられた。ヨーロッパやアメリカには、このような年齢給(家族扶養賃金)≠主要な性格とする「生活給」というのは存在しない(「日本的経営」がもてはやされた時期、アメリカで一部導入が試みられた)。それは日本社会のありようから出てきた賃金体系である。
 日本の資本家は、戦後、戦禍と飢餓の中から立ち上がった労働運動に恐れをなし、上からは米占領軍と政府による大弾圧、そして現場からは、御用労組を育成して、左派労働運動を徹底してたたきつぶした。電力ストライキという実力闘争をもって、戦前には恩恵であった「生活給」を、生存権要求へと転換させ、「電産型賃金」(一九四六)を闘いとった電産協に対しては、資本・政府は、電力会社九分割攻撃と一体に、各社に反対派を形成し、全国組織であった電産協を解体した。電産型賃金の弱点(「能力給」部分)による経営査定の規制をめざし、一九五二年には、全日本自動車産業労働組合(全自)が「賃金原則」(「最低生活保障の原則」「同一労働同一賃金の原則」「統一の原則」)を練り上げ、日産分会を軸に闘争に入るが、これも翌五三年、意を決した経営による交渉拒否・各社での御用労組育成によって日産分会は孤立させられ、少数派に転落する。経営は、産別労働運動を決して許さず、企業・職場現場からの御用労組(企業内労資一体派)の育成と、生産性向上イデオロギーを推し進めた。
 この時期に、なんと経営側から、「同一(価値)労働同一賃金」が提案されている。それは当時、国際的な競争標準になっていたが、他の諸国ではありえないことだった。しかも経営は、その内容を換骨奪胎・歪曲し、飢餓賃金からの解放を求めて「家族賃金(生活給)」を要求する労働者の闘いを解体し、経営によって都合のいい賃金序列を作るために持ち出した。「(資本は)同一労働同一賃金は労働市場ではなく、企業内の問題として捉え、かつ、企業内の賃金体系の範囲で考えられ、職務給化と結びつけ」(労働運動総合研究所・金田豊)、そのことによって総賃金の引き下げ、考課査定による職場支配と労働者分断を狙っていた。戦後高揚期の余韻の中にあり、また低賃金からの脱却を求めていた当時の労働運動が、これを拒否し、「家族賃金(生活給)」の闘争体系と要求をくずさなかったのは当然であった。日本の労働運動においては、「同一(価値)労働同一賃金」は、正確な理解を根付かせる前に、企業内業務の静止的なランク付け、というイメージを残したといえる。
 資本の攻撃は多角的であった。一九五四年には、賃上げ闘争を抑えるために、すでに定着しつつあった「年功序列賃金」に添う形で、経営―資本家から、「秩序ある賃上げ」として定期昇給制度≠ェ持ち出された。これに重ね合わせ春闘方式が始まっていく。賃金闘争は、企業別大労組の横並び(スケジュール闘争)による圧力闘争となった。この時期は[高度経済成長]と呼ばれる日本企業の生産資本が拡大していった時期であり、名目的な賃金は上がり続けた。多くの労働者大衆にとって、闘わなくても賃金が上がると思わせるような仕組みができあがった。労働力の売買交渉をめぐる労働者の社会横断的な連帯と団結への道は断ち切られ、大企業と中小零細企業の二重構造、労働者の分断が深まっていく。
 そうして賃金体系・制度の構築の主導権は、資本家の側に移った。一九六〇年代に経営が導入したのが、職能資格制度である。資本家は、明治憲法下の官僚制度にルーツを持つ資格制度に着目し、これを取り入れた。「天皇によって任命される、官僚制度の身分的資格制度は、学歴区分による地位の上下関係を示し、その後の官営企業・財閥系民間大企業の資格制度に、大きな影響を与えた……」(小越洋之助「終身雇用と年功賃金の転換」より)。資本家たちは、これを企業内序列の構築のために、人の格付けとして活用した。
 そして六〇年代半ばには、資本家は、その資格制度の能力主義的再編成と運用を行い、職能資格制度を作り上げた。この職能資格制度は、企業経営上、必要な能力・期待する能力≠ランク付けし、賃金に反映させるシステムである。「職務遂行能力」とは、業務処理能力だけでなく、企業貢献度や企業適応能力の総計とされ、職務以外の性格≠竍意欲≠ネどの「属人」的なことが含まれている。この運用は、上司の行う人事考課によって査定される。上司の査定次第で賃金額が変わる、という恣意性の強い賃金決定であった。この賃金システムを使い、経営や労使協調派は、組合活動家や「職場不適応者」を排除することに成功していった。企業別賃金は企業の支払い能力§_に縛られやすかったが、職能資格制度による賃金決定システムは、さらに企業業績や労働生産性があがった結果≠ヨの報酬、また企業にとって役に立つ能力≠ヨの報酬として賃金が見え、ますます労働者の企業意識を強め、男女格差を含む労働者間格差、組合間差別の拡大に結果していった。
 戦後直後の一時期の混乱期を除いて、五〇年代半ばから七〇年代初頭は、生産資本の拡大の時期である。四〇年代は戦禍で荒廃していた日本経済は、五〇年代に入って単なる戦後復興を超えて、戦前の経済規模を超えた経済成長を遂げていった。六〇年代には、第二次産業労働者数が、第一次産業労働者の数を抜き、重工業化が進んでいっている。この過程は、絶え間ない技術革新であり、そのため企業は、これに順応する労働者確保や長期雇用を必要とした。こうして形作られたのが、「企業別・終身雇用・年功序列」賃金である。
 であるため、生産資本の拡大を基調とする時代が完全に終わり、日本企業がグローバル競争・激しい国際的な企業間競争の時代へと入っていくと、この賃金体系は一気に揺らぎ始めた。七〇年代後半からじょじょに始まり、今や日本企業は、高度化した生産技術をテコに、労務コストの削減を第一級の課題にして、世界的な規模での底辺への競争≠ヨと突き進んでいる。「日本的雇用」と言われてきた終身雇用と年功序列賃金≠フ打ちこわしが、経営・資本家によって始まり、労働者の過半が「雇用柔軟型グループ」という不安定雇用の流動労働力として据えられることになった。
 こうした資本の攻撃を規制し、押し返す労働者の団結の仕組みは、戦後の労働運動が、戦前の土台の上に選択した「生活給」という名の「家族賃金=年功賃金」によっては、形成できていないという現実を、どう見るのか。果たして、「生活給」によって、階級的労働運動の再生は可能なのか。では、「同一労働同一賃金」や「同一価値労働同一賃金」によって、階級的労働運動の再生の展望はあるのか。このような実践的課題を背景にして、様々な見解が出されている。


 ●5 同一価値労働同一賃金をめぐる諸見解

 現在進行形のこの議論は、多くの労働運動研究者・活動家から様々な見解が出されている。ここでは問題の所在を明らかにするための特徴的な意見の概要だけを扱う。
 まず日本経団連(以下、日経連)である。二〇一一年の経営労働政策委員会報告は、「労資一体となってグローバル競争に打ち勝つ」という資本間抗争への日本労働者の動員を大テーマとしている。自動車や情報機器を見ても、巨大独占企業は、しのぎを削る世界的規模の抗争に勝ち抜くか、没落するかの狭間に駆り立てられている。そのような日本資本にとって、総賃金を抑え込み、かつ労働者の団結・反抗を押さえ込むことが重要課題となっている。そこで日経連がうち出しているのが、「多様な働き方」という雇用流動化(非正規雇用化)政策と、その処遇・納得性としての「同一価値労働同一賃金」である。
 その内容を見てみよう。日経連は、「労働者間の処遇の均衡に努める必要がある」として、「企業に同一の付加価値を」中期的に「もたらすことが期待できる労働であれば同じ処遇を」と主張する。これは、従来から経営が主張してきた「同一生産性労働・同一賃金」を言い換えたものに過ぎない。日経連の言う「価値」は、今までの企業内賃金、職能資格制度、成果主義賃金の上に据えられた、資本に利益をもたらす「付加価値」である。
 日経連は、それを証明するかのように続けて言う。あくまでも「個別管理を志向することが重要」であり、「総額人件費の問題として考える視点が大前提」だから、必要に応じ、「正規労働者の処遇についても賃金決定方法、賃金カーブを含めた検討が求められる」と。その狙いは、年功序列賃金の社会的な撤廃をめざし、短期的なモノサシしか作れない「成果主義」の弱点を、全く異なる概念に歪曲した「同一価値労働同一賃金」で補強しようというものである。これは、差別賃金是正の闘いをくじかせる一石二鳥≠フ試みでもある。
 このような資本の動向の下で、「同一価値労働同一賃金」をめぐって、主要に労働運動研究者から以下のような見解が出されている。
 ひとつは、「同一価値労働同一賃金」や「職務給」の推進派ともいえる立場である。
 代表的には、カナダのペイ・エクイティ研究を行い、これを女性賃金差別裁判などに活用することで、女性労働運動内に「同一価値労働同一賃金」に基づく「職務評価」を広めてきた森ますみ氏、また、「新社会福祉国家」戦略に基づき、労働運動の再生のために、同様の観点を主張してきた木下武男氏である。
 日本の賃金体系は、「年功賃金、職能資格給などのように『仕事基準』でなく、『属人基準』である」と見、女性差別や非正規雇用への賃金差別は、そのことから生まれており、「年功賃金に代表される『属人的賃金』を廃棄し、欧米のような職務評価による賃金決定に変更させ」ない限り、差別賃金が解決することはない、という主張を行っている。
 森ますみ氏は、男女同一価値労働同一賃金の実現による男女賃金格差の解消を主要な課題においている。労働運動再生を訴える木下武男氏は、「生活給(家族給)」ではなく、「生活賃金(リビング・ウェイジ)」を基礎とし、世帯単位賃金から個人単位賃金、仕事基準による職務給などを、新しい賃金闘争として組み立てることを主張している。
 このような主張に対し、新自由主義に親和的ではないか≠ニ危惧を表明し、日本の賃金制度として形成された終身雇用と年功賃金の中立的な再構築を主張しているのが、岩佐卓也氏である。岩佐卓也氏は、「新自由主義批判の再構築(赤堀正成・岩佐卓也共著)」において、戦後の賃金制度は戦前のそれを民主化するものとして構築され、たとえば「年の功」と捉える年功制は男女の性に中立とできる、としている。そして、秋田相互銀行、山陽物産事件、鈴鹿市役所事件、芝信用金庫事件、日ソ図書事件、石崎本店事件、塩野義製薬事件、内山工業事件、京ガス事件、昭和シェル事件などの男女賃金差別裁判の事例を整理し、これらは「職能資格制度・職能給による差別」に対し、「女性にも男性同様の年功賃金カーブを求める係争事件であった。被差別女性は、仕事内容を要求の根拠にしているとはいえ、差別を是正する際に、年功賃金が、属人基準であることが障害になっているわけではない」(同書第四章)と反論している。
 そして、均等待遇は重要であるが、果たして「同一価値労働同一賃金」は、日本で実現できるのか、という論を立てているのが、小越洋之助氏である。小越氏は、森氏や木下氏と並んで、「同一価値労働同一賃金」と「職務給」推進の論客である遠藤公嗣氏を批判して、「職務給の導入は万能ではない。職務評価はあくまで企業内の仕事を序列づける技法であり、選択した評価要素、評価点の配分において主観的、政治的な判断的な側面がぬぐえない。さらに評価点もさることながら、そこに賃率をどう設定するかが、さらに重要な問題領域であり、過去においてもこの点において労使対抗関係があった」(労働運動総合研究所ディスカッションペーパー)と述べている。
 小越氏はまた「賃金水準なき賃金体系はありえない」(同上)と主張しているが、日本の戦後労働運動の歴史と照らし合わせたとき、まさに、その問題をめぐって、これらの論議はあるといえる。日本において社会横断的とは言いがたいが、あえて言えば標準的賃金率は、年功制の中にある。しかし、この年功制を規定付けてきた「生活給」と呼ばれる家族扶養を念頭に置いた賃金は、他方で、パート労働という「標準賃金外の家計補助賃金」を正当化した。最低賃金は、この「家計補助賃金」を念頭に作られており、最低賃金が今の八百円弱から例え千円前後になったとしても、一人で生きていける賃金とはならない。そしてパート労働は家計補助賃金というイデオロギーのため、最低賃金は、世帯主正社員男性と同等の賃金水準まで上がることは決してない。そして、これ以外にも、専門職派遣から始まり、使い勝手の良さから一般職にまで、賃金を低下させながら広がった派遣賃金相場がある。資本家は、この中から使い勝手のいいものを使い捨てているのである。
 労働力の売買にあたって、これほど制度的にも文化的・イデオロギー的にもバラバラに分断され、社会横断的な団結の道を断ち切られている中で、どこから、どのように、これを打開していくのか、として問題はたてられる。岩佐氏は、男女賃金差別事件は、「男性同様の年功カーブを求めた」としているが、京ガス裁判や兼松裁判は、職務評価を使って同種・同等の仕事であることを証明することで、やっと年功制の標準賃金を認められたとも言いうるのである。
 年功制賃金にしろ職務賃金にしろ、制度そのものが一般的に中立なものはない。小越氏は批判するが、誰が、どのような仕組みで決定するかという「主観的、政治的な判断」が介在するのは避けられない。すなわち、労働運動が、賃金決定の仕組みに関与できる仕組みなのかどうか、幹部請負ではなく大衆的な仕組みなのかどうか、などが、問題となる。「同一価値労働同一賃金」による「職務給」を採用している国では、社会的横断賃金率は、資本と労働、政府の三者交渉機関を持ち、不服者や労組には提訴機構が整えられている。
 このような労働運動、賃金闘争をめぐる議論の他方で、女性の家事労働・アンペイドワークの観点から、「同一価値労働同一賃金」への批判的評価を述べているのに、中馬祥子氏がいる。家事労働論争から始まる文脈から「同一価値労働同一賃金」を論じる中馬氏の主張は、本文で整理してきた労働力の売買をめぐる集団的闘争としての賃金闘争の文脈とは異なる角度からのものである。しかし、「同一価値労働同一賃金」の検討に、重要ないくつかの論点を提出している。(以下、『國學院経済学』第五十八巻・異種労働における「同一の価値」とは何か≠謔閨j
 一つは、中馬氏は、「異なる具体的有用性をもった労働貢献について、その担い手が男性であろうと女性であろうと、公平に認め合い、評価しうる経済社会を構築していこう、という発想」であると、そもそもの「同一価値労働同一賃金」の出発を規定している。この観点は共感できる。というのは、マルクス主義陣営の中には、生み出された運動性格を捨象し、ややもすれば「同一価値労働」という言葉にとらわれ、これを全否定する傾向がある。そのような産湯と一緒に赤子を流す≠謔、な議論には、大きな危惧を感じる。
 二つは、そして中馬氏は、その発展は、「機会均等論」と「既存の職務/職階分離のあり方を前提とし…既存の評価体系そのものの変革を求める」方向に別れ、「二つの方向がしばしば鋭い対立を見せてきた」としている。これは一九七〇〜八〇年代のアメリカのコンパラブルワースを題材とし、中馬氏は後者を「異種労働間の格差を容認するもの」と批判している。だが、二〇〇〇年以降の日本では、これら二つの傾向は混在しながら進んできたといえる。先述したように、むしろ日本型の「生活給(家族給)」が崩れていく中で、登場してきた均等待遇運動は、欧米の輸入品≠ゥら脱する試行錯誤の最中にあるといえる。今後の展開への教訓として読むのではなく、これは、「同一価値労働同一賃金」を求める日本の運動そのものを断罪してしまう危険性を持っている。読み方注意である。
 三つには、中馬氏は、「同一価値労働同一賃金」が職務評価法を用いることによって、「労働成果ならびに労働貢献に対する市場における評価、または貨幣タームで測られる労働生産性に基づく労働評価という、同一価値労働同一賃金論の多くが当初は否定していた考え方を、……結果的に呼び込む一面を持つことになった」と述べている。しかし、この職務評価を絶対値と見るか、差別是正の比較値と見るかで、性格は変わってくるのではないか。欧米では、このような側面が強くなっており、そのため「職務評価の作成は複雑であり、コンサルティング会社が作成した」と表されているのかもしれない。それならば、確かに「同一価値労働同一賃金」は、当初の生命力を失い、新しい賃金序列の一角を構成するだろう。日経連は、それを狙っている。しかし、同一価値労働同一賃金に基づく職務評価は、前述してきたように、労働者自身が自ら生み出す差別是正のための比較値の手法である。比較には複雑な職務表はいらない。日本においては、「職務評価屋」の手を借りなくても労働者が自分でできる様々な簡単職務評価≠ェ出回り始めており、これらは非正規雇用労働者やケアワーカーなどの低賃金労働者を主体として措定している。ここでは相変わらず、人間労働の基本的な同等性や平等性を根拠として、賃金差別を打ち破ろうとする運動が生きているし、また、そのような面を成長させることが必要なのではないか。
 四つに、中馬氏が、「同一価値労働同一賃金や「職務評価」を、差別や低賃金を是正する現実の運動の中で使われるモノサシ、いわば比較手法として捉えるのではなく、絶対的な評価値だと誤解しているのでないか、と思わせる表現が以下である。「管理や責任、技能に対して、疲労や環境の悪さの中に身を置くことに対する評価を低く認識する傾向があると指摘しうるかもしれない」と。負荷、労働環境、技能、責任の四つの要因(ファクター)をもって行う職務評価の中で、何を重要とするのかは、労働者の大衆的課題であり、それを実現するための社会横断的闘争が決定する。評価要因と点数配分を変えればいいのだ。
 多くのマルクス主義女性活動家にとっての悩みは、「同一価値労働」という文言がもたらす誤った理解である。「同一価値」の意味は、ヨーロッパ産別運動を基盤に、「同一労働」だけでなく「同種労働・同等労働」の意味であり、あるいは労働貢献への評価、あるいは仕事を媒介にした団結(同一賃金・横断的賃金率)へと連なる意味なのである。
 前述したように賃金闘争とは、賃労働と資本関係の下で、すなわち市場経済の下で、労働者がもつ労働力という商品を資本家に買い叩かせないために行われる集団的闘争である。これは賃労働と資本関係の土俵の上で、労働者の生産・再生産に足る賃金を、交換価値として得るための、いわば「集団交渉・取引」である。この取引の中に紛れ込む雑多なイデオロギーに対し、労働者の階級的な団結の思想を持ち込むことなく、それ自身で革命的な賃金論や賃金制度はありえない。先進的労働者は、このことに意識的でなければならない。労働者の体内にある労働力の価値は、「労働成果や労働貢献に対する市場における評価」によってではなく、その労働力の生産と再生産の費用である、という階級連帯思想を育む主体的闘争へと変えるのは、マルクス主義者の仕事なのではないか。


 ●6 結びにかえて

 「同一価値労働同一賃金」をめぐる現在の議論、国際標準でありながら日本ではなじみがなく、誤った理解が大手を振っている背景として、日本の賃金闘争の歴史を見てきた。
 これらは現在進行形の論議であり、非正規雇用や低賃金労働者の賃金是正をめざし、先進的労働者や研究者によって、さまざまな試みが行われている。これらにエールを送りながら、結びにかえて、「同一価値労働同一賃金」についての私の意見の骨子を述べる。
 〈第一に〉、グローバルな資本間競争へと突き進む日本独占資本・金融資本に対する労働運動の階級的再生とは、労働者階級の社会横断的結合を勝ち取ることである。それは労働者反戦闘争のような先進的労働者による政治的結合の面もあるが、とりわけ基礎として、賃金労働条件をめぐる社会横断的結合が重要である。この賃労働と資本をめぐる労働者の闘争の仕組みは、社会のあり方を決定し、また、その支配的イデオロギーを文化として定着させる。戦後の日本においては、「生活給」(=家族扶養賃金)を思想的バックに、終身雇用・年功序列賃金として、一時代の在りようが存在した。それは、生産資本の拡大と技術革新の時代に対応したものであり、資本自身も長期雇用を必要とした一時代であった。しかし、その時代は終わり、状況は変化した。
 〈第二に〉、いま資本は終身雇用・年功序列賃金の解体を強行している。社会的にも、それまでの「近代的家族モデル」が崩れ、「雇用による実質的な社会保障」が底割れし、失業・半失業・非正規雇用が拡大し、様々な社会問題として噴出している。かつての賃金体系の再構築か、新たな賃金体系の構築か、という論議の中に「同一価値労働同一賃金」議論はある。結論的には、新たな賃金体系と思想を切り拓いていくことにしか、社会横断的団結の構築はないと思う。前述のように日本の賃金体系と思想は、国際労働標準とはかなり異なっている。この賃金体系は、その労働者の属性によって、労働者の生産・再生産のための諸商品の消費総量をまかなう賃金体系・制度である。それぞれの労働者が必要とするおおよその商品消費総量は、それぞれに異なる。同じ仕事をしている労働者仲間でも、賃金表を見せ合うことはなく、賃金闘争を通して横断的団結や社会意識・階級意識を高めていく構造にはない。また、この「生活給(家族扶養給)」は、他方で、「生活補助賃金」というパート賃金を生み出す。税制をはじめとする社会の仕組み(扶養控除百三万円・所得税控除百三十万円の壁)が、それを促進する。同じ労働であっても、雇用形態が違えば賃金も待遇も変わる、という雇用身分差別が大手を振っている。この仕組みでは、階級連帯思想は生み出すことは難しい。
 〈第三に〉、にもかかわらず、日本では仕事基準で横断的賃金率を社会的に確立する試みが蓄積されてこなかった。他方、年功賃金システムは、正社員・周辺正社員といわれる平均的労働者の層の中に、いまだ現存している。また、今までの労働運動の闘いの歴史が作り上げた有効な法律や制度・慣習も残存している。「賃金水準なき賃金体系はありえない」という小越氏の主張のように、賃金水準の社会的蓄積や労働運動の関与の仕組みがなければ、かつて経団連が持ち出した「職務・職階制」のような、飢餓賃金が合理化される恐れは充分にある。しかし、生産資本の拡大の時期に形成された年功給は、ますます一部にしか実現しない。今拡大しつつある様々な呼称の非正規雇用労働者や、年功でも成果主義でもなく低賃金のままに置かれているケアワーカーなどが誇りを持って生活できる賃金∞人間らしい暮らしのできる賃金∞待遇・条件の改善≠要求する集団的闘争を作り出すために、「同一価値労働同一賃金」などを使って、年功制の平均的賃金の中にある同種・同等労働の賃金水準を求めていくことは一つの道である。これらの累々たる社会的蓄積によって、横断的賃率も、実践的な議論の俎上に乗るのであり、新たな賃金システムも、それらの攻防の結果、勝ち取ることができるのではないか。
 〈第四に〉、格差社会≠ニ呼ばれるようになった今の日本社会では、すでに企業を超えた派遣やパートなどの相場賃金が形成されている。しかし、それは労資攻防の結果としての横断的標準賃金ではなく、「身分的賃金序列」とでもいうべきものでしかない。また生産技術の発展は、ますます使い捨ての半失業者を拡大している。五五年体制の日本的雇用関係と核家族モデルから、もはやはみ出してしまった新しい労働者群≠主体とした団結の仕組みを編み出すための過渡的なツール≠ニして「同一価値労働同一賃金」は活用できる。この産別的な試みを、他方で、地域(一般)労組の横的なつながりと結びつけ、新しい階級闘争構造の基盤を模索していくことが必要である。
 〈第五に〉、労働を通じた結合を課題とし、そこに使用される労働力に、充分な生産と再生産費がまかなわなければならないという同権思想は、グローバル化における労働者の階級形成にとって重要な意味を持っている。
 かつてないほどに集団的な労働、社会的協業・分業を発展させてきた資本主義・帝国主義社会は、他方、生産手段が私的に所有されていることによって、利益をめぐって互いにあい争い、この争いに労働者をまきこみ、互いに(民族ごと・国家ごと、企業ごと・雇用形態ごと、就業・失業……)分断し、万人による万人との競争≠ヨと駆り立てている。人間労働によって生み出される富は社会のものとはならず、資本家への富の集中と勤労民衆への貧困の深まり・生存権の破壊へと行き着いている。生産手段の私的所有を取り払い、集団的労働の支配権を取り返し、社会的所有へととり替えるカギとなるのは、労働者の支配階級としての形成である。


 

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