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    独島は日本の「固有の領土」ではない

       日韓・日朝労働者人民の連帯を
                             
                           




 韓国の李明博大統領が八月十日、独島(ドクト/日本名・竹島)を訪問したことを直接のきっかけとして、独島の領有権をめぐる日韓の緊張が一挙に高まり、日本国内では釣魚諸島(日本名・尖閣諸島)の領有権をめぐる中国との対立とも連動して排外主義の嵐が吹き荒れている。独島は、韓国領の鬱陵島から八十七キロメートル、日本領の隠岐島から百五十七キロメートルの位置にある島である。独島は二つの険しい岩山の島と多くの岩礁からなる小島で、真水に乏しく、ほとんど草木も生育しない居住困難な島である。日本政府は、この独島を「日本固有の領土」であり、韓国による独島の支配は「不法占拠」だと主張してきた。この論文では、吹き荒れる排外主義の嵐と対決し、日韓・日朝労働者人民の連帯を発展させていくために、日露戦争に乗じた日本帝国主義の独島併合を批判し、日本政府の「固有の領土」論に反論を加え、日本の先進的労働者人民がとるべき原則的態度を提起していきたい。
 補注@ この論文において日本政府の主張の引用は、外務省HPに掲載されているリーフレット『竹島問題を理解するための10のポイント』からのものである。
補注A 鬱陵島と独島の日本における名称は、時代によって変遷している。鬱陵島は、江戸時代は「竹島」、明治時代は、「竹島」および「松島」を混用、一九〇五年以降は「鬱陵島」と呼ばれた。独島は、江戸時代には「松島」、明治時代は「松島」または「リアンクール島」など、一九〇五年以降は「竹島」と呼ばれた。
 補注B 歴史的経過については、「日本の独島=竹島放棄と領土編入」(半月城 二〇〇三年)など半月城氏の諸著作を主要に参照している。


  ●1章 日帝の独島略奪と第二次大戦後の戦後処理

 外務省は、独島=竹島を「日本固有の領土」だと主張してきたが、二章において述べるように明治政府は日露戦争(一九〇四年二月〜一九〇五年九月)の直前に至るまで独島の領有権を朝鮮(当時の大韓帝国)に対して主張したことはなく、日本の領土外と認識していた。しかし、明治政府は日露戦争に至る過程で独島をめぐる態度を根本的に転換し、ついには一九〇五年一月に独島を併合するに至る。当時、一八九四年の日清戦争に日本は勝利したが、ただちにロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉に直面し、朝鮮半島および中国東北部の支配権をめぐる日本とロシアの対立が一挙に強まっていった。そして、米国がフィリピン、英国がインド、日本が朝鮮を支配するという米英日の帝国主義的合意(桂・タフト協定や日英同盟など)を背景に、日本は一九〇四年二月に日露戦争に突入する。日本軍は開戦するやただちに仁川に上陸し、大韓帝国の首都・漢城を制圧した。それは、日露戦争において「局外中立」を宣言していた大韓帝国に対する侵略戦争であった。そして、武力による威嚇をもって日韓議定書および第一次日韓協約の締結を強制し、朝鮮の植民地化を開始した。日露戦争に勝利した日本は、一九〇五年十一月に第二次日韓協約(乙巳条約)の締結を強制し、大韓帝国の外交権を奪い、事実上朝鮮を植民地支配下に置いた。そして、一九一〇年八月二十九日に大韓帝国を併合した。
 この過程で日本が独島を併合した直接の目的は、日露戦争に勝利することにあった。一九〇四年六月に入ると、ロシア艦隊が朝鮮海峡に頻繁に出没し、日本の輸送船を撃沈するという事態が頻発した。これに対抗するため、海軍は監視や通信施設の増強をはかった。九州・中国地方の沿岸部、朝鮮東南部や済州島などに望楼が建設され、これらを結ぶ海底電信線が敷設されていった。この一部として、海軍は九月二日に鬱陵島に望楼を建設した。また独島にも望楼を建設することを計画化し、軍艦対馬による予備調査が行われた。このような中で、中井養三郎という猟師が、独島におけるアシカ猟を独占するために、一九〇四年九月に「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」を政府に提出した。「りゃんこ島」とは独島のことである。日本政府は、この中井の申請を認めるという形で、一九〇五年一月二十八日に独島の領土編入を閣議決定し、「竹島」と命名したのであった。しかし、日本政府はこの閣議決定にあたって関係国である朝鮮と何の協議も行わず、官報による告示すら行わなかった。わずかに、島根県が県告示四〇号で隠岐島司の所管にすると告示しただけであった。
 ここで日本政府が独島を領土編入した論理は、「無主地」である独島に一九〇三年から中井が移住したので、これを国際法上の占領と認めて日本の領土に編入したというものであった。しかし、そもそも十七世紀の「竹島一件」以降、日朝両国とも独島を日本の領土外と認識しており、李氏朝鮮は独島を鬱陵島とともに朝鮮に帰属する島としてきた。そして、徳川幕府も明治政府も日露戦争直前まで一度たりとも独島領有の意思を朝鮮に示したことはなかったのだ。さらに、独島は一九〇〇年の大韓帝国勅令四十一号によってあらためて韓国領に編入されており、決して「無主地」ではなかった。また、中井はアシカ猟のために年に数回独島に滞在しただけで、それは「移住」や「占領」と言えるものではなかった。外務省は現在、この一九〇五年の閣議決定を日清・日露戦争から韓国併合に至る朝鮮植民地化の歴史から切り離し、たまたま中井からの要請があったので認めたかのように説明している。しかし、この独島の略奪は、明らかに日露戦争の遂行のためのものであった。当時の外務省は、「時局ナレバコソ領土編入ヲ急要トスル」として、独島の領土編入を急いだのである。そして、この独島こそ、一九一〇年の韓国併合に至る過程で、日本が最初に併合した韓国の領土であった。外務省は、この一九〇五年の閣議決定に対して大韓帝国政府が抗議しなかったことをもって、韓国も独島を日本領と認識していたかのように言う。しかし、第一次日韓協約・第二次日韓協約によって大韓帝国はすでに外交権を奪われており、抗議しようとしても不可能な状況にあったのだ。まさにこの独島の領土併合は、日露戦争に乗じた不法な略奪であった。次に第二次大戦の戦後処理過程での独島の扱いを見ておきたい。
 一九四五年八月、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に対して無条件降伏した。そして、朝鮮、台湾、中国東北部、インドチャイナ半島など、日清・日露戦争から第二次大戦を通して日本が略奪した地域、植民地支配した地域のすべてを放棄することになった。そして、ポツダム宣言によって、「日本国の主権は本州、北海道、九州、四国、ならびに吾等の決定する諸小島」に限定された。この戦後処理の過程で、独島について言及した国際的な取り決めや指令としては、連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第六百七十六号(一九四六年一月二十六日)以外には存在しない。SCAPIN第六百七十六号は、@日本の範囲に含まれる地域、A日本の範囲からは除かれる地域、B日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域を指示し、独島については鬱陵島、済州島、北緯三十度以南の琉球(南西)列島、千島列島、歯舞群島、色丹島などとともにAの日本の範囲から除かれる地域の一つとして明示した。同時に、この指令では日本の主権が及ぶ範囲の最終決定は講和条約によって確定されるべきだという立場から、これらの地域の帰属についての最終決定ではないことも付記された。
 それでは、サンフランシスコ講和条約(一九五二年)では、独島はどう扱われたのか。ここにおいてアメリカの態度は二転三転する。韓国と日本のどちらとも関係を悪化させたくないというアメリカのあいまいな態度が、独島の領有権をめぐる戦後処理を混乱させたことは事実である。当初のアメリカ案では、独島は韓国領だとされた。しかし、日本がこれに抗議した結果、一九四九年十二月のアメリカ案では独島は日本領とされた。だが、これには独島を韓国領だとするイギリスが反対し、サンフランシスコ講和条約において独島の帰属については結局言及されなかった。すなわち、韓国・日本の両国とも独島=竹島の領有権を講和条約に明記することを要求したが、いずれの要求も拒否された結果となった。したがって、日本は講和条約を論拠に独島の領有権を主張することはできず、独島を日本の範囲から除外することを指示したSCAPIN第六百七十六号が、結果として独島の管轄についての最後の国際的な取り決めや指令となったのである。
 日本の外務省は、韓国が独立後、独島を実効支配してきたことを「不法占拠」と非難する。しかし、それはまったく根拠の無い非難である。独島が歴史的に日本に帰属するものではなく、一九〇〇年の大韓帝国勅令四十一号によってあらためて韓国領とされたものであること、独島を領土編入した日本による一九〇五年の閣議決定は、日露戦争に乗じて独島を不法に略奪したものであることについてはすでに述べた。それに加えて、以下の事実を明確にしておきたい。前述したように、独島は一九四六年のSCAPIN六百七十七号によって、日本の範囲から切り離され、朝鮮半島南半分を支配した米軍政庁の管轄下に置かれた。そして、一九四八年に成立した韓国政府は、ただちに独島を韓国領と定め、その管轄権を米軍政庁から引き継ぎ、独島を韓国の慶尚北道に組みこんだ。この一連の措置について、連合軍や日本政府から異議申し立ては行われておらず、国際法上も何ら問題のない合法的な措置として執行されたのであった。サンフランシスコ講和条約について、韓国は調印国ではなく、たとえ講和条約において独島が日本領とされたとしてもそれに拘束される立場にはない。まして講和条約においては、すでに韓国領となった独島を再び韓国から切り離し、日本領とすることなどまったく記載されていないのだ。外務省が、サンフランシスコ講和条約で竹島=独島が日本領だと承認されたにもかかわらず、韓国が一九五二年に李承晩ラインを一方的に設定して不法占拠したと主張していることには、何の根拠もありはしない。韓国としては、一九四八年に独島をあらためて韓国領だと明確にし、米軍政庁からその管轄権を引き継ぎ、かつサンフランシスコ講和条約においてもその変更を要求されなかった以上、独島を実効支配しつづけてきたことは当然であった。


  ●2章 独島は日本の「固有の領土」ではない

 次に、日本政府が以上のような独島の略奪やその領有権を正当化するために主張する「固有の領土」論への批判を提起しておきたい。日本政府の「固有の領土」論は、不都合な資料を黙殺し、歴史的事実を歪曲することによって成り立っている。外務省は、「韓国が古くから竹島を認識していたという証拠はありません」と言い、「我が国が『松島』と『竹島』の存在を古くから認知していたことは各種の地図や文献からも確認できます」としている。しかし、朝鮮では李氏朝鮮の「世宗実録地理誌」(一四五四年)や「新増東国輿地勝覧」(一五三一年)などにおいて、「鬱陵島」と「干山島」の二島の存在を明記しており、韓国はこの「干山島」が独島だと主張してきた。ただし、この干山島については独島ではなく、鬱陵島に近接する竹嶼(チュクソ)島だとする説もあり、確定しているわけではない。他方、日本においては十七世紀末に至るまで、徳川幕府は独島の存在を認識していなかった可能性が高い。もっとも、どちらが早く独島の存在を認識していたのかが、領有権の直接の根拠となるわけではない。
 日本政府の「固有の領土」論は、以下の主張を基礎にしている。「我が国は、江戸時代初めの十七世紀初頭、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛が、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の『竹島』)への渡海免許を受けて以降、両家は交代で毎年一回鬱陵島へ渡航し、あわびの採取やあしかの捕獲、そして竹などの樹木の伐採等に従事しました。この際、竹島は、鬱陵島に渡る船がかり及び魚採地として利用されており、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる十七世紀半ばには、竹島の領有権を確立していました」と。しかし、当時は朝鮮の漁民なども鬱陵島や独島の周辺での漁業などに従事していた。大谷家や村川家が年に一度渡海して鬱陵島や独島を利用していたとしても、それをもって「竹島の領有権を確立していました」などと到底言うことはできない。
 鬱陵島や独島の帰属に関連する江戸時代の最も重要な事件は、一六九二年から一六九六年の「竹島一件」と呼ばれた日朝間での「竹島」(鬱陵島)の帰属をめぐる紛争(外交交渉)であった。朝鮮は、朝鮮領である「竹島」への日本人の渡海禁止を幕府に要求した。対応を迫られた幕府は鳥取藩に対して、@「竹島」はいつから因幡国・伯耆国に附属するようになったのか、A「竹島」以外に因幡国・伯耆国に附属する島はあるのかなどを問い合わせた。幕府の質問に対して鳥取藩は、「竹島」「松島」は因幡国・伯耆国に附属する島ではなく、それ以外にも両国に附属する島は無いと返答した(「竹嶋ハ因幡伯耆附属ニテハ無御座候」「竹嶋松嶋其外両国ヘ附属ノ島無御座候」)。この返答を受けて幕府は対応を検討した結果、「竹島」は朝鮮領であると判断して放棄した。そして、一六九六年に鳥取藩に対して「竹島」への渡海禁止を申しわたし、「竹島一件」は終結した。外務省は、この過程で独島については幕府による渡海禁止の措置が取られなかったとして、「竹島一件」において日本は鬱陵島は放棄したが、独島は放棄していないと強弁している。しかし、この「竹島一件」の以前にはそもそも幕府は独島の存在すら認識していなかったのであり、「竹島」「松島」は因幡国・伯耆国に附属する島ではなく、それ以外にも両国に附属する島は無いという鳥取藩の返答からしても、独島は放棄していないという外務省の主張には余りにも無理がある。
 この「竹島一件」以降、幕府は明治維新に至るまで鬱陵島と独島は日本領ではないと認識してきたと思われる。これを反映して、江戸時代の代表的な官撰地図は、すべてがこの二島を日本の領土外として扱った。伊能忠敬が作成した有名な「大日本沿海輿地全図」などの多くの地図もまたすべてこの二島を記載していない。また、独島を日本領だとする幕府の文献も存在しない。外務省はこれらの事実を黙殺し、わずかな例外である民撰の「改正日本輿地路程全図」(一七七九年初版)だけを意図的に取り上げ、あたかも江戸時代の地図では独島が日本領として扱われていたかのように事実を歪曲してきたのである。「改正日本輿地路程全図」にしても、独島を日本領として扱ったのは初版だけで、それ以降は独島を日本領土外としているのだ。
 それでは、一八六八年に成立した明治政府はどうだったのか。明治政府は一八六九年、朝鮮の内情を調査するために外務省の高官を朝鮮に派遣した。その報告書「朝鮮国交際始末内探書」では、「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」と記載されており、「竹島一件」の結果を受けて改めて「竹島」「松島」を朝鮮領だと報告している。
 さらに決定的なことは、次の事実である。一八七六年、内務省は地籍編纂のために、島根県に対して「竹島」(鬱陵島)の帰属について調査と資料の提出を要請した。これへの返答として島根県から内務省に提出された「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に対して、当時の最高の権力機構である太政官は一八七七年三月二九日、「竹島外一島は日本領ではなく、日本と関係がないことと心得よ」(「竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事」)という太政官指令を発令した。この指令は、内務省を通して島根県に伝えられた。この経過は、当時の太政官関係の公文書を収録した「太政類典」に、「日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」として記録されている。ここで言う「竹島」は鬱陵島のことで、「外一島」とは島根県が添付した付属書などから松島(独島)のことである。島根県が「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に添付した説明資料「由来の概略」では、「竹島」の外に「松島」と呼ばれる島があることを説明し、「磯竹島略図」をあわせて添付した。この地図では、「竹島」と「松島」と隠岐島の三島だけが描かれており、「外一島」が「松島」と呼ばれる島であること、その位置および二つの島と多くの岩礁からなる形状からして「松島」が独島であることは明らかであった。こうして、明治政府は独島が日本の領土ではないことを明確にしたのである。なお、現在の外務省はこの太政官指令についてまったく黙殺している。不都合な資料は黙殺するという典型的な例だと言える。
 着目すべきことは、朝鮮国交際始末内探書や太政官指令において、「竹島」(鬱陵島)だけではなく、「松島」(独島)もまた日本領ではないと明確にしたことにある。これを反映して、明治政府が国家事業として作成した「大日本管轄分地図」には、両島は記載されていない。さらに日本の海軍が編纂した一八九二年の「日本水路誌」に鬱陵島と独島は記載されておらず、「朝鮮水路誌」(一八九四年版・九九年版)にはこの二島が記載されている。明治政府が両島を朝鮮領と認識していたことは明らかであった。
 他方で大韓帝国政府は一九〇〇年十月二十五日、勅令四十一号を発令した。ここにおいて大韓帝国政府は、鬱陵島を鬱島と改称し、鬱郡を設置した。そして、鬱郡郡主の管轄区域として、鬱陵全島、竹島、石島を明示している。ここで言う竹島は鬱陵島に近い小島である竹嶼(チュクソ)島、石島は独島である。こうして大韓帝国は、独島の領有を公式化し、官報に記載することによって国内外に公表したのであった。
 以上から明らかなように、歴史的に見て独島は日本の「固有の領土」だとする日本政府の主張はまったく成り立たない。確かに、産業革命によって資本主義が飛躍的に発展し、ブルジョア国家が確立される以前の前近代においては、領土の概念はあいまいなものであった。また、文献や資料についても、あいまいなものが多い。しかし、日本政府が独島=竹島を日本の「固有の領土」だと主張し、それをもって一九〇五年の独島略奪、さらに現在の領有権の主張を正当化し、圧倒的多数の労働者人民がそれを信じこまされているという現状において、この「固有の領土」論に対して歴史的な検討を加え、批判を明確にしていくことは不可欠なのである。


  ●3章 日帝足下の先進的労働者人民の原則的態度

 独島の領有権をめぐる現在の日韓両国の緊張は、直接的には韓国の李明博大統領が八月十日、歴代の韓国大統領として初めて独島を訪問したことがきっかけであった。さらに李明博は八月十四日、「(天皇が)韓国を訪問したいならば、独立運動をして亡くなられた方々のもとを訪れ、心から謝罪するべきだ」と発言し、八月十九日には独島が韓国領であることを誇示する李明博直筆の石碑の除幕式を独島で行った。これに対して日本政府は激しく抗議し、日韓関係は一挙に緊張してきた。李明博に抗議する野田首相の親書の受け取りを韓国政府は拒否し、日本政府はこの親書を返却しようとした韓国政府の代表の外務省への立ち入りを拒否した。そして、日本政府は、独島=竹島の領有権問題を国際司法裁判所(ICJ)に日韓共同で提訴することを提案、韓国がこれを拒否すると単独で提訴することを決定した。他方で韓国は、日本軍性奴隷とされた被害女性の賠償請求権をめぐって、一九六五年に締結された「日韓請求権協定」にもとづく紛争解決手続きとして仲裁委員会の設置を提案、日本政府はこれを拒否すると表明した。
 この事態の背景には、まず日本政府が独島を日本領だとする主張をこの数年強化し、再び独島を略奪しようとする意図を明確にしてきたことがある。二〇〇五年三月、島根県議会は一九〇五年の独島の日本併合から百年にあたって、独島併合の閣議決定を島根県知事が告示した二月二十二日を「竹島の日」とすることを決定した。これを受ける形で、日本政府は小中学校の教科書において「竹島は日本固有の領土」という記述を強化し、ことあるごとに韓国による独島領有に対する抗議をくり返してきた。さらにこの事態の背景には、日本政府がかつての朝鮮植民地支配に対する国家としての謝罪を行おうとはせず、日本軍性奴隷とされた被害女性たちをはじめとした朝鮮植民地支配の犠牲者への真摯な謝罪と賠償を拒否してきたこと、これに対する韓国における批判の高まりがある。韓国の被害女性たちは、ソウルの日本大使館前で毎週水曜日、一九九二年一月から二十年以上にわたって日本政府に抗議する水曜行動を行い、アジア女性基金による欺まん的な「見舞金」の受け取りを拒否してきた。そして、二〇一一年十二月十九日には韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)によってソウルの日本大使館前に「平和の碑」少女像が建立され、日々日本大使館をにらみつけている。そして、このような朝鮮植民地支配の謝罪と賠償を要求する闘いを反映して、韓国憲法裁判所は昨年八月三十日、日本軍性奴隷とされた被害女性たちの賠償請求権をめぐって、韓国政府が解決のための外交的措置(日韓請求権協定にもとづく紛争解決手続き)をとってこなかったことを憲法違反とする画期的な判決を行った。これによって李明博政権は、日本に対してあらためて植民地支配の謝罪と犠牲者への賠償を要求せざるをえなくなった。李明博は、これまで「未来志向の日韓関係」などと称して、植民地支配の犠牲者たちの血のでるような要求や闘いをほとんど黙殺してきた。このような李明博が態度を急変させた理由は、「反日」をおしだすことによって、低迷する支持率を何とか回復させたいということにある。しかし、李明博の意図が何であれ、日本の先進的労働者人民がしっかりととらえておくべきことは、その背後にある韓国労働者人民のかつての植民地支配に対する燃え上がる怒り、日本政府に対する国家としての謝罪と賠償の要求の高まりである。このような中で、独島=竹島の領有権をめぐって日本の先進的労働者人民がとるべき原則的な態度を以下のように提起する。
 その第一は、日本政府に対して一九〇五年の閣議決定による独島の略奪を謝罪し、独島を「日本固有の領土」だとする主張を放棄するように要求することにある。独島が歴史的に日本領ではないことは明らかである。そして、一九〇五年の独島の領土編入は、日本帝国主義による不法な略奪であった。これを徹底して批判し、独島を再び略奪しようとするあらゆる動きと対決していかねばならない。また、日本帝国主義は現在、日清戦争中の一八九五年一月に中国から略奪した釣魚諸島を実効支配し、その国有化を強行するなどますます中国の労働者人民との対立を深めている。独島であれ釣魚諸島であれ、かつてのアジア植民地支配と侵略戦争の過程での略奪を日本政府に謝罪させ、領有権の主張を放棄させていくために闘わねばならない。
 その第二は、日本政府に対してかつての日本帝国主義による朝鮮植民地支配の謝罪、犠牲者の尊厳と正義の回復、国家としての賠償を要求してたたかうことにある。日本政府は、独島の領有権を主張するために、一九〇五年の独島の併合を日清・日露戦争から第二次大戦に至る過程での日本帝国主義によるアジア諸国の領土略奪、植民地支配の歴史から徹底して切り離そうとしてきた。このような歴史の歪曲とごまかしは断じて許されない。独島は日本が最初に併合した朝鮮の領土であり、独島の略奪は一九一〇年の韓国併合へと至る朝鮮植民地化のまぎれもない一部なのだ。韓国の労働者人民にとって独島問題は、日本政府と日本の労働者人民がかつての朝鮮植民地支配にどのような態度を取るのかを示す試金石とも言うべき位置をもってきたのである。まさにそれは、歴史観を問うものなのだ。だからこそ、日本政府が独島の領有権を主張しつづけることは、朝鮮植民地支配の歴史を歪曲・正当化するものとして批判されてきたのである。日本の労働者人民もまた、再びの独島略奪を意図する日本政府に対する闘いを朝鮮植民地支配の謝罪と犠牲者への賠償を要求する闘いと結びつけて組織していかねばならない。
 その第三は、労働者人民を排外主義から解き放つために努力し、排外主義勢力と断固として闘うことにある。小・中・高等学校において独島を日本固有の領土とする教育が徹底して行われ、マスコミがこぞって政府による排外主義煽動に同調している状況のもとで、独島の領有権をめぐって排外主義が労働者人民のなかに深く浸透している。先進的労働者人民は、この圧倒的な孤立のなかから反撃を組織していかねばならない。韓国の労働者人民からの日本政府への批判に真摯に向き合い、日本による独島略奪の歴史を学び、まず自らの確信を形成していこう。そして、職場や学園・地域において、広範な大衆を排外主義から分岐させていくために闘おう。このことを基礎に、活性化する排外主義勢力と断固として対決していかねばならない。在日への襲撃をくり返してきた在特会ら排外主義差別者集団は「竹島の奪還」を叫び、この機に乗じて再び活動を活発化させてきた。また、次の総選挙で国政に進出しようとしている橋下・大阪維新の会もまた、橋下が李明博の独島訪問を「不法上陸」と非難し、また日本軍性奴隷問題をめぐって日本軍による強制はなかったと公言し、この二十年間にわたって歴代の内閣が踏襲してきた一九九三年の河野官房長官談話の撤回を主張するなど、その排外主義をさらにむきだしにしてきている。これらの排外主義勢力と徹底して対決していかねばならない。
 以上を前提として、次のふたつの点を提起しておきたい。まず、日本政府の独島問題の国際司法裁判所(ICJ)への提訴についてである。日本政府は、韓国がICJへの提訴を一貫して拒否してきたことを承知のうえで、韓国に対して共同提訴を提案した。そして、韓国が共同提訴を拒否したので、単独で提訴するとしている。領有権問題でのICJによる審判は、当事国のすべてが同意しないかぎり開始されない。にもかかわらず、日本がICJへの提訴を行う目的は、「韓国がICJへの提訴を拒否するのは、独島を韓国領だとする韓国の主張が国際的に通用しないことを韓国政府が認識しているからだ」とする、悪意に満ちた宣伝を国内外において行うためのものである。われわれは歴史的に独島は日本に帰属するのものではなく、日本帝国主義による一九〇五年の略奪・併合を認めないということに加えて、次の理由から独島の領有権問題をめぐる解決をICJにゆだねることには反対する。日本国内における裁判と同様に、ICJにおける審判もまた「法の不遡及(ふそきゅう)」を原則とするものである。「法の不遡及」とは、実行時に適法であった行為を事後に定めた法令によって遡って違法とし処罰することを禁止するという原則である。この原則からすれば、一九〇五年の日本による独島併合は、現在の国際法によってではなく、二十世紀初頭の当時の国際法を基準として適法かどうか判断されることになる。当時の国際法(万国公法)とは、現在では「狼の国際法」とも呼ばれるものであった。すなわち、欧米諸国によるアジア・アフリカ・中南米などの植民地支配を合法化し、これら帝国主義諸国の狼どもによる植民地争奪戦に一定のルールをつくるとことを本質とするものだったのである。そこでは、植民地化される諸国や民族の権利などまったく考慮すらされていない。日本政府が、独島や釣魚諸島の略奪の法的根拠とする「無主地先占論」もまたその典型であった。この「無主地先占論」への詳しい批判は、『戦旗』(二〇一〇年十一月五日号)の釣魚諸島問題についての論文を参照されたい。このような当時の国際法からすれば、日本帝国主義による一九一〇年の韓国併合すら適法とされかねないものであって、韓国がICJに解決をゆだねることに反対するのは当然のことなのだ。
 最後に、次の点を提起しておきたい。この数年、日本の大衆運動の内部では独島問題や釣魚諸島問題をめぐって、「国家間の領有権争いに労働者人民が巻き込まれるべきではない」という立場からの主張がさまざまなところで影響力を拡大し、とりわけ釣魚諸島については日中両国による「共同管理」などの提案がなされてきた。そのなかには、資本主義大国化する中国への反発、世界各地で発生する国家間の領有権争いへの嫌悪感、日本政府が国家のもとに労働者人民を排外主義的に統合しようとすることに対して、グローバリゼーションの時代を背景に形成されてきた国家を相対化するという意識に依拠して対抗しようとする志向など、さまざまな要素が混在している。
 われわれもまた、プロレタリアートに国境はないこと、プロレタリアートが民族や国境によって分断され、対立させられることに反対し、プロレタリアートの民族や国境を越えた連帯と統一を促進していくことを共産主義者と先進的労働者人民の原則的立場だと確信するものである。しかし、それでは現在の帝国主義の時代にあって、プロレタリアートの民族と国境を越えた連帯と統一はいかにして実現されるのか。日本のような帝国主義抑圧民族のプロレタリアートにとっては、自国帝国主義による侵略や略奪、他民族の抑圧を徹底して批判し、これと実践的にたたかうことこそが決定的に重要なのだ。「国家間の領有権争いに労働者人民がまきこまれるべきではない」という主張の誤りは、日本帝国主義による独島や釣魚諸島の略奪への批判をあいまいにし、日本政府に対して略奪を謝罪させ、独島や釣魚諸島の領有権の主張を放棄させるために闘うことが一切の前提となることを否定することにある。独島の略奪であれ、釣魚諸島の略奪であれ、日本帝国主義による植民地支配と侵略戦争、その過程での領土の略奪を徹底して批判すること、そのことを通してしか朝鮮や中国の人民からの信頼をかちえることはできない。すなわち、われわれの国際主義は、プロレタリアートに国境はないというプロレタリアートの国際性に依拠することと反帝国主義という立場をしっかりと結合させたものでなければならないのだ。そのことは、アジア諸国・地域の労働者人民との国際連帯、反帝国際共同闘争を推進してきたわれわれにとって、決してゆずることのできない立場である。吹き荒れる排外主義の嵐と対決し、プロレタリア国際主義の旗を日本の階級闘争のなかにしっかりとうちたてよう。



 

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