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   複合震災と資本主義

     〜安全に暮らせる社会をめざして

 




 三月十一日に始まる東日本大震災は、世界の災害史上においても類を見ないものとなった。巨大地震、大津波に原発事故が重なったこの災害は、「三重の災害」とも「複合震災」とも呼ばれるが、重大な原発事故が事態を決定的なものにしたことは疑いない。地震発生からすでに四カ月がたとうとしている。だが、世界が経験したことがない様相の大規模・長期の被害はいまなおつづいている。
 被災地復興や原発事故収束などの基本的問題は、いまだ解決の見通しが立っていない。深刻な事態がつづくなか、早期の生活再建を求める被災地人民の不満と怒り、原発の即時停止と廃炉を求める全人民的な声が高まっている。われわれはこうした労働者人民の怒りと要求に立ってたたかう。
 悲惨な事態がふたたびくり返されないためにも、政府・資本の責任が徹底的に追及されねばならない。日本の歴代保守政権が、人民の生命と生活をどのように守ってこようとしたのか、あるいはしてこなかったのかが厳しく問われる必要がある。今回の大災害の原因を「想定を越えた自然の猛威」のせいにさせてはならない。災害がこれほどまでに大規模化・長期化し、被災地人民の生活が破壊されつづけている、その社会的背景や社会的根拠こそが問われなければならない。
 どのような社会に暮らそうと、労働者人民には生活と生命の安全が保障される権利がある。人々が常に何らかの危険に脅かされつづけるような社会、そのことによって強い緊張や不安を強いられつづけるような社会は存続する意味がない。社会とは何よりも「人々が安心して暮らすことのできる場所」であるべきだ。
 「複合震災と資本主義」と題したこの一文は、今回の大災害におけるブルジョア政権の責任や誤りについて具体的に暴露・批判することを目的にしている。こうした作業は、保守政権に対する当面の闘争を組織していくうえで、また労働者人民が打ち立てるべき社会について構想していくうえで必要不可欠である(以下すべて敬称を略す)。


 ●1章 「3・11」―世界初の複合震災の始まり

 最初に、今回の地震と震災について簡単にふり返っておこう。

 ▼1章1節 巨大地震・津波の発生

 事態はまず巨大地震の発生から始まった。マグニチュード(地震のエネルギー規模を表す単位。以下Mと略す)9・0とされる今回の「東北地方太平洋沖地震」は、近現代の日本において、また世界的にも最大規模のものであったと言われている(ただし気象庁による最初の発表はM7・9であった)。「今回の地震は、日本の観測史上、最大規模であるだけでなく、世界的に見ても歴代四位という超弩級の地震だった」「放出エネルギーで見ると、今回の地震は、一九二三年の関東大震災の四十五倍、また九五年の阪神・淡路大震災の千四百五十倍にもなる」(鎌田浩毅・京大教授『週刊東洋経済』三月二十六日号)。ここで「歴代四位」というのは、一九六〇年のチリ地震(M9・5)、一九六四年のアラスカ地震(M9・2)、二〇〇四年のスマトラ沖地震(M9・1)に次ぐこの半世紀で世界四番目にランクされる地震であったということである(算出方法によってMの値は異なる場合がある)。今回のものを含めて、四つの地震はいずれも「環太平洋火山帯・地震帯」で発生している。この地震多発地帯でM9以上の大地震が、五十年間に四回も発生しているということになる。
 四月二十七日に中央防災会議が発表したところによれば、今回の地震の「震源及び規模」は、「三陸沖(牡鹿半島の東南東百三十キロメートル付近)深さ約二十四キロメートル」「断層面の最大すべり量は約三十メートル。主な断層の長さは約四百五十キロメートル、幅は約百五十キロメートル。破壊継続時間は約百七十秒間」であった(注―中央防災会議は内閣府に置かれた「防災基本計画及び地震防災計画の作成及びその実施の推進」を目的とする機関)。しかし、その後の報道などによると、断層の規模は長さ約五百キロメートル、幅約二百キロメートルであり、今回の地震は太平洋プレートと北アメリカプレート境界域の日本海溝付近において北から南にかけて連続して発生した三つの巨大地震による海溝型地震であったとされている。断層面は当初の推定より大きく、震源は南北に連鎖して広がったということであろうか。国土地理院の観測では、この地震によって牡鹿半島は百二十センチメートル沈下した。海上保安庁によれば、震源付近の海底は約二十四メートル東南東に移動した。
 最初のM9・0の地震は三月十一日午後二時四十六分に発生し、その後、午後三時六分(M7・0)、午後三時十五分(M7・4)、午後三時二十六分(M7・2)と、M7以上の余震が五回つづいた。「余震」と呼ばれるが、その規模は相当大きなものであった。
 陸上では宮城県栗原市で最大震度七が記録された。震度とは地震の揺れの大きさを表す指標である。震度の階級には国際標準はなく、日本の気象庁が定める震度の階級は〇から七までの十段階に分かれている(震度五と六は弱・強の二つずつある)。震度七が最高でそれ以上はない。強い震度が広範囲で観測されたが、四月一日の警察庁の発表によれば、建物の全壊は九都県で四万五千七百三十四戸であり、建物の被害はこれでも比較的少なかったと言われている。「今回の地震は、木造家屋の倒壊に影響が大きい周期の地震波形が少なかったため、地震による家屋倒壊が少なかった」と中央防災会議は分析している。ちなみに、一九九五年の兵庫県南部地震(M7・3)による阪神・淡路大震災では十万四千九百六戸の家屋が全壊した。
 地震発生から約三十分後に最初の津波が各地に到達した。津波の高さは岩手県宮古市で十九メートル、宮城県女川町で十七・六メートル、同・南三陸町で十五メートル、岩手県大船渡市で八メートルに達したとされている。もともと「津波の高さを測定することはむずかしい」「正確な波高をつかむことは至難」(吉村昭『三陸海岸大津波』一九七〇年)であり、発表よりも実際の津波はさらに高かったことも考えられる。「全国津波合同調査チーム」が五月三十日に発表したところによれば、宮古市重茂(おもえ)姉吉(あねよし)地区では津波は四十・五メートルの高さにまで到達していたという。津波は青森から岩手・宮城・福島・茨城にかけた広い地域の沿岸部をくり返し襲った。津波による「浸水面積」は「合計約五百六十平方キロメートル うち宮城県約三百三十平方キロメートル」(中央防災会議)、東京都の面積の約四分の一に相当する土地が海水に浸かったことになる。
 六月十四日現在、地震と津波によって亡くなった方は一万五千四百二十九人、行方不明七千七百八十一人にのぼる(警察庁まとめ)。阪神・淡路大震災での死者・行方不明者は六千四百三十七人、死亡原因の約八割が住宅倒壊などによる窒息死・圧死であったのに対して、今回の震災では水死が全体の九割以上を占める。
 地震・津波に直撃された地域では、生活基盤が一挙に崩壊した。ぼう大な数の人々が、家族・住居ばかりか職場、店舗、工場、車両、船舶、田畑などの生活手段を失った。被災地では、道路・鉄道・橋・港湾、水道・電気・ガス・通信などのインフラ、ライフラインが瓦解し、学校・役所・病院なども大きな被害を受けた。

 ▼1章2節 メルトダウン―レベル7の事故が発生

 地震・津波による大惨事と同時に、チェルノブイリ事故と同等のレベル7の原発事故が発生した。福島第一原発の三基の原子炉は地震直後に緊急停止したが、地震による設備の損壊、全電源喪失によって、原子炉の冷却が不可能となった。高熱となった燃料棒のメルトダウン(炉心溶融)、水素爆発などにより、大量の放射性物質の拡散・漏出が始まった。原発から漏れ出したり、意図的に放出された放射性物質は大気・海洋・土壌を汚染し、原発労働者・周辺住民は強い放射能にさらされた。農業・漁業・酪農、さらに製造業・観光業などの諸産業が、地震・津波と重なるこの原発事故によって大きな打撃を受けた。現在も、再臨界や再度の水素爆発、水蒸気爆発、さらなる大量・高濃度の放射性物質の漏洩・飛散などが起こる危険性がある。


 ●2章 巨大地震・大津波による原発事故は警告されていた

 今回の震災にさいして、学者・専門家といわれる人たちの多くが、こぞって「予想を越える事態」「想定外の事態」などの言葉を口にした。たとえば、「三月十一日に東日本を襲った地震は、われわれ地球科学の専門家も予想していなかった巨大地震で、甚大な津波被害をもたらした……」(前出・鎌田浩毅)「想定をはるかに超えた大きな地震」(中央防災会議)などのように。政府機関や学者から発せられる「想定外」「予想外」の言説は、今回の災害に対する政府の責任をあいまいにするものである。またそれは、政府による被災者救援の立ち遅れや不十分性を合理化する役割を果たしている。地震・津波の規模が、大方の予測を上回るものであったことはたしかだ。だがそれは、予測値・想定値が低すぎたということにすぎない。
 東海地域や首都圏だけでなく、近い将来、東北地方においても巨大地震・大津波が発生する可能性があること、地震によって重大な原発事故が起こりうること、それらにそなえねばならないことは、先進的運動団体・市民団体、良心的学者・研究者・研究機関によって「3・11」以前から指摘されてきた。歴代保守政権や東京電力をはじめとする電力独占資本は、その警告を無視しつづけてきたのである。
 古くから大きな地震が多発してきた宮城県沖で、M7〜8程度の地震が起こることは政府の機関によっても予測されてきたことである。地震調査委員会という政府機関がある。阪神淡路大震災を受けて「地震防災対策の強化、特に地震による被害の軽減に資する地震調査研究の推進」を目的に設立された地震調査研究推進本部下の組織である。地震調査委員会は「全国地震動予測地図二〇一〇年版」で、「海溝型地震のうち地震断層を特定できる地震」として宮城県沖でM7・5前後の地震が三十年以内に起こる確率は99%、東側の三陸沖南部海溝寄りの領域と同時発生の場合、Mは8・0前後となると発表していた。二〇〇二年に長谷川昭・東北大学教授は、「近い将来必ず起きる宮城県沖地震」(『AERA Mook十一月号』)と題した文章において、「次の宮城県沖地震が起こる確率」は「過去の発生履歴データに基づく推定としては、東海地域を含めた日本の他のどの地域よりも高い」「あと十三年で平均発生間隔である三十七・一年に」達すると述べていた。今回の「東北地方太平洋沖地震」と、想定されていたこの「宮城県沖地震」とは同じものではない。だが、おおよそこの地域を震源として相当規模の地震が発生することは確実視されてきたのである。
 さらに近年、地質調査などによって貞観(じょうがん)津波の研究が進み、その研究成果も発表されていた。貞観津波とは、八六九年に推定M8程度の地震によって引き起こされた大津波である。その被害のようすは、平安時代、延喜元年(九〇一年)の『日本三代実録』に記録されている。九メートルの津波が仙台平野を襲って内陸部に三〜四キロメートル侵入し、千人を超える犠牲者が出たといわれる。仙台平野だけでなく、三陸地方、現福島県沿岸域も被害を受けたと見られる。貞観タイプの巨大津波がいつ起きてもおかしくないとする声は以前から存在した。二〇〇一年に、箕浦幸治・東北大教授は次のように述べていた。「貞観津波の襲来から既に千百年あまりの時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます」「海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです」(『まなびの杜』六月)。
 「日本最大級の公的研究機関」とされ、職員三千人を擁す産総研(独立行政法人・産業技術総合研究所)は、二〇〇四年ごろからこの貞観津波の研究に本格的に取り組んできた。震災後に発行された『日経サイエンス六月号』は「東日本大震災 鳴らされていた警鐘」と題した記事のなかで、産総研の研究成果について次のように紹介している。「産総研による東北の太平洋沿岸各地の調査では、貞観津波を含め、古墳時代(四〇〇年頃)から室町時代(一五〇〇年頃)にかけて少なくとも四回、かなりの規模の津波が起きていたことも判明した。そうしたことから産総研の研究グループは、東北から関東にかけての沿岸を五百年から千年の間隔で大津波が襲っていること、その周期性から考えれば、近い将来、同様の大地震と大津波が再来する恐れがあることを数年前から論文や学会で発表していた」。
 さらに同誌は、「原発事故 『本当に想定外だったのか』」との記事において、産総研が福島原発の安全性を問題にしていたことを取り上げている。「大津波で原子炉の冷却装置が機能不全に陥った福島第一原子力発電所。それは本当に想定外の事態だったのか?二年前、経済産業省の審議会で貞観津波の調査研究を踏まえ同原発の耐震性に対する懸念が東京電力側に伝えられていた」「委員として出席した産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの岡村行信センター長は報告書案に貞観津波の調査研究が反映されていないことを指摘、再検討の必要があることをかなり強く求めた」「『ご存知だと思いますが、ここ(福島県沿岸)では貞観の津波というか、貞観の地震というものがあって、西暦八六九年でしたか、少なくとも津波に関しては(中間報告で検討されている)塩屋崎沖地震とはまったく比べものにならない非常にでかいものが来ているということはもうわかっていて、その調査結果も出ていると思うんですが、(報告書案が)それにまったく触れられていないところは、どうしてなのかということをお聴きしたいんです』」。経産省の審議会でこのような発言があったことは、震災後、NHK、産経、毎日、朝日などによって広く報道されている。ただしこの岡村センター長が、信頼できる研究者であるかどうかは定かではない。
 津波の研究とは別の角度から、地震学者の石橋克彦・神戸大名誉教授は以前から「原発震災」発生の危険性にいく度となく言及していた。石橋による「原発震災」という新しい言葉は、現在では海外においても知られるようになっている。二〇〇八年『都市問題八月号』収録の「原発に頼れない地震列島」という文章では、石橋は次のように述べている。「『原発震災』というのは一九九七年に私が言い始めた言葉だが、地震によって原発の大事故(核暴走や炉心溶融)と大量の放射能放出が生じて、通常の震災(地震災害)と放射能災害が複合・増幅し合う人類未体験の破局的災害のことである。そこでは、震災地の救援・復旧が強い放射能のために不可能になるとともに、原発の事故処理や住民の放射能からの避難も地震被害のために困難をきわめて、無数の命が見殺しにされ震災地が放棄される」。まさに今日起きている状況が的確に予測され、リアルに描かれていることに驚かされる。
 地震・津波・原発事故についてのこうした少なくない優れた研究や警告は無視・軽視され、防災対策に生かされることはなかったのである。『日経サイエンス六月号』の前出記事は次のように結ぶ。「『3・11』とも呼ばれるようになった東日本大震災。その警鐘は鳴らされていた。ただ、地震学者や行政が全体として、そうした認識を共有するには至っていなかった」。


 ●3章 資本主義のもとで人間の「安全」は守られるか

 ▼3章1節 低い想定値


 リアス式海岸で有名な青森・岩手・宮城にかけての三陸海岸は、「地震・津波常襲地帯」として知られてきた。『三陸津波誌』(一九六一年)によれば、「三陸東海岸の津波は歴史に明記されているものだけでも」、一六一一年 (慶長十六年)、一六七七年 (延宝五年)、一七五一年 (宝歴元年)、一七五九年 (寛政五年)、一八五六年 (安政三年)、一八九六年 (明治二十九年)、一九三三年 (昭和八年)、一九六〇年 (昭和三十五年)の「八回を教えている。大体四十四年に一回の割で起っている」(小川博二・岩手大教授)という(ただし、ここには貞観津波はあげられていない)。
 近現代の三陸地方における三つの大きな津波の様態や被害については、たくさんのことが分かっている。一八九六年の「明治三陸津波」と名づけられた巨大津波は、日本海溝付近でのM8・5の地震が起こした津波であり、これによって二万二千人もの人々の命が奪われた。震源は沿岸から二百キロメートル以上はなれており、陸上で震度は四程度だったが、津波は三十メートルを越えた。現在の大船渡市三陸町綾里(旧・岩手県綾里村)には、三十八・二メートルの津波が到達したことを示す大津波水位表示板がある。次いで一九三三年には、「昭和三陸津波」が同じ地域に押し寄せた。この時の地震はM8・1、震度は軒並み五程度であったが、二十五メートル級の津波が各地を襲い、約三千人の犠牲者が出た。さらに戦後の一九六〇年、南米チリ周辺海域で発生した超巨大地震による津波が、太平洋をまたいで約一万八千キロメートル離れた三陸地域に到達した。地震発生から約二十二時間半後、最大で六メートルの津波が未明の三陸海岸沿岸などに襲来、百四十二人が死亡した。地震の発生が周辺海域ではなく、また津波警報が事前に発せられなかったので、多くの人が津波に気づかずに被災した。
 こうした津波被害の歴史が存在しているために、三陸地方では被害の記憶が語り継がれ、防波堤・防潮堤が築かれ、津波避難訓練や災害教育なども他地域よりも熱心に行なわれてきた。今回、このようなさまざまな努力が被害を軽減することに役立ったことは間違いない。しかし、今回の巨大地震と大津波は、これまでの防災の営為を無にするような大きな被害を多くの地域にもたらしたのである。その原因としては、やはりまず、想定されていた地震・津波のレベルが低かった、想定が現実的でなかったということが基本的な問題としてあげられねばならないだろう。たとえば、岩手県普代村では東北有数の高さ十五・五メートルの水門と防潮堤がつくられており、高さ約二十メートルの今回の津波は水門を越えたが、死者ゼロで被害は最小限に食い止められたという。これは想定を高くしたことによって被害をまぬがれた例である。普代村の水門の建設時には、「そんなに高い堤防が必要なのか」という批判的な声も一部あったという(四月二十四日『岩手日報』電子版)。
 気象庁による津波警報にも、「低い予測値」という問題が存在した。午後二時四十六分に最初の揺れがあり、気象庁はその三分後の午後二時四十九分に大津波警報を発令した。つづいて二時五十分、最初の大津波警報として岩手・福島で三メートル、宮城で六メートルとの予想が発表された(その後、三時十四分、岩手と福島の警報は六メートルに引き上げられた)。しかし実際に到達した津波は、高いところで警報の三倍・四倍に達したのである。実際とは大きくかけ離れた津波予想値は、もちろん技術上の限界という問題はあるにせよ、「そんな大きな津波は起こらない」という予断が影響した結果ではないのかとの疑念を抱かせる。気象庁発表の津波警報が逆に人々の警戒心をゆるませ、人的被害を拡大させたことは否定できない。「三メートル程度の津波と思い込み、自宅の二階に避難した人が大勢いる」(朝日)「三メートルという数字や過去の経験に縛られて避難が遅れた人は多い」(毎日)という報道はさまざまある。
 東京電力の「甘い想定値」についてもふれておかねばならない。東電が外部からの意見に耳を貸さず、福島原発の津波の想定値を五・四メートルとしつづけてきたことには重大な過失責任がある。東電は自社のホームページに「津波への対策」として、「原子力発電所では、敷地周辺で過去に発生した津波の記録を十分調査するとともに、過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を数値シミュレーションにより評価し、重要施設の安全性を確認しています。また発電所敷地の高さに余裕を持たせるなどの様々な安全対策を講じています」と書いていた。これがまったくの虚偽記載であったことは、事実をもって明かされた。四月十三日、東電はこの部分を削除してしまった。証拠隠滅をはかったと言われてもしかたがない。
 三月二十五日付の朝日新聞は、「福島第一原発が制御不能になったのは、津波の研究が進歩していたのにその成果を東電が安全性の検討に生かしていなかったから」とする記事を掲載した。その趣旨は、福島原発は沖合にプレート境界があるとは知られていなかった四十年以上前の設計であるが、東電は〇九年の専門家会合での産総研の最新の研究成果にもとづく指摘(前出)を無視していた、原発を襲った津波は想定をはるかに超える十四メートル以上であった、というものである。記事全体は東電の無責任性を問題視するものであるが、ここに書かれている「津波十四メートル超」という数字は東電の発表になるものである。その後、東電が公表した地震当日の写真、あるいは周辺の津波の高さから判断すると、福島原発に押し寄せた津波は十メートル程度ではなかったかという見方もある。「津波は想定をはるかに超えており、事故は避けられなかった」ことを強調するために、東電は津波の高ささえ改ざんしている可能性がある。
 福島県に隣接する宮城県の女川原発には十三メートルの津波が押し寄せた(東北電力発表)。女川原発は九・一メートルの津波を想定して建設されており、「わずか80センチの高低差で」(産経)津波による重大事故をかろうじてまぬがれたと言われている。福島原発と女川原発との違いは、女川原発が福島原発より少々高い土地に建てられていたという点にあるにすぎない。東電は、やろうと思えば簡単にできるいくつかの初歩的な地震対策・津波対策すらおこたり、取り返しのつかない重大事故を引き起こしたのである。
 その後、福井県・若狭湾に十一基の原発を所有する関西電力が、東電と同様の欺まん的な言動をくり返してきたことが発覚した。『兼見卿記』(かねみきょうき)という古文書がある。ここには一五八六年の「天正地震」が引き起こした津波によって、若狭湾地方で多数が死亡したとの記述がある。関電はこうした文献が存在していることを知りながら、「天正地震の津波被害は、信ぴょう性に乏しい」とし、若狭地方では「津波による被害の記録はなかった」と広報誌などで宣伝してきたという。事実を隠ぺい・ねつ造して「原発の安全性」を演出する手法は、ひとり東電だけのものではないのである。
 そもそも日本のような地震多発列島に、電力会社がある程度危険性を承知のうえで、重大事故が発生することはありえないことにし、カネに物を言わせながらしゃにむに危険な原発を建設しつづけてきたことこそが重大で本質的な問題であったのだ。

 ▼3章2節 複合震災被害を拡大させた諸要因

 他に被害を拡大した要因として、次のようなものがあった。
 第一に低い津波想定値にもとづいたハザードマップ(災害予測図)、防災教育・防災設備などである。市町村が災害対策のために作成したハザードマップでは津波が到来しないと区分されていた地域にまで海からの波は押し寄せた。そうした地域に住む人たちが、自分たちは被災することはないだろうと考えていたとしても不思議ではない。本来は津波が到達してはならない避難所が被災し、そこにいた人たちが犠牲になるという例も多くあった。六月八日、NHKはハザードマップの問題点に関して次のような報道を行なった。「岩手県釜石市では、死者と行方不明者の半数以上が津波のハザードマップで浸水が想定されていなかった地域に住んでいたとみられ」、専門家が指摘するところでは、「ハザードマップの想定が、かえって避難を妨げる要因になった可能性がある」。
 第二に、防波堤・防潮堤などへの過度の依存である。釜石湾に築かれた巨大な湾口防波堤は今回の津波を受けて大きく崩れた。また「万里の長城」にもたとえられた宮古市田老町の防潮堤は一部破損し、町は大きな被害を出した。津波災害史の研究家として知られ、『哀史 三陸津波』などの著書がある山下文男・日本共産党元文化部長は、かつて次のように主張していた。「結局のところ、単純だが、『地震があったら津波の用心、津波が来たら高い所へ』であって、津波対策の決め手は、防潮堤でも津波予報でもなく、各人、各地域の防災意識を基にした敏速な避難行動なのである。二十一世紀のこの期に及んで、情けないと思うかも知れないが、やはりこれしかない。防潮堤や津波予報はたのもしい存在だが、万能ではない」(『津波の恐怖 三陸津波伝承記録』二〇〇五年)。今回、山下は陸前高田市の病院に入院中、ベッドの上で津波に襲われた。山下は被災後、ノンフィクション作家・佐野眞一のインタビューに答えて次のように述べている。「田老の防潮堤は何の役にも立たなかった。それが今回の災害の最大の教訓だ。ハードには限界がある。ソフト面で一番大切なのは教育です」(『g2緊急特大号』四月)。長年の民間・津波被害研究者としての重い言葉である。
 第三には、海岸近くの低地にたくさんの住宅が建てられていたことである。あいつぐ津波被害の経験から、三陸地方では高台に家屋を移設する努力がつづけられてきた。しかし、多くの地域では地理的な制約や財政支援の不足もあって高地に住居を作るのがむずかしく、また漁民にとっては港の近くに家がないと不便だという理由から、時をへるにつれて沿岸地域に家を持つ人たちが次第に増えていったという。結果として津波被害の経験は生かされることなく、また今回も深刻な被害をこうむったのである。
 第四には、過疎化・高齢化の進行である。今回の被災地域では、人口減少率・高齢化率が高かった。岩手・宮城・福島の東北三県の日本全体に占める人口比は、一九四七年の6・2%をピークに二〇一〇年には4・5%にまで減少していた。またこの地域では全国平均より高齢化が進んでいた。過疎化・高齢化が被害の拡大につながったことはまちがいない。今回の災害で身元が判明した犠牲者の65%は六十歳以上であり、犠牲者の46%は七十歳以上である(読売)。多くの高齢者が津波に対応できず、逃げ遅れたことが考えられる。被災後は、過酷な生活条件のなかで体調を崩したり、場合によっては死に追いやられた高齢者も多い。また高齢者の被害とも一部重なると思われるが、障害者の死亡・行方不明の率は、住民全体のそれの約二倍になるという調査もある(内閣府)。
 第五に、新自由主義のもとでの市町村統合が進展していたことである。一九九九年から二〇一〇年にかけて行なわれた「平成の大合併」によって、全国の市町村の数は三千二百三十二から千七百二十七へと約半分になった。町村役場の数が減り、自治体で働く労働者の数も減少した。東北三県の市町村自治体の数はこの時期、岩手県で五十九から三十四、宮城県で七十一から三十五、福島県で九十から五十九にそれぞれ激減している。災害時に避難・救援活動の最大の拠点となるべき市町村自治体の行政機能は相当低下していたことが考えられる。また病院の統廃合などによる医療をはじめとする市民サービスの縮小は、被災者の命と健康を直接脅かすものとなった。
 第六に、新幹線・高速道路建設などを中心とした大資本優先の地域開発が進んでいたことである。震災前、ここに投資された巨額の資金の半分でも、種々の防災対策や福祉政策に使われていたなら、被害はもっと少なくすることもできたはずである。大独占による開発主義は、災害に対する地域社会の抵抗力を削いだ。
 そして第七に、政府・電力資本の原発推進政策による地域経済・地域社会の原発依存強要である。地震や津波では被害を受けなかった福島第一原発周辺の住民も避難を余儀なくされた。周辺地域の農業・漁業・酪農などにたずさわる人々も大きな被害を受けた。原発安全神話に疑いをさしはさむこともままならず、原発との共存、原発への依存を事実上強制されてきた結果である。

 ▼3章3節 「社会による強制」

 地震・津波対策にせよ何にせよ、労働者人民の安全、命と健康を守るための対策は、資本にとっては「空費」「冗費」でしかない。資本は、安全対策のための支出をできるだけ節約しようとする。資本の利益を守り拡大することを至上目的に置くブルジョア政府による安全政策が、消極的で不十分、そして大きな欠陥をもつ根拠はここにある。社会によって強制されないかぎり、ブルジョア政府と資本は労働者人民の安全を考慮することはない。マルクスの『資本論』の有名な次のくだりはそうした資本の本性を見事に暴露している。「わが亡きあとに洪水は来たれ!これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって強制されないかぎり、顧慮を払わないのである。肉体的および精神的な委縮や早死にや過度労働の責め苦についての苦情にたいしては、資本家は次のように答える。この苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)をふやすのに、どうしてそれがわれわれを苦しめるというのか?」(『資本論』第一巻・八章「労働日」)。
 五月六日、今回の福島原発事故を受けて菅首相は、中部電力に静岡県浜岡原発原子炉の一時停止を要請した。つづく五月九日、中電はこれをしぶしぶ受け入れることを表明した。この背後には、エネルギー政策をめぐる資本間の暗闘・争闘などが存在している。一部には米軍からの停止要請があったとも噂されている。しかし、そうした要因にだけ事態の根拠を求めることはできない。原発に対する労働者人民の反対と怒りの声が社会を揺るがし始めたことがなかったら、菅は、もっとも危険とされる浜岡原発の一時停止が必要だということすら表明しなかったであろう。浜岡原発の一時停止措置は、「社会による強制」の結果であり、労働者人民の闘争の小さな勝利である。


 ●4章 大災害の時代に備える―労働者人民の命を守る社会

 ▼4章1節 大地震の活動期を迎えた日本社会


 日本において、また世界的にも地震の活動期に入ったということが指摘されている。この点をわれわれは真剣にとらえておかねばならない。前出の石橋克彦は、二〇〇五年二月の第百六十二国会・衆議院予算委員会公聴会において、「迫り来る大地震活動期は未曾有の国難」と題して次のような公述を行なった。「日本列島の大地震の起こり方には、活動期と静穏期というのが認められます。これは地学的、物理的に根拠のあることであります」「非常に重要なことは、敗戦後の目覚しい復興、それに引き続きます高度経済成長、さらには、人類史上まれに見る技術革新の波に乗って都市が非常に利便性を高めた、高度に集中した都市が発展した、それで日本の現在の繁栄がつくられたという、これは、たまたまめぐり合わせた日本列島の大地震活動の静穏期に合致していた、ということであります」「現在、日本列島はほぼ全域で大地震の活動期に入りつつあるということは、ほとんどの地震学者が共通に考えております」「これは大げさでなくて、人類がまだ見たこともないような、体験したこともないような、震災が生じる可能性があると思っております」(『人間家族』二〇〇五年三・四月号)。高度経済成長期が地震活動の静穏期であったために、この時期に日本では地震に弱い国土と社会がつくられたが、この脆弱な日本社会はこれから地震活動期を迎える可能性が高いということである。すでに巨大地震は起こってしまったが、それは本格的な地震活動期の始まりととらえておくべきであろう。

 ▼4章2節 自然現象と社会現象

 さらに石橋は、地震と震災は区別されるべきで、震災は社会的な現象としてとらえなければならないと言う。次のような発言は説得力がある。「地震という言葉と震災という言葉が普通ごっちゃに使われておりますけれども、私が地震と言っておりますのは地下の現象です。地下で岩石が破壊する、これが地震であります。これは自然現象でありまして、よくも悪くもない、日本列島の大自然として淡々と起こっている」「震災というのは、それに対しまして、社会現象であります。地震の激しい揺れに見舞われたところに、我々の社会あるいは文明があるときに生ずる社会の災害でありまして、社会現象だと思います」(前出・二〇〇五年二月の公聴会)。あるいは「震災」について、より簡潔に次のようにも言う。「『震災』というのは文字どおり『地震災害』で、強い地震動を受けた地域に人間が暮らしているときに発生する人間的・社会的現象です。その様相は文明の状況に依存し、社会の実態をあぶり出します」(『阪神・淡路大震災の教訓』一九九七年)。
 震災は地上の「社会現象」であるという観点は重要である。これにつけ加えておくべきは、「自然現象」もまた人間の活動と切り離してとらえることはできないということである。河川・海洋・大気の汚染、砂漠化、酸性雨、森林荒廃など近年の自然環境問題の深刻化、あるいは台風・ハリケーン・集中豪雨・洪水・竜巻・干ばつなどの「自然現象」の巨大化は、とくに産業革命以来の大規模な経済活動、それによる温室効果ガスの排出の増大などと結びついて生まれていると見られている。人間の巨大化した産業活動、資本主義のもとでの大量生産・大量消費・大量廃棄をともなう無秩序的な経済活動が「自然現象」にも大きな影響を与えているのである。巨大地震の発生でさえ、それは温暖化による海洋の変化を受けた結果なのではないかとの考えもある。たとえば米国の左翼政党である社会主義解放党(PSL)は次のような見解を示している。「地震それ自体も完全に天災だとは言いがたい。利潤を渇望する資本家たちは、地球温暖化の原因である温室効果ガスが大気中に大量に排出されることに関心を持たない。氷河や極氷が溶けると大量の水が海洋に流れ込む。それが環太平洋火山帯のプレートの動きをより激しくさせて地震を生み出す。資本主義というシステムがこのままつづけば、さらに多くの自然災害が起こるだろう」(「日本の原発危機 それはメイド・イン・USA」四月九日)。
 震災が「社会現象」であるならば、人間の活動によってその被害は軽減させることもできる。その社会がどのような社会であるかによって、災害の態様も異なってくる。「自然現象」としての地震・津波が人間社会に与える被害は、それらの規模の大きさだけでなく、被害を受ける社会のありようによって大きく異なってくるということである。たとえば二〇〇五年に米国ではカトリーナと名づけられたハリケーンによって大きな人的・物的被害がもたらされたことは記憶に新しいが、毎年ハリケーン被害に悩まされている隣国キューバでは人的被害はきわめて少ないという事実がある。この「貧しい社会主義の国」では、ハリケーンによる民衆の被害を最小限に食い止めるため、徹底した避難警告システムなど防災体制が整備されているという。〇五年当時、キューバは他の国も学ぶべき「防災大国」として世界から大きな注目を集めた。
 吉田太郎・長野県農業大学校教授は今回の震災を機に、自著『「没落先進国」キューバを日本が手本にしたいわけ』(二〇〇九年)の第四章「安全・安心社会の実現」をネットで無料公開し、キューバの優れた防災の取り組みを紹介している。そこに書かれていることでとくに重要なのは、キューバ政府が手を尽くして民衆の安全を守ろうとしているという、政府の基本的な姿勢である。また社会のなかに連帯の精神、助け合いの精神が行き渡っており、数十万から数百万人にのぼる大規模な避難活動や、災害後の被災地の早急な回復などもこれによって可能になっているということである。しかしキューバのハリケーン対策がいかに優秀であろうとも、急にやってくる地震・津波の対策にはたしてそれが適用できるのだろうか、という疑問は誰しも抱く。この点について吉田は自身のブログのなかで、次のように述べている。「『キューバでは、まず国民に、ハリケーンという危機が迫りつつあるという第一段階の警戒が出されます。もちろん、この措置は接近まで時間のかかるハリケーンだからできることであって地震では使えません』と私は三月二十五日に書きました。しかし、この文章は間違っており、訂正する必要があるのかもしれません」「気象庁のサイトをみると、『3・11』の二日前の三月九日から、素人目にも状況が完全におかしいことがわかるデータが得られているからです」「つまり、二日前、四十八時間前には、異常が察知されていたわけで、このデータを無視せず、事前に警報を発し、避難をしていれば、原発はともかく、津波によって失われた多くの命は救えた可能性があります」(文章を一部変更)。示唆多い意見である。これを夢想にすぎないとか、後知恵であるとか言うのは適切ではない。今回の地震が二日前に予知できたのではないかという問題については、震災後の五月末に開かれた日本地球惑星科学連合大会でも取り上げられている。真面目に検討されるべきテーマであると思われる。ちなみに地震予知の問題については、東大の地震学者ロバート・ゲラー教授が、巨大地震はいつどこにでも起こりうるのであり、地域を特定した地震予知などは不可能だから即刻やめるべきだと主張している(四月十四日『ネイチャー』電子版、『中央公論』七月号など)。主張の前半は正しいが、後半は相当乱暴な意見に思える。

 ▼4章3節 自然と人間

 自然なくして人間は生きられない。そして人間もまた自然の一部である。人間による自然の破壊は、自分で自分の首を絞めるようなものだ。それはやがて人間社会の荒廃や破壊にもつながっていく。森林の破壊が一つの文明を滅ぼしたという歴史事例もある。高度な生産力を獲得した資本主義は、また高度な自然破壊システムでもある。このもとで人間は自然から切り離され、自然との一体性(自然と人間との「物質代謝」の関係。人間は自然から有用物を取り出し、生産・消費の廃棄物を自然に返すという関係)をかく乱させられ、あるいは喪失する。資本主義的生産様式は「自然の支配」や「自然の搾取」を前提にした生産様式である。「この生産様式は人間による自然の支配を前提する」(『資本論』第一巻十四章「絶対的および相対的剰余価値」)。それは資源・食料・エネルギーを大量に消費・浪費し、環境を破壊して、あげくに自然災害も巨大化させる。だとすれば、資本主義の矛盾を止揚して生まれる社会主義・共産主義のもとでの生産様式は、「自然の支配」「自然の搾取」を否定・克服した、人間と環境との調和を意識的に追求する生産様式でなくてはならないだろう。自然との持続・再生可能な循環的関係を形成することが、人間社会を持続させ発展させていくことにもつながっていく。そのような観点に立ってこそ、人間の安全を第一においた社会も可能となるだろう。


 ●5章 「3・11」後の社会をみすえて

 「3・11」を区切りとして日本社会は新しい局面に入った。「複合災害」が日本社会に与える打撃と影響はとてつもなく大きなものとなるだろう。震災前、すでに日本では長い低成長時代のうちにあった。今回の大災害が、一九九〇年初頭以降の日本の「失われた二十年」と呼ばれた状況をさらに長引かせ深めていくことになるのは確実である。日本資本主義が旧来の成長条件を取り戻すことができず、大きな危機をそのうちに抱えていくことは必至である。資本主義的繁栄の一時代は終わり、これまでの社会の姿は崩落していっている。日本の現状は資本主義世界の未来を暗示している。
 支配階級は現在の状況を「戦後最大の国難」「日本沈没の危機」ととらえて危機感をつのらせている。ブルジョアジーは、まさに「これまでどおりのやり方」ではやっていけなくなっている。しかし、はっきりさせねばならないのは、現在の事態は日本資本主義・日本帝国主義の危機であって労働者人民の危機ではないということだ。たしかに労働者人民が実生活を送るこの社会もまた危機的な状況にある。だが労働者人民は、危機に立つこの社会を支配階級の狭隘な略奪的利益のためにではなく、圧倒的多数の労働者人民の利益にもとづいて根本から変えていくこともできるのだ。
 社会的混乱と大流動のなかで、経済至上主義・成長至上主義が問題にされ、連帯や共助の重要性が新しい言葉で語られ始めている。資本主義という社会・経済システムへの根本的な疑問が生まれ始めている。労働者人民の側にもまた、これまでどおりに生活していくことは不可能だという意識が生まれ、「価値観の転換」が広範・急速に起こり始めている。そしてこれに対応して新しい闘争主体(「3・11世代」)も生まれ始めている。
 現政権の政策にしたがっていれば、被災者は切り捨てられ棄民化されていくばかりだ。労働者人民が安全に暮らす権利は保障もされない。われわれ労働者人民はもはや、このようなブルジョア政権に政治と社会の実権をゆだね、好き勝手にさせておくことはできない。保守政権の動向を規制する強力な人民の側の政治をつくりださねばならない。
 われわれ共産主義者は全人民の闘争の先頭に立ちながら、現在の局面を資本主義に代わる社会、社会主義・共産主義にいたる現実的な一歩としてたたかいぬいていくために、たたかう多くの人々とともに全力をあげる。現実の社会の変革を追求し、それらを一つひとつ具体的に実現していく闘争のなかで、労働者人民の階級的意識と階級的団結は強まっていく。またそうした営為を通じて、いずれ資本主義を打倒したのち、労働者人民が主人公となってみずから打ち立てていく社会の内実も明らかにされていくだろう。
 民衆が安全に暮らすことのできる社会をめざしてたたかうこと、それはわれわれ共産主義者の重要な任務のひとつである。



 

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