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   新自由主義・再考(中)

   〜資本のための反革命的な社会改造運動
                             

                           




 ●第2章 D・ハーヴェイの関連著作を読む


 新自由主義は、一九七〇年代の世界資本主義の危機を契機にして生まれた新しい世界的現象である。それはレーガン・サッチャー政権の登場以降いっきょに拡大し、世界は一つの新しい時代に突入した。現在にいたるまで三十年以上つづくこの時代が全世界にもたらしたものは、貧困と雇用・失業問題の深刻化、福祉・医療・教育制度などの劣化、税制のさらなる不平等化、そして一部の特権層が社会の富を独占する貧富の格差の拡大であった。資本主義は、その本来の暴虐な性格をますますあらわにしている。
 新自由主義が生み出した過酷な現実に対して、全世界で労働者人民の多様な抵抗闘争が噴出し継続してきた。そしてこれと並行して他方では、新自由主義の諸結果についてのさまざまな暴露、告発、分析が行なわれてきた。世界銀行上級副総裁でもあった米国の経済学者ジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(日本版・二〇〇二年)や、あるいは日本では昨年出版された、カナダ出身のジャーナリスト、ナオミ・クラインによる『ショック・ドクトリン』などは、荒廃した世界の現実の一端を描き出してきた。同時に、こうした営為とは相対的に別に、新自由主義に対してより根本的な考察を加え、これを理論的に批判しようとするさまざまな試みも行なわれてきた。今回ここで取り上げるデヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義―その歴史的展開と現在』(日本版・二〇〇七年)をはじめとする彼のいくつかの著書は、それを代表するものと言える。ハーヴェイの著作は、新自由主義に関する包括的・歴史的な見解を示したものとして世界的にも高い評価を受けてきた。新自由主義に対する理論的批判の領域において、ハーヴェイの論考はその最先端に位置していると見てよいだろう。ハーヴェイの著作を通じてわれわれは、現在の新自由主義批判をめぐる世界的な議論の内容や問題意識の所在を知ることができるし、またここから多くの有意義な内容を吸収することも可能である。以下、『新自由主義』を中心にしてハーヴェイの主張の検討を行ないたい。(断りがない引用は『新自由主義』から。人名の敬称は略す)

 ▼1節 経済地理学者

 デヴィッド・ハーヴェイは、一九三五年にイギリスで生まれたマルクス主義派の地理学者である。現在は米国・ニューヨーク市立大学に所属する教員である。ハーヴェイがマルクスの理論を本格的に学ぶようになるのは、彼がイギリスから米国に研究の本拠地を移した一九七〇年代初頭以降のことであった。それ以前は、「本人の弁によるとフェビアン社会主義(*注1)に近いものだった」(『新自由主義』森田成也「訳者あとがき」)。(ハーヴェイの経歴については、「訳者あとがき」の二節「著者について」に詳しい)
 ハーヴェイが新自由主義批判において優れた成果をあげていることと、彼が地理学者であることとのあいだには大いに関連があると思われる。地理学は、地球表面上に現象する自然と人間活動の様相の観察・調査を通じて、それらがどのように連関し合い、いかにして地域的な多様性をつくりだしているのかを研究対象とする学問である。現代世界においては、各国・地域の政治・経済・軍事・産業・文化・環境・自然をはじめとするあらゆる事象を世界的な視点から、また各国・地域の相互関連性において把握することがますます重要になっている。現代世界を分析し理解する上で、地理学的視点を持つことは有用である。ハーヴェイの専攻は経済地理学である。経済現象を地理的(空間的)観点から説明し解明しようとするのが経済地理学である。それは、地理学のなかでも現代資本主義批判・現代帝国主義批判において、とくに大きな役割を果たしうる。ハーヴェイの最新作『資本の謎』(日本版・二〇一二年)に掲載されている「解説」で伊藤誠は、ハーヴェイを「アメリカや世界の深刻な社会問題の体系的な理解のために、地理学をマルクス学派の観点から革新する試みを提示」し、「ラディカル派地政学の研究を開拓し」た研究者であると評価している。伊藤は地理学の持つ可能性を、経済学者の立場から示唆している。
 ハーヴェイはまた、マルクス主義を武器に地理学の刷新をはかろうとしてきただけでなく、マルクス主義理論そのものの発展にも貢献してきた研究者であるとの評価も受けている。前出の「訳者あとがき」には、ハーヴェイは「二〇世紀末におけるマルクス主義理論の発展に」寄与した第一人者の一人だ、というイギリスの経済学者の言葉が紹介されている。ただしハーヴェイ自身は、「マルクス主義」という用語・概念には、批判的なスタンスをとっているように思われる。「マルクスの理論」と「マルクス主義」とを区別し、マルクスの著書を「マルクス自身の観点から読む」(『資本論入門』P25)という立場である。ネオ・マルクス主義的な傾向があるのかも知れないが、旧来の「マルクス主義」にとらわれずに独自の立場からマルクス理論の再解釈を試み、その豊富化をめざしているということだろうと理解する。
 ハーヴェイの邦訳書(単著)は現在まで十二冊を数える(*注2)。日本でハーヴェイの名前がある程度一般にも知られるようになったのは、二〇〇七年に『新自由主義』(原著は〇五年発刊のA Brief History of Neoliberalism)が邦訳されて以降のことである。日本語版の発売時期は非常にタイムリーであった。小泉政権が終わったのが〇六年九月。小泉の退陣後、「構造改革」の名のもとで断行されてきた新自由主義的諸政策に対する評価が広く問題にされるようになり、新自由主義への関心と批判が高まった時期、そして〇八年に世界金融恐慌が爆発しようとしていたまさにその前夜に、この本は待たれるようにして出版されたのである。
 『新自由主義』は単なる学術書ではない。ハーヴェイ自身も本著の序文において、この本の目的は世界的な新自由主義化の歴史に「批判的に取り組むこと」「政治的・経済的なオルタナティブを明らかにしそれを構築する上での枠組みを提示すること」(P13)にあると述べている。オルタナティブとは、現在の社会のあり方に対する「代案」である。学問的な成果を現実世界の変革的実践に役立てたいとするハーヴェイの姿勢は明確である。難解な箇所も多々あるが、この本は新自由主義批判の第一級の入門書として読むことができる。何よりも、われわれが新自由主義に対する批判内容を自主的・主体的につくりあげていくための足がかりとして活用できる。
 本題に入ろう。ここでは、この著書全体の内容を扱うことをせず、あえてわれわれの関心を強く引く論点や物の見方を中心にして、その内容を検討することにしたい。『新自由主義』以外のハーヴェイの著作も参照しながら、次の三点にしぼってその主張を取り上げる。すなわちハーヴェイが、@新自由主義を「階級権力の再確立」という観点からとらえようとしている点A新自由主義は「略奪による蓄積」を不可欠とするととらえている点B新自由主義は他方で社会変革の新たな主体を成長させていくと見ている点である(*注3)。

 ▼2節 階級権力の再確立

 まず最初に取り上げる「階級権力の再確立」というハーヴェイの中心論点の一つは、そもそも新自由主義はどのようにとらえられるべきかという総論的テーマに関わるものである。新自由主義と言ったとき、規制緩和、民営化、労働市場の柔軟化、市場の開放、貿易と投資の自由化など市場重視の経済政策がまず頭に浮かぶ。「新自由主義の一般的形態」が「経済的自由主義」であるならば、新自由主義がその本領を発揮するのは何よりも経済の領域においてである。だが新自由主義にとって経済政策は何事かを実現する手段であって、その最終目的ではない。
 「新自由主義とは何か」という問いに対してハーヴェイは、簡潔に次のように答える。それは「資本蓄積のための条件を再構築し経済エリートの権力を回復するための政治的プロジェクト」(P32)であると。「プロジェクト」とは「計画、企(くわだ)て、事業」のことである。新自由主義は危機におちいった支配階級が「階級権力の再確立」をめざして打ち出す政治的・階級的「プロジェクト」としてとらえられるべきだとしている点に、ハーヴェイ・新自由主義批判の独自性と核心がある。
 新自由主義の直接の起源は一九七〇年代に求められる。「私見では、新自由主義とは一九七〇年代の危機と密接に結びついた階級的プロジェクトのことである」(『資本の謎』P24)。このことを象徴的に示すグラフ(図1)が『新自由主義』に収録されている(P28)。「アメリカの人口上位1%が保有する資産の割合」の変遷を示す図表である。ハーヴェイによれば、米国の所得上位1%の上層階級による「富の支配力は、二十世紀を通じてかなり安定的なまま維持され」てきたが、それは「一九七〇年代には、資産価値(株、不動産、貯蓄)が暴落したことで急激に下落した」。そこで「上層階級は、自分たちの政治的・経済的破滅を避けるために断固たる行動をとらなければならなくなった」(以上P28)。一九八〇年にレーガンが大統領に当選し、「さらなる規制緩和、減税、予算削減、労働組合や職業団体に対する攻撃など」(P38)の新自由主義的な「断固たる行動」が実行に移されるようになると、上層階級の資産割合は急速に上昇した。上層階級・支配階級が喪失した富をX字回復させていくこの過程を、ハーヴェイは新自由主義による「階級権力の再確立」という政治的・階級的視点からとらえたのである。それは新自由主義をたんに市場原理主義とみなしがちな一般的・常識的な理解を越えて、新自由主義の核心と本質に迫る把握であると言える。ハーヴェイのこの基本観点は、新自由主義を経済・政治・軍事を含む支配階級による国家・社会の反革命的改造運動として把握しようとする、この小論の見方とも合致する。
 しかし新自由主義は万能ではない。新自由主義は低下した資本の権力を回復させることができたとしても、それは経済成長の処方箋やモデルとはなりえない。ここに新自由主義の大きな弱点がある。ハーヴェイはこの点について言う。新自由主義化の「実際の成果はまったくみじめなもの」であり、それは「全世界の経済を促進することに概して失敗している」(P216)と。『新自由主義』には「世界の成長率(一年ごとの平均と十年ごとの平均)」を示すグラフ(図2)が掲載されている(P217)。これによれば、一九六〇年代に3・5%程度あった世界の成長率は七〇年代に2・4%に下がり、八〇年代、九〇年代にはそれぞれ1・4%、1・1%にまで低下した。この図2と前出の図1との両方を参照すると、長期的・世界的にみれば経済成長が低下・停滞しつづけているにもかかわらず、他方では上層階級に「富や権力」が「途方もなく集中して」いるというアンビバレント(二律背反的)な状況が浮かび上がってくる。上層階級への極端な富の集中は、「一九二〇年代以降初めて見られる事態」(P164)である。経済の自由化、規制緩和、市場開放や貿易・投資の自由化などによって市場の力を解放すれば、経済は活性化して力強く成長し、やがては社会全体が豊かになっていくと新自由主義者は主張してきた。だが、これはまったくの虚偽である。多数の犠牲のうえに一部の特権層だけが大もうけするシステムが作られているだけなのだ。
 こうして、新自由主義者たちの主張と、新自由主義のもとでつくりだされる現実は、不断に齟齬(そご)をきたし、矛盾するものであることが明らかになる。いわば、言っていることと、やっていることがまったく違っていることが明白になる。しかし、「理論としての新自由主義化ではなく実際のプロセスとしての新自由主義化は、上層階級の観点からは大成功だった」(P219)から、上層階級にとっては理念と現実のギャップは大きな問題にはならない。必要なら新自由主義の「教義」の内容を変えてしまえば良い。ハーヴェイは言う。「新自由主義的原理がエリート権力の回復・維持という要求と衝突する場合には、それらの原理は放棄されるか、見分けがつかないほどねじ曲げられる」(P32)。新自由主義者は、「自由」の旗をかかげながら、平然と独裁政権を擁護したり、民衆への血の弾圧・国家テロリズムさえ支持することもできる。一九七〇年代に、新自由主義経済政策を世界に先がけて採用したチリのピノチェトや、同時期のアルゼンチンのビデラといった独裁者たちの血塗られた軍事専制政権を、米帝が強力に支持したのはその典型例であった。新自由主義は強力な国家権力を求める。あらゆる新自由主義者は国家と結びつこうとするし、あわよくば強大な「新自由主義国家」を形成しようとさえする。なぜなら「強力な国家、強固な市場、法的諸機関などが存在しなければ、新自由主義は機能できない」(P162)からである。国家が経済に介入することを最小限に抑えることが、新自由主義の理論の一つだとも考えられてきた。しかし現実には、そのまったく逆なのである。
 理論と実践の乖離(かいり)は新自由主義の本性である。新自由主義の理論は、ときに「ユートピア主義」とも揶揄(やゆ)されるゆえんである。新自由主義者の理論・理念・政策の内容を批判することはもちろん重要である。しかしその表面的な主張にとらわれて、足もとをすくわれることがないように十分気をつけねばならない。

 ▼3節 略奪による蓄積

 次にハーヴェイの「略奪による蓄積」「略奪的蓄積」という主張を見てみよう。それは、現代資本主義・現代帝国主義の徹底的に搾取的・収奪的な性格が、一体どこに由来するのかという問題を解明しようとする理論的な提起として注目に値する。
 「略奪による蓄積」とは、マルクスが指摘した「本源的蓄積」や「原始的蓄積」が現代においても継続しているという主張である。マルクスは『資本論』第一巻・第二十四章において、「いわゆる本源的蓄積」(第二十四章の表題)が「資本の前史」にとって不可欠であることを、イギリスを典型例として取り上げながら説明している。マルクスはここで、新たに形成されつつある資本家階級の手中に、「かなり大量の資本と労働力」が集中されていることが、資本主義が成立するための前提であると述べている。資本に転化していく大量の富と貨幣は、非西欧地域の征服・略奪や、植民・国債・租税・貿易・信用制度などをつうじて蓄積される。しかし富や貨幣が存在しているだけでは資本は形成されない。それらは労働力と統一されてはじめて資本となる。大量の労働力は、土地をはじめとする生産手段・生活手段を主に農民から奪ってかれらをプロレタリア化することによって獲得される。これをマルクスは「生産者からの生産手段の歴史的分離過程」と呼んだ。そして、この「農村の生産者すなわち農民からの土地収奪は」、本源的蓄積の「全過程の基礎をなしている」とした。資本主義形成期に不可欠な、こうした長期にわたる一連の暴力的な過程を、マルクスは本源的蓄積という言葉で表現した。
 これに対してハーヴェイは、マルクスが言う本源的蓄積は、もはや終わった過程ではなくそれは現代においても継続しており、「マルクスが言及している原始的蓄積のすべての特徴が、こんにちでも資本主義の歴史と地理には強力に残存している」(『ニュー・インペリアリズム』P147)と主張する。ハーヴェイは、マルクスの本源的蓄積論には「弱点」があると思っている。ハーヴェイは、「いったん資本主義が本源的蓄積の段階を通りすぎ、前史が終わって、成熟した資本主義社会が現れたなら、マルクスがここで描き出している暴力的過程は重要でなくなり、資本主義が機能する上でもはや必要なくなるのだろうか」(『資本論入門』P433)と問い、次のように述べる。「私見によれば、昔々あるところで本源的蓄積が起こり、いったんその時期が過ぎ去ればリアルな意義を失うというような発想には、重大な問題がある。最近、私自身を含む一部の論者は、資本主義の歴史地理全体を通じて本源的蓄積が継続しているという問題を真剣に取り上げる必要があると主張してきた」(同前・P452)。「マルクスの想定の弱点は、略奪と虚偽、暴力に基づく蓄積を、もはや今では関係のない『原初の段階』に追いやってしまっていることだ」「今でも継続しているプロセスを『原始的』とか『原初的』とか呼ぶのはおかしいので、……私は、この語の代わりに『略奪による蓄積』という用語を使おうと思う」(『ニュー・インペリアリズム』P146)。
 欧米の研究者のあいだでは、本源的蓄積の過程は現在でも継続しているのか否か、マルクスは本源的蓄積の継続的性格を認めていたか否か、認めていたならそれを強調しなかったのはなぜか、本源的蓄積と資本蓄積のあいだにはどのような関係があるか、などの問題について論争がある(*注4)。ハーヴェイの略奪的蓄積論は、そうした議論に対する立場の表明でもある。
 たしかにマルクスは前出の『資本論』第一巻・第二十四章において、資本主義が生成期の段階を終えると、労働者は「経済的諸関係の無言の強制」によって資本家の支配下におかれるようになり、「経済外的な直接的な暴力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい」と述べている。本源的蓄積過程は資本主義の成立によって役目を終え、その後は「経済外的な直接の暴力」に代わって、「経済的諸関係の無言の強制」が労働者を支配するようになると言っているように読める。ただマルクスは、本源的蓄積過程が資本主義成立以降もくり返されるかどうかについては明言していない。またここではイギリス一国が取り上げられているだけであって、イギリスにつづいて資本主義の前段階にある国々がいかにして資本主義化していくかということについてもほとんどふれられてはいない。
 資本主義的生産様式の生成・発展の過程は地理的にも時間的にも不均等であり、資本主義は時期を異にし場所を変えて発生しつづける。このことを、われわれは現代世界の現実として目撃している。資本主義化の前史としての本源的蓄積が、現代においても存在し継続していることはたしかだ(*注5)。また先進資本主義国においても、本源的蓄積と類似した資本蓄積の基盤を再形成する現象が再生産されている(*注6)。だが、これらを「本源的蓄積の継続」と言わずに、「略奪による蓄積」と用語を置き換えて表現することには違和感がある。また、略奪的蓄積なる概念が理論的に整備されたものであるとも思えない。さらに、そもそも資本主義化にともなう一回限りの事象であるはずの本源的蓄積が、その後も「継続」すると言うのは原理的に見て奇妙であるとの、別の角度からの批判もありうる。だが、ここでは用語の問題にはこれ以上こだわらない。結論を得るためには、われわれの側の作業が必要である。
 ハーヴェイの主張(それは必ずしもハーヴェイ独自のものというわけではない)の積極性は、「資本の前史」において暴力的に遂行された本源的蓄積、これに似た現象が、現代において大規模に、さまざまな形態をとって世界中で現出しつづけていることを指摘し、それを「略奪的蓄積」という用語をもって強調したことである。「……次のような結論に至るのを避けるのは難しい。(a)本源的蓄積に似た何かが現代資本主義のダイナミズムの内部で脈々と継続していること、(b)おそらくはその持続的存在は資本主義の存続にとって根本的であること、である」(『資本論入門』P456)というハーヴェイの言葉には考えさせられるものがある。「本源的蓄積に似た何か」が存続しなければ資本主義の発展は停止し、資本主義そのものの存続が危うくなる。そのことがますます「略奪による蓄積」を強め、それが新自由主義の中心実体となっていく。「一九七〇年代以降、グローバル資本主義が成長を生み出すことに全体として成功していないとすれば、階級権力のさらなる強化はますますもって『略奪による蓄積』に転換することを必要とするだろう」(同前・P461)とハーヴェイは言う。「コモンズ」(共有地)になぞらえて「ソーシャル・コモンズ」(社会的共有財)と呼ばれる、労働者民衆がたたかいとってきた年金制度や医療・保険・福祉制度、労働者の諸権利などが、国家と資本によって破壊・剥奪されようとする動きが世界的に強まっているのは、まさにそのことを示すものであろう。

 ▼4節 社会変革の主体

 『新自由主義』の最終章は「オルタナティヴに向けて」という節で結ばれている。ここでは、新自由主義のもとで社会変革の新たな勢力が登場してきていることが指摘される。「『略奪による蓄積』との闘争は、まったく異なった社会的・政治的闘争の流れを形成しつつある」(P276)「こうした運動の多くは、一九八〇年代以前に支配的だった、労働者を基盤とした運動とは根本的に異なる」(P274)。ハーヴェイによれば、現在の民衆運動は次の二つに分裂している。「一方では、私が『拡大再生産にもとづく蓄積』と呼ぶものを中心とした運動が存在し、そこにおいては、賃労働の搾取や社会的賃金を決定づける諸条件が中心的な問題であった。他方では、『略奪による蓄積』に反対するさまざまな運動が存在する」(P279)。ここで言われる「拡大再生産にもとづく蓄積」とは、生産過程において労働者から搾取した剰余価値の一部あるいは全部を旧資本に追加して生産を拡張し、この過程をくり返すことで資本の規模をいっそう大きくしていくという「通常の」資本蓄積のことである。ハーヴェイは資本の蓄積を「拡大再生産にもとづく蓄積」と「略奪による蓄積」という二つの形態に分類し、このもとで発生する労働運動およびその他のさまざまな抵抗運動に関して、「こうした多様な運動の間にある有機的な結びつきを見出すことが、差し迫った理論的・実践的課題である」(P280)「拡大再生産内部の闘争と、略奪による蓄積に対抗する闘争との結びつきが真剣に探求される必要がある」(『ニュー・インペリアリズム』P180)と力を込めて主張する。
 ハーヴェイが新たな変革主体の登場に着目して問題を論じている点には賛同できる。またこの二つの闘争形態を結合させることを通じて社会の変革を構想していこうとする視点についても同様である。ハーヴェイは、労働者階級の闘争や労働運動はもはや進歩的ではなく意味を持たなくなったと主張する人々とは明確な一線を画している。また逆に、資本の収奪とたたかう被抑圧人民のさまざまな闘争に意義を見出そうとしない傾向にもくみしてはいない。これらの点は評価できる。
 だが次のようなハーヴェイの主張には賛成できない。「マルクス主義や共産主義的、左翼がこのようにプロレタリアを特権化し、その他の要素を排除したのは致命的な間違いだった。なぜなら資本主義の歴史と地理のなかでこの二つの闘争形態は有機的に結びつくべきものであり、左翼はこの二項の一方を完全に無視することによって、自らの力をそいでしまっただけでなく、その分析力と企画力をも衰えさせてしまったからである」(同前・P171)。左翼への「批判」としては、あまりに一面的である。一九六〇年代に米国では公民権運動が、またほぼ同時期のヨーロッパや日本では種々の社会的抑圧・差別に対する闘争が、新たな社会運動・階級闘争としてたたかわれた。環境問題や原発問題に対する取り組みもあった。共産主義者・左翼勢力はこうした闘争を重要視して、被抑圧人民・被差別民衆、地域住民とともに立ち上がったという経験が世界的にある。そしてそれは以降の左翼運動の内容を、綱領的にも路線的にも少なからず規定しつづけてきた。「左翼はこの二項の一方を完全に無視」したというのは独断にすぎる。
 またハーヴェイが提起する社会変革の構想の中身についても疑問がある。『新自由主義』最終章では「オルタナティブ」について述べられている。その内容は、「経済的・政治的・文化的公正と一体となった社会的平等に貢献する『開かれた民主主義』」というものであり、「新自由主義が説く自由よりもはるかに崇高な自由」の獲得、「新保守主義のもとで可能となるよりもはるかに有意義な統治システム」の構築というものである。ハーヴェイが、資本の蓄積とそのもとでの略奪の拡大を問題にしながら、資本の廃絶や、階級の解放を問題にせず、「開かれた民主主義」など、いわゆる社民的な内容にとどまっているのは、理論的にも整合性を欠いているし、実践的結論としてはきわめて不十分である。
 ただし、この点に関してのハーヴェイの主張は、その後、相当変化していったように思える。『新自由主義』のあとで出版された『資本の謎』、その最終章の第八章「何をなすべきか?誰がなすべきか?」では、主張のトーンは明らかに変わっており、問題が姿勢を立て直して論じられているように思える。そこでは、『新自由主義』ではあまり言及されていなかった資本主義の革命的変革の問題がテーマとしておし出され、「終わりなき複利的資本蓄積に敢然と挑戦し、それによって人類史の主要な原動力としての複利的資本蓄積を終わりにするような革命的政治が必要」(『資本の謎』P283)であることなどが提起されている。「資本蓄積を終わりにする」ということが主張されるに至って、問題は本来の軌道に回帰したとの感がする。ここでは事実上、社会主義論・共産主義論に関わる論点がいくつか提起されている。新自由主義に対する闘争は、つまるところ資本主義を打倒し、これに代わる新たな社会の展望をどのように実践的・理論的に切り開いていくのかという問題に帰結していくことを、ハーヴェイもまた示していると言える。
 以上で、ハーヴェイの三つの主張に関する評価を終わる。最後の「社会変革の主体」の問題については、「日本における新自由主義」について扱う予定の次回以降あらためて論じ、そこでハーヴェイの主張にも再度言及することにしたい。
             (つづく)

 ◆注…………

(注1)一八八四年、イギリスのロンドンでウエッブ夫妻らがフェビアン協会を設立した。ここを拠点に広められた社会改良主義思想をフェビアン社会主義と言う。フェビアン協会は階級闘争の否定、議会を通じた漸進的改革、福祉立法の制定、産業国有化などを主張した。第二次ボーア戦争(南アフリカの植民地化を狙ったイギリスによる侵略戦争)においては、協会の多数派は英帝の侵略的な帝国主義政策を支持した。その後、フェビアン社会主義はイギリス労働党の福祉国家政策の理論的支柱となった。
(注2)日本で出版されたハーヴェイの単著は次のものである。括弧内は日本での出版年を示す。『地理学基礎論』(一九七九年)、『都市と社会的不平等』(一九八〇年)、『空間編成の経済理論(上・下)』(一九八九・一九九〇年)、『都市の資本論』(一九九一年)、『ポストモダニティの条件』(一九九九年)、『空間の生産』(二〇〇〇年)、『ニュー・インペリアリズム』(二〇〇五年)、『パリ―モダニティの首都』(二〇〇六年)、『新自由主義』(二〇〇七年)、『ネオリベラリズムとは何か』(二〇〇七年)、『資本論入門』(二〇一一年)、『資本の謎』(二〇一二年)
(注3)『新自由主義』の付録には渡辺治による「日本の新自由主義――ハーヴェイ『新自由主義』に寄せて」という文章が掲載されている。文章の一部はハーヴェイの新自由主義論の特徴についてあてられており、この点を理解するうえで役に立つ。渡辺は「ハーヴェイの問題提起・仮説」として、その内容を次の八点でまとめている。以下その要約。@新自由主義を「一個の世界体制、現代資本主義の一時代」としてとらえている点A新自由主義化が「階級権力の復興あるいは創設という共通するねらいをもっていると主張している点」B「新自由主義への国民の『同意』の契機を重視し」「大衆的同意の形成を検討している点」C新自由主義をその理論と実践の両側面の総体としてとらえている点D「『新自由主義国家』が成立すると主張している点」E「新自由主義の『地理的不均等発展』を強調している点」F「新保守主義を新自由主義の矛盾に対する対応として捉えている」点G新自由主義は「資本主義経済発展をもたらさなかったどころか、それと矛盾するという点をくり返し強調している点」。有用な整理ではあるが、渡辺はここでハーヴェイの重要な「問題提起・仮説」である「略奪的蓄積」や「変革の主体」という問題についてはほとんどふれていない。
(注4)ハーヴェイはこうした議論に関する参考資料として、ネット上に掲載されている次のような文書を紹介している(英文)。
http://web.inter.nl.net/users/Paul.Treanor/neoliberalism.html(ポール・トレーナー『新自由主義―その起源、理論、定義』) http://homepages.uel.ac.uk/M.DeAngelis(マッシモ・デ・アンジェリス『原始的蓄積についてのマルクスの理論―提起されたその再解釈』)
(注5)二〇一二年十月二十一日付の朝日新聞日曜版・別冊には「変貌するアマゾン」と題する特集記事が組まれている。ここでは、高い経済成長をつづけるブラジルのアマゾンで大規模な開発が急速に進んでおり、これにともなって農民や先住民への迫害が多数起こっていることがリポートされている。以下その一部の要旨。――世界第三位の巨大ダム建設によって、多くの農民が何の補償もなく土地を強制的に取り上げられている。被害にあった農民の声。「今年二月十四日朝。カカオの収穫をしていると、電力会社のブルドーザーなど重機七、八台が入ってきて、カカオ畑も家も目の前でつぶされた。畑は四時間ほどで真っ平らになっていた」。ダム建設で約四万人の住民が影響を受ける。また大豆栽培や畜産の規模を拡大するために、保護区に住む先住民の土地が奪われている。先住民出身の弁護士の発言。「大規模農場主などが不法侵入し、脅迫や殺人が頻発している」。農場主たちは、馬に乗ってやってきてライフルを乱射し、畑を耕す先住民の大人や子どもたちを殺している。――まさに十六世紀のエンクロージャー(土地の囲い込み)さながらの光景だ。「現代の本源的蓄積」と呼ぶにふさわしい略奪的行為である。こうした暴力的な土地収奪はブラジル・アマゾンの森林地帯にとどまらず、世界中で起こっている。
(注6)福島をはじめ原発が押し付けられてきた地域にも、本源的蓄積の歴史と現実がある。『この国は原発事故から何を学んだのか』(小出裕章・二〇一二年)の次の一節は、原発立地地域で「生産者からの生産手段の分離過程」が、独特の姿・形をとりながら途切れなくつづいてきたことを物語っている。「明治期から昭和期の前半まで、政府は富国強兵政策のもとに農民の子どもたちを低賃金労働力に駆り出し、安上がりの軍人として徴用しました。戦後は高度経済成長を支える労働力として、多くの農民を村から引きはがし、都会に呼び寄せたのです。そして今、都会の快適な生活のために過疎地に原発を押し付け、あげくの果てに福島の人々はふるさとや家、家族団らんを失い、地元を支えた農・漁業などの産業すら奪われかねない状況になっています。この許しがたい不公平、不公正は福島の人々だけでなく、原発のあるすべての地域の人々に向けられたものです」。



 

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