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   ■米日帝国主義による被爆実態の隠蔽

               
核兵器の廃絶・全原発の廃炉を
       
 


  ●1章 被曝隠しのための福島被曝調査

 二〇一一年三月十一日、史上最悪レベルの原発事故が発生した。これによって膨大な量の放射性物質が環境に流出し、多くの人に被曝を強い続けている。これに対して福島県は、県民健康管理調査を開始し、大規模な被曝調査をおこなっている。しかし、これは「被ばくの影響なし」という結論ありきの調査であることが次々と明らかになりつつある。
 十一年十月には、調査について「専門家」が意見を交わす検討委員会で、事前の見解をすり合わせる「秘密会」の存在が明らかになった。この秘密会は、検討委員会とは別の会場で開かれ、配布資料は回収され、出席者には県が口止めするなど「保秘」が徹底された、文字通りの「秘密会」であった。九月十一日に福島市内の公共施設で開いた第八回検討委の直前にも県庁内でこの会議を開いていた。同日は健康管理調査の一環である子供の甲状腺検査で甲状腺がん患者が初めて確認されたことを受け、委員らは「原発事故とがん発生の因果関係があるとは思われない」などの見解を確認。その上で、検討委で委員が事故との関係をあえて質問し、調査を担当した県立医大がそれに答えるという「シナリオ」も話し合ったという。(一二年十月三日付『毎日新聞』)
 十八歳以下の約三十六万人を対象とした大規模な甲状腺検査では、三人のがん患者と七人の疑いが確認されたが、県は「被ばくとの因果関係は考えにくい」と原発事故との関係を否定している。しかし、この甲状腺検査もデタラメなものだ。日本乳腺甲状腺超音波診断会議などが編集する「甲状腺超音波診断ガイドブック」は、診察項目として十二項目をあげている。福島の検査を委託されている福島県立医科大は住民説明会でこのガイドブックを引用し、「高い精度の検査だ」と強調していた。しかし、県の検査ではこの十二項目のうち「甲状腺の内部変化」「血流の状態」などの四項目を省いていたことが明らかになったのだ。北海道がんセンターの西尾正道名誉医院長は、「血流の状態の確認をしないと、小さな膿疱(のうほう)と血管の区別はできにくく、精度が高いとはいえない。大きな病気がないかどうか簡単に見るだけの内容だ」と福島県調査を批判している。(一三年四月二十二日付『毎日新聞』)
 この福島県民健康管理調査は、日米の広島と長崎での被爆者調査の流れを引き継いでいる。福島県民健康管理調査検討委員会座長を務める山下俊一・福島県立医大副学長は、長崎の放射線影響研究所所長として、被爆者調査にあたってきた人物である。
 広島、長崎での被爆者調査は、被爆者の一切の人権を踏みにじり、帝国主義の核戦略の利害のためにのみおこなわれてきた。それはまた、徹底して放射能の人体への影響―低線量被曝・内部被曝を否定したものであった。

  ●2章 ファーレル発言からはじまる被爆・被曝の隠蔽

 原発事故直後から、当時の枝野官房長官は「ただちに影響はない」と繰り返し、原発事故による放射能の影響を否定してみせた。これを受けて、御用学者を使ったマスコミによる大々的な放射能安全キャンペーンがふりまかれた。
 六十八年前の広島と長崎への原爆投下直後にも、これと同じことがおこなわれている。
 一九四五年九月七日、原爆調査のために来日したマンハッタン計画の副責任者であるファーレル陸軍准将は、東京の帝国ホテルで連合国特派員向けに記者会見を開き、次のように発言した。「広島、長崎では死ぬべきものは死んでしまい、九月上旬現在、原爆放射能のために苦しんでいるものは皆無だ」。そして、「残留放射能の危険を防ぐために十分な高度で爆発させたため、原爆放射能の問題はあり得ない」と説明した。
 この記者会見は、広島と長崎の被爆の実情を伝えた欧米の新聞報道に反論したものであった。九月二日の日本政府・参謀本部代表による降伏文書調印を取材するために、全世界からマスコミが訪日した。このうち、欧米の十五名の記者が広島と長崎に入り、被爆の惨状を全世界に発信した。ウィルフレゥド・バーチェストは、九月三日に広島に到着。彼の記事は五日付『ロンドン・デーリー・エクスプレス』紙の一面を飾った。そこでは次のように広島の惨状が伝えられている。
 「原爆が投下された時には負傷しなかった人が、摩訶不思議な後遺症で亡くなっていく。明確な理由もなく、健康が損なわれ、食欲をなくし、髪が抜け、紫色の斑点が体に現れる。そして、耳や鼻、口から出血するのである。……重傷者が一万三千人いるが、日々百人が亡くなっており、今後全員亡くなってしまうだろう」。
 ファーレル記者会見に出席していたバーチェストが、広島の状況の説明を求めたところ、ファーレルは「目撃された病状は、原爆の爆発時に受けた爆風や火傷によるもので、それはほかのいかなる爆弾の爆発時にも発生するものである」と答えた。さらに食い下がるバーチェストに対し、「君は日本のプロパガンダの犠牲になったようだ」と述べたという。
 ファーレルは九月十二日にも再度、記者会見をおこなった。米帝の思惑通り、このファーレルの記者会見から以降、欧米のメディアからは原爆の残忍さを伝える報道は消えていく。一方でファーレル声明に追随する報道が増えていく。「死傷者の最多数は、爆風と熱線によるものと思われ、日本側の報道にあるように放射能が原因で市民が亡くなった例は見つからなかった。……原爆が長期間にわたって放射能による死を引き起こすという証拠は見られず、広島は現在、まったく安全である」(九月十二日付『バークレー・デイリー・ガゼット』紙)。
 米帝にとっては、この戦争は「民主主義とファシズムとの戦争」でなければならなかった。「民主主義」をもって戦争を正当化する以上、非人道的な兵器が使用されたことは、絶対に認めることはできない。だからこそ、放射能の影響を否定し、原爆を破壊力の大きな兵器としながらも、通常兵器の延長上に位置づけようとしたのである。(もちろん、通常兵器が人道的でない訳ではないのだが)。
 しかし、アメリカ陸軍や政府が、決して残留放射能の人体への影響を知らなかったわけではない。広島と長崎への原爆投下に先立つ四五年七月十六日、アラモゴード砂漠で、同じプルトニウム型の原爆実験がおこなわれた。ウォーレン大佐からグローヴス少佐へのこの実験の報告では、次のように述べられている。
 「観測班の人間は危険を承知で作業したが、多くの者がかなり大量に被曝した。
 三・二キロメートル以内で被曝した人のなかには、死亡者または重傷者がでるおそれがある。四・八キロメートルの距離にある農家の扉が吹き飛んでしまった。調査した住宅地域では、場所によっては、放射性降下物によってきわめて重大な潜在的危険が残されている」。
 ファーレルの記者会見から以降、アメリカ帝国主義の核・軍事戦略と結び付いて、放射能の人体への影響―低線量被爆、内部被爆の隠蔽が、大々的に推し進められていく。そしてこれは、広島、長崎の被爆者の調査を通して、「科学的」に正当化されていく。

  ●3章 日米による被爆者調査とABCC

  ▼3章―1節 日本軍による調査と七三一部隊

 原爆投下直後から、日本軍を中心とした調査団が広島と長崎に入っている。八月八日には、大本営調査団が広島に派遣された。この中心メンバーは、陸軍ニ号作戦という原爆開発計画を担った仁科芳雄ら理化学研究所に所属していた。日本政府が「新型爆弾」と国内には原爆投下を隠蔽し続ける中、この調査団は八月十日には調査結果において「原子爆弾ナリト認ム」と結論づけている。
 また、陸軍省医務局は、陸軍軍医学校に命じて、軍医を中心とする陸軍省広島災害調査班を編成。広島の調査を開始している。海軍も、海軍広島調査団、呉鎮守府の広島と長崎調査などをおこなっている。他には、各帝国大学の医学部や医科大学、医専などが軍の要請を受けて、広島と長崎に調査団を派遣している。
 この日本軍を中心とする原爆調査は、「核兵器の効果と被害の実情把握、核兵器の防御、その後の作戦の樹立を目的」としたもの、すなわち、戦争継続のためのものであった。しかし、八月十日の旧日帝の条件付きポツダム宣言受入れ通告から十五日の敗戦を境として、この性格はアメリカの原爆調査への協力へと大きく変化していく。すでに九月三日には、日本政府代表が、アメリカ占領軍前進総司令部へ「原爆被害報告書」を提出している。
 九月十四日、旧日本軍の解体を受けて、原爆調査は、文部省科学教育局の下の「学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会」へと一本化されていく。日本軍からはじまる二年以上かけた調査は、百八十一冊、一万ページの報告書にまとめられた。そして、日本側によって全てが英語に翻訳され、アメリカに渡された。
 元陸軍軍医少佐で終戦時は大本営に所属していた三木輝雄氏は、NHKの取材に対して、次のようにアメリカに協力した理由を語っている。「いずれ(アメリカから)要求があるだろう。その時はどうせ持っていかなくてはならない。早く持っていったほうが心証がいいだろうと、要求がないうちに持っていった。七三一(部隊)のこともあるでしょうね」「新しい兵器を持てば、その威力は誰でも知りたいものですよ。カードでいえば、有効なカードはあまりないんで、原爆のことは、かなり有力なカードだったんでしょうね」(二〇一一年放映「封印された原爆報告書」)。
 七三一部隊とは、旧日本軍の生物戦部隊の本部(正式名「関東軍防疫給水部」)で、中国のハルビン近郊の平房(ピョンファン)にあった。陸軍軍医学校防疫研究部と五つの防疫給水部とともに生物・化学兵器の効果を確認するために「満州」で「マルタ」と呼ぶ捕虜を使った人体実験をおこない、ソ連や中国に対する細菌戦もおこなっている。
 被爆直後の原爆調査を担った陸軍省医務局―陸軍軍医学校はこの七三一部隊を管轄し、七三一の生体実験の資料は陸軍軍医学校で研究されていた。
 軍の要請を受けて原爆調査に入った各帝国大学医学部、医科大学、医専もこの生物戦部隊と深くかかわっている。金沢医科大学を率いて原爆調査に参加した石川太刀雄は、次のように七三一部隊に関わっている。
 石川が「七三一部隊に加わったのは一九三八年、京大講師の時で、一九四三年七月に金大医学部の前身、金沢医大の病理学の教授として日本に戻った。この時に、部隊で解剖した人から採った各種の標本を大量に持ち帰った。そして帰国後、この標本を使い日本病理学会等で数多くの論文を発表した。……戦後、石川は一九六二年に日本学術会議の会員に選ばれたり、また金沢大学がん研究所の所長などを務めた」(常石敬一『731部隊 生物兵器犯罪の真実』)。
 七三一部隊だけではない。陸軍省医務局―陸軍病院は、軍医養成のため恒常的に「手術演習」などに生きた中国人捕虜などを使っていたことが明らかになっている。一九八九年には、東京都新宿区の陸軍軍医学校の跡地から、この被害者のものと思われる人骨約百体が発見されている。また、西部軍から依頼されて八月十三日に長崎に原爆調査に入った九州帝国大学医学部は、一九四四年の五月から六月にかけて、西部軍司令部の要請を受けてアメリカ軍捕虜四十人の生体解剖実験をおこなっている。
 「吾等ノ捕虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加エラルベシ」(ポツダム宣言第一〇条)と、当初、連合国側は、捕虜虐待などの戦争犯罪には厳しい姿勢で臨むことを確認していた。
 先に見た石川太刀雄のように、七三一部隊員は、その研究成果をアメリカに引き渡すことで免責され、戦後も医学界での地位を保持しつづけた(九州帝国大学「生体解剖事件」については、横浜戦犯法廷で絞首刑五名、終身刑四名の判決が下されている)。自らの戦犯追及を恐れる日本軍は、被爆調査も「有力なカード」(三木輝雄氏)としてアメリカとの取引材料にしようとしたのである。多くの労働者・民衆の悲惨な被爆死、被爆を利用することで、自らの延命をはかったのだ。
 国際科学委員会報告『細菌戦黒書』(藤目ゆき編『国連軍の犯罪―民衆・女性から見た朝鮮戦争』所収)では、七三一部隊の人体実験の成果を引き継いだアメリカが、朝鮮戦争の際に、生物兵器を中国や朝鮮民主主義人民共和国に対して使用したと報告されている。後に見るように、日本軍の被爆調査も、アメリカの核・軍事戦略へと利用され、引き継がれていく。

  ▼3章―2節 米軍調査の開始と日本の協力

 アメリカ側の調査は、九月上旬から開始される。先に見た原爆放射線の影響を否定する記者会見をおこなったファーレル准将とニューマン准将を指揮官とし、陸軍マンハッタン管区調査団、海軍放射能研究陣、太平洋陸軍司令部軍医団から編成されたものである。
 この編成からわかるように、軍事目的のための調査であった。具体的には、1)広島市、長崎市の原爆被爆者に対する全般的影響に関する医学的調査、特に放射能に起因する影響の調査、2)広島市、長崎市の建物などへの物理的影響の調査、3)日本における原爆製造計画と原子力研究状況の調査、および朝鮮を含む鉱物学的調査―を目的としていた。そして、マンハッタン計画医学部長ウォーレン大佐を班長とする広島班と長崎班、ファーマン大佐を班長とする東京班が調査をおこなった。
 しかし、このアメリカ軍の調査は、決定的な限界を持っていた。それは、調査の開始が原爆投下から一カ月も経ってからになり、原爆投下直後の軍事的に重要なデータが不足していたことである。「日本人がすでに死傷者の調査団を組織していることが望まれる」(オーターソン大佐からデニット准将への四五年八月十八日の覚書『原爆の効果による障害の調査研究』)。米軍にとっても、何としても日本の協力を得ることが必要だった。
 この米軍の要求に応えるものとして、九月十四日、文部省科学教育局の下に、陸軍中将として被爆者調査にあたった都築正男・東京帝国大学教授を中心にした「学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会」が、調査組織として編成される。そして、米軍主導の日米合同調査団(「日本において原爆の効果を調査するための軍合同委員会」)に参加し、被爆者調査にあたっていく。
 一九五一年、日本学術会議・原子爆弾災害調査報告書刊行委員会は、『原子爆弾災害調査報告書』を発行する。医学科会長の都築正男は、医学科報告書の「はしがき」の中で、次のように述べている。
 「原子爆弾災害調査研究成績の発表に関しては当初色々と困難な事情にあったが、我国研究者の学術に対する真意と熱心とが遂に認められ、昭和二十一年十二月に至り、我邦研究者の学術論文は印刷発表して差支えないことになったのは同慶に堪えないところである」。
 GHQ占領下でアメリカは、プレスコードをひき、事前検閲による厳しい原爆報道の規制をおこなっている。このような中で都築は、「真意と熱心とが遂に認められ」てこれらの論文の発表が許されたと言っているのだ。しかしもちろん、「真意と熱心」のために発表ができたわけではない。
 「日本人に意欲をもたせる追加手段として、彼らに彼らの論文の一部が公表のために許可されると今や告げることができる。日本人の共同作業が高い水準のものであり、彼らが貢献を続けることが望まれる」(一九四六年十一月 ABCC調査団)。この調査が、被爆者の立場に立ったものではなく、米帝の軍事的・政治的利益に沿ったものであるからこそ、これらの論文の発表が許されたのだ。
 事実、ビキニ核実験に対する国際的批判が高まる中、国連科学委員会に参加した都築正男らは、核実験による「死の灰」は安全だとして、ソ連やチェコスロバキアが主張する核実験の即時停止に真っ向から反対している。

  ▼3章―3節 ABCCの下での調査の大規模化

 このような日米の被爆者調査は、原爆傷害調査委員会(ABCC)へと引き継がれ、大規模化・長期化していく。これは、日米合同調査団を指揮した陸海軍軍医総監が、後障害、晩発的影響研究の組織化を要請したことからはじまる。これを受けて、米科学アカデミー・学術会議(NAS―NRC)の下に原子障害調査委員会(ACC)の組織化を進めながら、広島、長崎の現地調査機関としてABCCが発足する。
 長期にわたる大規模調査には、日本の行政組織などの協力が不可欠であった。また、原爆を投下した国の調査団が、その被害にあった人々を調査することも大きな障害となった。ABCCに協力するために、厚生省の所管下に予防衛生研究所が設置され、原爆影響調査に関する特別部局の下に広島、長崎、呉に原子爆弾影響研究所が新設された。
 ABCCは、一九七五年には日米共同の放射線影響研究所(放影研)へと再編される。このABCC―放影研によって、長期的に被曝の影響を見る被爆者追跡調査、被曝の影響が世代を越えるかどうかの遺伝影響調査、被爆二世調査などが進められていく。
 これから見ていくように、これらの調査・研究は、決して被爆者のためにおこなわれたものではなかった。それは、帝国主義の核、原子力政策を推し進めるためには、必要なものだった。

  ●4章 被爆者の人権を無視した調査

  ▼4章―1節 ABCC調査の実態


 「NATURAL LABORATORY(自然の実験場)」。―ABCCの設立意義を訴える米国務省科学アドバイザーは、米原子力委員会生物科学部長への手紙の中で、原爆投下後の広島、長崎をこう言ってのけた。米帝にとって被爆者とは、人体実験の対象でしかなかった。
 まず、ABCCは、被爆者を調査はしたが、それは決して、原爆症で苦しむ被爆者を治療するためのものではなかった。
 子どもたちの手記千百七十五編から、百五編を出版した長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』の中で、被爆した姉についてふれた小学校五年生の原田弘子さん(被爆時は五歳)の作文では次のようにABCCについて述べられている。
 「しんちゅうぐんの方からたびたび自動車がでむかえにきて、しんさつをしていただきました。でも、いつ行っても、しんさつをするだけで、ちっとも手あてをしてくれないので、つまらないと、お姉さんはいつもいっておられます」。
 この証言集は、米軍占領下の一九五一年に出版されたたもので、占領軍のプレスコードを意識して編集されている。そこですら、このようにABCCの実態が伝えられている。
 また、広島への原爆投下直後に陸軍軍医として自らも被爆しながら救護をおこない、戦後は医師として被爆者に寄り添いながら低線量被曝の被害を訴え続けている肥田舜太郎さんは、「研究記録はすべて占領米軍に提供させられ、以後、……臨床の現場の医師には原爆放射線の被害に関する情報は全く届かなかった」と述べている。(『内部被曝の脅威―原爆から劣化ウランまで』)。
 治療をおこなわなかっただけではない。調査は被爆者の人権を一切無視し、暴力的におこなわれている。
 十六歳で被爆した久保美津子さんは、次のようにABCCの実態を語っている。
 就職した小さな新聞社にABCCの職員がジープで乗り付けてきた。「血をあげたくありません」と断ると、「そんなことを言っていいんですか。軍法会議にかけますよ」と脅し、翌日に迎えに来ると念を押した。迎えの車に乗りたくなくて自らABCCが間借りしていた日本赤十字病院に行き、採血されると悔しさが込み上げてきた。通訳に悔しさを伝えると、「日本は戦争で負けたのだから仕方ない」と言われたという。
 思春期に被爆して顔などに大やけどを負った久保さんの弟も、学校に来るジープで何度もABCCに連れていかれた。ある日、ABCCから帰った弟は痛いと泣いて、「シャツを脱がすと、胸骨の辺りに畳針を刺したような跡があった」。「多感な時期に好機にさらされ、つらかったんでしょう。学校に行かなくなり、酒におぼれ、借金をし、手が付けられなくなった」。
 久保さんの連れ合いの浩之さんは「心まで焼かれた被爆者を、さらに検査するなんて。人間性を放棄しないとできない」と言葉をつなげた。(〇七年六月八日付『中国新聞』)。

  ▼4章―2節 アメリカの放射能人体実験と被爆者調査

 一九九三年、衝撃的な記事が、ニューメキシコ州の地方紙『アルバカキー・トリビューン』紙に掲載された。アイリーン・ウェルソム記者が、原爆開発のマンハッタン計画の中で、重症患者十八人に対するプルトニウム人体実験がおこなわれていたことを暴露したのだ。
 しかし、アメリカの人体放射線実験はこれだけにとどまらなかった。一九九五年にクリントン政権下の「人体放射線実験に関する諮問委員会」が最終報告書を発表。人体放射線実験が、戦後も原子力委員会へと引き継がれ、一九七四年までに数千の人体実験と数百の放射能散布実験がおこなわれていたというのだ。報告書は、このうち八件について言及している(河井智康『原爆開発における人体実験の実相 米政府調査報告を読む』)。
 入院患者へのプルトニウムの注射、精神障害児への放射性物質の投与、囚人への睾丸放射線照射、ウラン鉱山労働者やマーシャル諸島住民への被曝調査、兵士を使った実験……。社会的弱者に対する恐ろしい人体実験の実態が報告されている。(ただし、この報告書は、「人体実験そのもの」を問題としたものではなく、被験者の同意や説明などの「人体実験のやり方」を問題としたものだという限界を持っている)。
 米帝は、広島、長崎の被爆者調査の結果とこの放射能人体実験の結果を比較しながら研究を進化させていったといわれている。広島、長崎の被爆者調査も、このような放射能人体実験と結びつき、その一環に位置していたのである。

  ●5章 帝国主義の核戦略と被爆者調査

 ロスアラモス研究所で原爆開発を指揮したオッペンハイマーらの「原子力の国際管理構想」を拒否し、戦後、米帝は、核独占と水爆開発へとひた走る。しかし、マンハッタン計画の責任者を務めたグローブス将軍の「二十年はアメリカの核独占は続くだろう」という目論見は破綻した。一九四九年にはソ連が原爆実験に成功して核保有を公言し、アメリカの核独占が崩壊する。また、アメリカの水爆実験後のわずか九カ月後の一九五三年八月にソ連も水爆実験に成功し、その保有宣言をおこなう。
 通常戦力ではソ連・東欧に劣る米帝は、核・軍事戦略の全面的な見直しに迫られる。これを具体化したものが、アイゼンハワー政権で採用された「ニュールック戦略」である。局地紛争をソ連中心部の核攻撃へとエスカレートさせる先制核攻撃戦略で、このために「同盟国」への小型戦術核兵器の配備も開始される。
 同時に、原子力政策の全面的見直しもおこなわれる。一九五三年には、アイゼンハワー大統領は、国連で「原子力の平和利用」演説をおこなう。これは、核兵器のこれ以上の拡散を防ぐとともに、核兵器の前線配備を目指す米帝が、原子力発電とその技術を使って西側諸国への影響力を強めていこうとするものであった。世界各国と「原子力協定」を結び、原子力技術の輸出と産業の海外進出を強めていく。
 広島、長崎の被爆者調査は、このような米帝の核・軍事戦略を支えるためにおこなわれた。一九四八年十二月七日に浜野規矩夫(厚生省予防課長)がGHQ公衆衛生福祉局(PHW)局長サムに提出した「原子爆弾障害調査計画」には、ただひとつとして被爆者の救済については書かれていない。一方で、被爆者調査の目的として、次のように原子力・核戦争に必要なものだと強調されている。
 「本調査の結果は来るべき平和な『原子力時代』においてのみならず、戦時における人類の福祉の保護に対して多大の寄与をなすと予想される。それ故に、われわれは最終的に人類の利益のために上記の問題を解決するためにこの好機を失うべきではない」。
 この文章の通り、広島、長崎の被爆者調査は、米帝の核・軍事戦略へと利用されていく。
 先に述べた日本側が自ら英訳してアメリカに渡した百八十一冊の報告書のうち、報告書番号十四「広島での原爆傷害報告書」がある。この都築正男を中心とした陸軍調査報告の中に、原爆がどれほどの範囲の人々を殺したのかの調査結果が掲載されている。
 対象となったのは、広島市内で被爆した一万七千人の子どもたちだった。距離別に何人が死亡したのかという七十カ所で調べた詳細なデータが記載されている。四五年八月六日当日、広島市内では建物疎開などの勤労動員に子どもたちが集団で動員させられていた。この子どもたちが、原爆の威力を調べるサンプルとされたのだ。
 このデータは、ワシントンにある米陸軍病理学研究所に送られ、爆心地からの距離と死亡率を示した「死亡率曲線」として整理された(オーターソン陸軍大佐「原爆の医学的効果 第六巻」)。この原爆の殺傷力を示す「死亡率曲線」は、アメリカ核戦略の基礎を形作っていく。例えば、このデータを基にして、アメリカ空軍はソ連の各主要都市を攻撃するのにヒロシマ型原爆が何発必要かというシミュレーションをおこなっていたのだ(前掲「封印された原爆報告書」)。
 ABCCが日米共同の放射線影響研究所に改編されてからも、本質的にこの軍事的性格はかわっていない。
 ブッシュ政権下の米政府は、テネシー州オークリッジに核テロ対策を担当する「生物学的線量測定細胞遺伝研究所(CBL)を二〇〇六年に開設したが、放影研の阿波章夫・元遺伝学部長が協力して核テロ時に使う基礎データを作成している。他の放影研の現役研究者もCBL助言評議会のメンバーになっている。また、ビキニ水爆実験の被爆者や東海村臨界事故の重傷患者を調査した放射線総合医学研究所ともCBLは連携し、核テロ時に使用するデータのすり合わせや多数の被爆者が出た時の国際協力について共同研究を実施していた(〇七年八月五日付『中国新聞』)。
 「新たな被爆者を生み出すために、広島、長崎の被爆者を調査・研究した」―ABCCを批判するこの被爆者の言葉は、まさに日米の被爆者調査の本質を的確に言いあらわしている。

  ●6章 日米による被爆隠し

  ▼6章―1節 低線量・内部被曝を隠蔽し続けたABCC

 一九五五年、米原子力委員会のチャールズ・ダナムは、アメリカの学術研究団体に対して、次のように手紙で指示した。
 「広島と長崎の被害について、誤解のある恐れのある希薄な報告を抑え込まなければならない。……もしここでアメリカが引き下がるならば、何か悪いもの、時には共産主義の色合いのものまでが、広島、長崎の被害を利用してくるだろう。そうなれば、アメリカは敗者となってしまうだろう」(二〇一二年放映・NHK「活かされなかった原爆報告書」)。
 ダラムが恐れ、抑え込もうとした「報告」とは何か? それは、低線量・内部被曝が人体に悪影響を及ぼすという「報告」である。そして、ダナムの言葉通り、このような調査、研究、報告は、徹底的に「抑え込ま」れていく。
 一九五〇年代、ABCC遺伝部と臨床部に勤務の日本人玉垣秀也医師が、原爆投下直後に入市した人で残留放射能の影響が疑われる四十二例を聞き取り調査。行動記録を地図に落とし、診察や血液検査をおこない、嘔吐や脱毛、歯茎の出血など明らかに急性症状と見られる例を確認した。しかし、ABCCを管轄する米原子力委員会(AEC)の科学者が反対し、予備調査で終了させられる。「赤痢や腸チフスなどの伝染病での同じような症状は出る。米国の科学者の常識では考えられない」として、玉垣医師の調査を中止させたのだ(〇七年六月六日付『中国新聞』)。
 また、広島ABCCの統計部長を務めていたロールウェル・ウッドベリー博士は、残留放射線の影響を指摘し、「広島における残留放射能とその症状」という報告書にまとめた。ウッドベリー博士は、原子力委員会に呼び寄せられ、その一か月後にABCCを辞職している(NHK「活かされなかった原爆報告書」)。
 低線量被曝・内部被曝の調査や研究を抑え込んだだけではない。詐欺的な手法を使って、低線量被曝・内部被曝を隠蔽している。
 五九年九月〜十月の間にAEC(米原子力委員会)関係者とABCC研究者がかわした書簡やメモが、テキサス大で発見された。この中で、ABCC傘下のブルックヘブン国立研究所のロバート・コナード医師は、ジャームズ・ホリグワースABCC臨床部長あての書簡(九月二十九日付)で、ホールボディカウンターを使った被爆者の残留放射能検査について「何も検出されないでしょうが(※)、否定的な結果で十分なら、何人も計測し、判断するのが賢いやり方でしょう」と主張している。
 コナードと同僚の科学者も、同日、ホリングワースに「否定的なデータは有益」と調査実施を促している。これらの資料には、前述の玉垣医師の原爆残留放射能の報告書が添付されていた。(〇七年八月六日付『中国新聞』)。
 そしてこのホールボディカウンターによる測定は、ABCCと放影研によって一九六九年と一九八一年に、実際におこなわれている。
 ※ホールボディカウンターで測定するセシウム一三七は体内に取り込んでから百日で半分が体外へ排出される。したがって、原爆投下から十四年以上たった当時では、当時の体内被曝の測定はできない。

  ▼6章―2節 被爆者調査とICRP

 なぜ米帝は低線量・内部被曝の影響を隠蔽しなければならなかったのか? ダナムが恐れた、「何か悪いもの」とはいったい何か?
 先に、日米合同調査団を指揮した陸海軍軍医総監が、後障害、晩発的影響研究の組織化を要請したことからABCCが組織されたことを述べた。
 当時、戦前から続く放射線被曝の防護基準は、一日あたり0・1レントゲンであった。これは、「耐容線量」という考えにもとづいていた。ある線量以下であれば、放射能は人体に何らの悪影響を及ぼさないというものである。しかし、この「耐容線量」は厳しい批判にさらされていた。
 この批判の最前線に立ったのは、遺伝学者たちであった。一九二七年にマラーが、ショウジョウバエを使った放射線実験で突然変異を発見したことに端を発し、被曝により遺伝的影響が発生すること、そしてそれは被曝線量に比例すること―すなわち低線量でも悪影響を及ぼすことを明らかにした。
 戦時体制の中で、この批判は抑え込まれていたが、戦後、「耐用線量」に代わる新たな放射線防護基準を作成する必要に迫られていた。そしてそれは、米帝の利害を損なわないことが前提にされた。
 「耐容線量」に代わって採用されたには、「許容線量」という考え方であった。これは、「社会的利益」のためには一定の「社会的に許容される」被曝を労働者・民衆に強制するというもので、「子どもたちを放射線の被害から守るという問題においてすら、経済的な利益を至上とする原理や、人の生命すら貨幣的価値に換算する仕組み」(中川保雄『〈増補〉放射線被曝の歴史 アメリカ原爆開発から福島原発事故まで』)に他ならない。
 ABCC―放影研による大規模な被爆者調査は、ICRP(国際放射線防護委員会)による国際的な放射線防護の基準の根拠になっていく。この「許容される」放射線量とされる「許容線量」は、広島、長崎の被爆者調査によって決められていくのだ。
 しかし、この「許容線量」は、元米原子力委員会のゴフマンとタンプリンが、「広島・長崎の被爆者をはじめとする種々の被曝者のガン・白血病のデータを見直した結果、ICRPが採用するリスクは、十倍〜二十倍も過小に評価されている」と批判するように、まったくデタラメなものだ。
 「許容線量」が、いかにデタラメであるかは、一九五四年のビキニ水爆実験によって、悲惨な形で明らかになる。この水爆実験によって、「有意な線量を被曝した」と認めた被爆者は、ロンゲラップ島の八十六人のみであった。ウトリック島の住民百五十七人は、ICRP一九五〇年勧告で定めた「許容線量」に満たず、「安全」だと被爆者扱いをされなかった。しかしその後、流産・死産の急増、十歳以下の子どもの甲状腺異常などの悲劇がウトリック島の住民を襲う。アメリカ原子力委員会の調査ですら、マーシャル諸島の平均より高い死亡率を認めざるを得なかったのだ。
 労働者・民衆に被曝を強要する「許容線量」という放射線防護基準は、米帝にとっては、その軍事的・政治的・経済的理由から、絶対に必要なものであった。
 先に見たように、米帝は核兵器開発と原子力発電所の推進を軸として、全世界で「社会主義陣営」に対抗しようとする。このため、戦後のアメリカの原子力予算は膨張し、五一年の時点ですでに総額二十六億ドルとマンハッタン計画の二十二億ドルを上回る。そこで標的にされたのが、放射線防護にかかる多額の費用である。アイゼンハワー政権の「原子力の平和利用」の下で原子力法が改訂され民間での原発開発がはじまると、放射線防護費用の削減は、ブルジョアジーの側からも強く求められるようになる。
 アメリカは、放射線の害悪を発生させないという被曝防護策を放棄し、原子力予算に限ってコストパフォーマンス(費用対効果)予算を採用していく。このような米帝の利益のために「許容線量」という考えが生み出され、なおかつその放射線量も低く見積もられていくのだ。そして、そのために広島、長崎の被爆者調査が利用されたのである。
また、一九五〇年代にはアメリカの核実験による放射性降下物「死の灰」に対する不安が高まり、欧米や日本での激しい反対運動が展開される。この時期に、米原子力委員会は、『原子力計画における放射線障害の管理』というパンフレットを配布し、核兵器や原子力開発にともなう放射線障害は問題になるほどのものではないという大キャンペーンをおこなっている。核兵器開発のための核実験を推し進める上からも、低線量被曝・内部被曝による人体への悪影響を、絶対に認めることはできなかったのだ。

  ▼6章―3節 デタラメな原爆症認定基準

 日米による被曝の隠蔽の中で、日本政府によって被爆者たちは切り捨ててられてきた。
 一九七七年、信じられないような発言が、東京都議会議員からなされる。被爆二世への医療費助成の条例改正の審議中、自民党の近藤信好は「遺伝の問題があるので、被爆者の根絶の方法ないか」と言ってのけたのだ。
 この暴言は、被爆者運動、被爆二世運動をはじめとして、徹底した批判にさらされる。しかし、日本政府は、ABCC―放影研を使って、「科学的」に「被爆者の抹殺」をおこなっていく。見た目に明らかな熱線、爆風、そして急性障害があらわれる初期放射能による高線量被爆を隠蔽することは難しい。そこで、その標的にされたのは、晩発性の障害としてあらわれる低線量被曝・内部被曝である。
 日本政府は、被爆者が病気なっても被爆が原因であることを否定し、これを切り捨て続けてきた。〇六年で被爆者手帳保持者二十五万九千五百五十六人のうち原爆症と認定されているのは二千二百八十人―0・78%にすぎない。
 原爆症認定は、疾病ごとに爆心地からの距離(放射線量)によって放射線が起因となる確率―「原因確率」という基準に基づいておこなわれている。これは、ABCC―放影研による、放射線量評価と被爆者調査を根拠としている。このふたつは、放射能の人体への影響を可能な限り少なく見せるためにおこなわれたデタラメなものだ。
 原爆の放射線量評価は、四度にわたる文章(一九五七年暫定線量推定方式―T57D、六五年暫定線量推定方式―T65D、八六年放射線量評価体系―DS86、〇二年放射線量評価体系―DS02)として公表されている。これは、原爆爆発時に生じる初期放射能(中性子線とガンマ線)だけを対象としており、放射性降下物(アルファ線、ベータ線)をまったく無視したものである。
 四つの放射線量評価文章のうち、放射性降下物の線量評価について述べられているのは、DS86の第六章のみである。この放射性降下物の線量測定は、「科学」に名を借りたごまかしによって、放射性降下物の影響は無視できるまでに小さい、と結論付けている。
 一つの例をあげるならば、以下のとおりである。放射性降下物の測定は、広島で原爆投下から四十九日目、長崎で四十八日目から本格的に開始されている。原爆投下から線量測定までの間に、枕崎台風(九月十七日)が広島と長崎を襲い、「埃」として地上や水、空中に充満していた放射性物質が、暴風によって吹き飛ばされ、雨と洪水によって流されている。放射線降下物がなくなった後の線量測定を根拠として、影響は無視できるとしているのだ。
 もうひとつの認定基準の根拠となっているのが、被爆者とそれと対比するための非被爆者十万人を対象とした寿命調査や二万人の被爆者を対象とした成人健康調査などの被爆者調査である。
 これらの被爆者調査は、爆心地から二キロ以内にいた人のみを被爆者とし、それ以外を非被爆者としている。しかし、放射性物質を含んだ「黒い雨」が、西北方向に三十キロ以上にわたって降り、多くの人々を被曝させている。この二キロという線引きは、初期放射能による被爆だけを対象としており、放射線降下物による被曝を無視したものである。
 事実、欧州放射線リスク委員会(ECRR)のフォイエルハーケなどの統計調査によって、ABCC―放影研が非被爆者とした人々にも、発がんなどの確率が高いことが明らかにされている。(十二年八月六日付『毎日新聞』)。同じ被爆者を、「被爆者」と「非被爆者」に二キロという線で分けて比較することで、放射能の人体への影響を過小評価してみせたのだ。
 このようなデタラメな「科学」によって、原爆症に苦しむ多くの被爆者は、日本政府から切り捨てられていく。しかし、これは広島、長崎だけではない。先ほど見たようにビキニなど南太平洋の島々で、スリーマイルで、チェルノブイリで繰り返され続けてきた。そして、福島でも、新たな被曝隠し―被曝者の切り捨てがおこなわれようとしている。

  ●7章 被爆者運動の地平を引き継ぎ、反核・反原発運動の前進を

  ▼7章―1節 被曝隠しと闘う被爆者解放運動


 このような日米の被曝隠しと真正面から対決してきたのは、被爆者自身のたたかいであった。
 この大きな柱のひとつとして、原爆症認定訴訟が取り組まれている。被団協は、二〇〇三年から原爆症認定集団訴訟を開始し、二〇〇六年の大阪地裁判決を皮切りに勝利し続けている。
 この中では、松谷訴訟の最高裁判決が、原爆症認定基準の根拠となっているDS86(一九八六年放射線量評価体系)は「未解明な部分を含む推定値」にすぎず「事実を十分に証明できない」というように、日米政府がABCC―放影研を使っておこなってきた被曝の隠蔽のデタラメを決定的に明らかにしている。
 また、「黒い雨」を浴びた被爆者や長崎の被爆未指定地域で被爆した「被爆体験者」が、被爆者手帳と援護を求めてたたかっている。
 これらの被爆者のたたかいは、決して経済的な要求としてだけたたかわれているのではない。「被害に対する補償は、同じ被害を起こさせないための第一歩です。原爆被害者援護法は、国が原爆被害への補償を行うことによって、核戦争被害を『受忍』させない制度を築き、国民の『核戦争を拒否する権利』をうち立てるものです」(一九八四年『原爆被害者の基本要求』)。日米帝の侵略戦争と対決する反戦運動としてもたたかわれてきたのだ。

  ▼7章―2節 福島へと引き継がれる被爆者の闘い

 帝国主義の「原子力の平和利用」キャンペーンの中で、被爆者解放運動は、反原発をそのスローガンとはしてこなかった。しかし、福島原発事故を受けて、被爆者解放運動は新たな前進を切り開きつつある。
 「またヒバクシャを生んでしまった。この日本で。自分たちは、ノーモア・ヒバクシャを掲げてきたはずなのに」(長崎原爆被災者協議会理事・広瀬方人さん)。苦悩の中で、被爆者は帝国主義によって強いられてきた制約を、自ら突破していく。二〇一一年七月に被団協は、結成以来の方針を転換し、反原発を運動方針として打ち出したのだ。
 被団協は3・11直後から、原発事故によって生み出された被曝者の切り捨てを許さず、政府と電力資本による生涯にわたる補償を求める取り組みを進めてきた。四月二十一日には、内閣総理大臣、経済産業大臣、厚生労働大臣、文部科学大臣および東京電力に対し、東日本大震災と原発事故災害の被災者対策等に関する要請をおこなった(経産省は面会を拒否!)。この中で、「原発事故による被害者に健康管理手帳を交付し、被害者の生涯にわたる健康管理に国と東電が責任を持つこと」を求めている。
 このような被爆者のたたかいは、福島の被曝者へと引き継がれつつある。広島市や被団協との交流をおこなっている福島県浪江町は、全国に分散している約一万二千人の住民全員に「放射線管理手帳」を配布している。この動きは双葉町などにも広がり、政府に手帳保持者の医療費免除を求めている。
 「いのち、からだ、こころ、くらしの全面にわたる惨苦を今なお抱え、被爆者援護にかかわる要求運動の実践を重ねてきたものとして」(四月二十一日被団協要請書)たたかわれている被爆者解放運動は、福島へと引き継がれている。

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 自民党政調会長の高市早苗は六月十七日、「事故を起こした東京電力福島第一原発も含め、事故によって死亡者が出ている状況ではない。安全性を最大限確保しながら活用するしかない」と、原発再稼働をぶち上げた。
 原発事故による労働者・人民への犠牲を隠蔽し、原発再稼動へ突き進む安倍政権を絶対に許してはならない。被爆者運動が切り拓いてきた地平を引き継ぎ、反戦・反核・反原発運動を前進させよう。



 

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