共産主義者同盟(統一委員会)






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   フィデル・カストロ同志の逝去を悼む

   
プロレタリア国際主義―社会主義建設の闘いを
            継承・発展させていくことを誓う


                      
国際部


 ●1章 はじめに

 二〇一六年十一月二十五日、文字通りの共産主義者、プロレタリア国際主義実践者としての生きざまを貫き通した稀有の革命家であったキューバのフィデル・カストロ氏(以下、カストロと略)が死去した。享年九十。共産主義というものが現実世界、資本主義社会を根本的に変革する革命的実践であるとするならば、彼は共産主義者の名にふさわしい革命家の一人であるだろう。一九九六年十一月から二〇〇〇年三月まで日本帝国主義政府から派遣されていた駐キューバ大使の田中三郎氏でさえもが、カストロのことを「人類の歴史において非常に稀有な崇高な魂の精神的巨人」、また、「恵まれた自らの社会的立場を捨て、弱きものを助け悪しきものをくじくという社会主義の大義のため、キューバのみならず、世界各地の独立、民族解放の闘いに一生自らを犠牲にして闘い続けている高貴な魂を持つ偉大な人間」と評するほどであった。その後の歴代の駐キューバ日本大使の中にも立場こそ違えどカストロの人間性、考えに感銘を受け、敬意を表する人たちは少なくない。
 キューバ人民は無論のこと、彼を師と仰いできた中南米諸国の左派政権指導者たちや中南米人民にとって彼の死は計り知れないほどの悲しみと喪失感、民族解放・社会主義運動にとっての巨大な痛手の感を与えたことであろう。それだけではない。それは世界の共産主義運動にとっても大きな痛手となるであろうと推察される。旧「社会主義国」がのきなみ崩壊あるいは変質している現状況にあって、キューバとそれを率いるカストロの存在は数少ない現存する共産主義運動の希望の灯を具現するものであったからだ。カストロの死を喜ぶものは敵階級の人々、米帝の新大統領となったトランプはじめ資本家階級、帝国主義国の首領たちだけであろう。
 本年は史上最初のプロレタリア革命であるロシア革命勝利からちょうど百年目にあたる年である。旧ソ連が崩壊し、中国などが変質している現在にあって、数少ない「社会主義国」といえるキューバがなにゆえに共産主義運動を持続しえているかについて深く考察することはすべての共産主義者にとって重要な課題である。
 われわれはカストロから共産主義運動の実践の面などで実に多くのことを学んできた。キューバ革命といわゆるカストロ路線の評価に関して、われわれは既にこれまで本機関紙等で幾度かにわたりわれわれの基本的見解を明らかにしている。基本的には中・ソ・スターリン主義に対する生きた批判的実践としての位置である。第一には、一国社会主義建設可能論に対する中南米革命、世界革命を基軸に置いた実践、第二には、生産力主義に対する対抗見地としての「新しい人間」の形成論に代表される階級形成重視の見地である。それらについてのこれまでのわれわれの見地のさらなる深化はわれわれの綱領の強化として今後のわれわれの重要な課題であり続ける。本稿では主としてカストロの様々な時点での演説、インタビューを引用して学ぶべき内容を具体的なものとして跡付けていくこととする(それらは、田中三郎氏の『フィデル・カストロ―世界の無限の悲惨を背負う人』に収録されている)。演説、インタビューなどで展開されている彼の見地は実に示唆に富んだ深い内容が多く含まれており、今後も共産主義社会建設を目指す世界の革命家にとって大いに参考となるものであろうと思われる。

 ●2章 キューバ革命概史

 具体的な学ぶべき点を提示する前に、キューバ革命のこれまでの歴史の概略を紹介しておくこととする。一九五三年七月のカストロたちによる、キューバ労農人民を搾取、抑圧、弾圧してきた米帝のカイライ政権バティスタ打倒をめざすモンカダ兵営襲撃が最初の烽火であったが、それは失敗に帰した。さらに一九五六年十二月、グランマ号に乗り込んだカストロ、ゲバラをはじめ八十二名の革命家によるキューバ上陸作戦はそれに対するバティスタ軍の空陸からの待ち伏せ攻撃にあい、ほとんどの革命家たちが殺戮された。だがそれに耐え生き残った十二名の生存者によるシエラ・マエストラ山中からのゲリラ戦の開始から始まるキューバ革命は、数では圧倒的に少数であった革命軍が労農人民の支持と強い革命的意識を基盤に徐々に優勢に至り、ついに一九五九年一月の独裁者バティスタ軍の無条件降伏によってカストロ革命軍の勝利に帰した。
 しかし、革命勝利直後からの最強の帝国主義国たる米帝によるカストロの暗殺攻撃をも含めたキューバへの無慈悲な軍事的、政治的、経済的圧殺攻撃は、筆舌に尽くしがたいすさまじいものであり続けた。革命政府がその攻撃に耐えきり、今日に至るまでキューバ革命が存続しえたのはほとんど奇跡と言っても良いほどである。このことをカストロは一九九八年のローマ法王のキューバ訪問時に、「キューバは聖書に記されたダビデの如く、古き投石の武器でわれわれの発展を阻止し、病気と飢餓によりわれわれを屈服させようとしている核時代の巨大なゴリアテとたたかっている」と表現している。また、「近代的破壊兵器を使った威嚇に対抗するためもっとも重要なのは思想と良心の種をまくことである」とも、「キューバが解体するとすれば米帝の攻撃によってではなく、キューバ社会内部からの思想的解体によってであろう」とも言い、普段からのイデオロギー教育の重要性を喚起し続けていた。
 米帝は一九六〇年一月からキューバへの経済的政治的攻撃を開始した。二月には数度にわたる空爆を実施し、三月にはハバナ港に停船しているフランス船の爆発・沈没をはじめ「ブルータス作戦」なるキューバ転覆攻撃を開始し、同時にカストロ、弟のラウル・カストロ、チェ・ゲバラ暗殺作戦も開始した。とりわけカストロ暗殺の試みは何百回にものぼるほどであった。
 同月、キューバ・ソ連国交樹立。七月、米帝によるキューバ砂糖輸入停止、その対抗措置としてキューバは米系企業の資産を接収した。九月には第一次ハバナ宣言が発表される。この宣言でカストロは、「人間による人間の搾取と帝国主義金融資本による第三世界諸国の搾取」を強く非難し、「ラテンアメリカにおける民主主義は、貧しい人々が飢え、社会的差別、無知、差別的法制度の束縛から解放されるときのみ実現する」、「農民の土地所有の権利、労働者の労働の成果が与えられる権利、児童の教育を受ける権利、病人の医療を受ける権利、学生の無料教育の権利、女性の社会的、政治的平等の権利が認められるべきである」、「すべての国民が経済的、政治的、社会的権利のためにたたかうこと、抑圧され、搾取されている国民が自らの解放のためにたたかうこと、そして世界の全ての国民は兄弟であり、これらの目的のために共同でたたかうことは神聖な義務であることを宣言する」と主張した。革命政府は米帝の攻撃に抗するため、キューバ正規軍のほか二十万人の民兵隊を組織した。
 十月にはキューバ銀行など基幹産業を国有化。米帝はキューバと事実上の断交。十二月、米帝の援助を受けた反革命ゲリラ破壊活動活発化。六一年一月、米帝・キューバ正式国交断絶。三月、ハバナ市内での爆弾、銃撃事件頻発。四月、米帝CIAにバックアップされた傭兵からなる反革命軍がキューバのヒロン湾を武力侵攻、カストロ自ら現場に直行して陣頭指揮をとり、数日間のたたかいの末、侵攻軍を撃退した。五月、カストロはメーデーでキューバ革命が社会主義革命であることを宣言。六一年末頃からは「テロ、サボタージュ、反革命運動支援、暗殺計画、宣伝活動など総合的なキューバ革命政権打倒計画」であるマングース作戦が展開された。六二年、キューバ国内での米帝による本格的破壊活動が始まる。二月に発表された第二次ハバナ宣言は高まりつつある米帝のラテンアメリカ干渉政策の脅威についてキューバ国民とラテンアメリカ諸国に訴える内容であった。
 九月、キューバがソ連と武器援助協定締結。十月、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとし、米帝が戦争開始恫喝を行うという、当時の世界を揺るがせたいわゆるキューバ危機が勃発した。当時カストロは国連事務総長宛て書簡で「米国が脅威を除けば基地建設は中止する」と言明し、次のような平和解決のための五原則を提唱した。すなわち、①経済封鎖の解除、②グァンタナモ基地の返還、③キューバ領内に侵入しての空中・海上査察の中止、④亡命者による海賊行為の停止、⑤国内での破壊活動の中止、である。最終的にソ連はキューバへの事前の相談なく米帝と和解し、キューバ国民はモスクワ放送によって初めて米ソ和解の事実を知ることとなった。ゲバラは「ラテンアメリカの革命家たちはソ連の態度に極めて困惑している」とソ連を厳しく批判した。
 ミサイル危機後しばらくしてソ連・キューバ間関係は革命闘争の戦略・戦術上の問題をめぐり先鋭化した。六五年一月アルジェでのアジア・アフリカ人民連帯会議の経済セミナーにおいてゲバラは「闘争中の新しい国を取り扱うにあたってソ連は帝国主義者同様に悪質である」とまで公言し、またカストロも六六年一月にハバナで開催されたアジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯組織の会合で、「世界のいかなるところにおけるいかなる革命運動もキューバの無条件の支援を期待できる」との趣旨を高らかに宣言した。それに対して平和共存路線を歩もうとするソ連は非常な不快感を持ち続けた。
 一九六五年十月キューバ社会主義革命統一党は党名をキューバ共産党に変更、七五年十二月に第一回党大会を開催し、社会主義憲法を採択した。
 一九八〇年代末以降の東欧諸国の崩壊、一九九一年十二月のソ連解体を受けてキューバ経済は未曾有の困難に陥った。キューバ政府はカストロが一九九〇年に「平和時の特別期間」と名付けた国家の非常事態にあたって、国民に過酷な忍耐を求め、様々な経済改革を行うことなどにより危機を乗り切った。この時期は燃料や食料をはじめあらゆるものが絶対的に欠乏し、キューバ人民の日常生活は想像を絶するほどに厳しい状況が続いた。しかしながら、自営業の許可、農業協同組合生産基礎組織の創設、農産物自由市場の創設許可など様々な改革をなしていくと同時に、思想的引き締めも行い、この危機の乗り切りに成功するのである。
 このソ連崩壊を米帝はキューバ解体のチャンスととらえ、キューバ革命体制の崩壊を早める目的で一九九二年トリセリ法により対キューバ経済制裁をこれまでよりさらに厳しいものに強化した。しかしキューバは持ちこたえ、米帝はその四年後に課した究極の制裁法たるヘルムズ・バートン法によっても体制を突き崩せなかった。ちなみに国連総会において一九九二年から毎年ずっと一貫して米国の対キューバ封鎖への非難決議が圧倒的多数の国の賛成によってなされていることに示されるように、この両法ともに国際的には強く拒絶され続け、米帝は非難され続けてきたのである。
 一九九八年、ベネズエラでカストロを師と仰ぎ、キューバのような国づくりを目指したチャベスが大統領に就任し、キューバへの連帯の意を安価な原油の輸出という形で表し、それによりキューバ経済は持ち直した。国内外の反革命の動きに対応し、キューバ国会は二〇〇二年六月十日に、一九七六年公布のキューバ憲法の中に社会主義国家としてのキューバの経済・社会体制を維持するという国民の意志を追加する決定を行なった。
 二〇〇六年七月、八十歳のカストロは腸内大出血で重病に陥った。そして、二〇〇八年に弟のラウル・カストロに国家評議会議長を委譲する。二〇〇八年は大型ハリケーンの襲来、リーマンショック、ニッケル価格暴落、米帝による経済封鎖の継続等々、キューバにとってきわめて危機的な状況であったが、これもキューバ革命政府と人民の驚異的な奮闘により何とかしのぐことができた。二〇一〇年七月から十一月にかけてカストロは復活し、公の場に登場し、米帝批判を続行する。二〇一三年にベネズエラのチャベス大統領が死去し、その後のベネズエラ経済の悪化のためキューバ人医師の派遣とベネズエラ原油のバーター貿易等々が困難となり、キューバ経済は再び困難な状況に陥っている。
 二〇一四年一二月、五十四年ぶりに米国・キューバ間の国交が「正常化」された。米帝・オバマ政権は「キューバに対する敵対的政策は五十四年間機能していない」とし、関与による民主化をめざすべきとして政策変更を説明。それに先立ってラウル・カストロはスパイ容疑で米国に収監されていたキューバ人五名のうちまだ未解放であった三名の釈放を勝ち取った。ラウルはさらに米国によるキューバへの経済・通商・金融封鎖の解除およびテロ支援国家リストから外すことなどを求めた。これは結局、キューバの対米外交の一定の勝利と言えるだろう。しかし、グァンタナモ基地の返還や経済封鎖の全面解除等々、未解決の課題も多く、カストロは「国交正常化」を全面評価するのではなく、米国の軍事的脅威をこの機会に減らすことがキューバ革命体制の今後の生き残りに必要だと考え、国交回復を歓迎したようである。
 しかし米国では本年一月大統領に就任したトランプが厚顔無恥にもカストロの死を「残忍な独裁者の死」「暴君カストロの死」などと毒づき、オバマ政権の対キューバ政策を見直して厳しい政策を採ること、米国とキューバの両国間の国交回復合意を覆すことをにおわせている。ちなみにカストロは過去、西側の民主主義の欺瞞性について語った「フィデルと宗教」において、「私を独裁者という人もいるが私はひとりで一方的に決定することはない。集団的指導部が重要な問題をすべて集団的に決定する。一人で決定し統治する人間が独裁者であり、その意味ではレーガンあるいはローマ法王であるかもしれない」と語っている。

 ●3章 キューバの革命的実践から学ぶべきことは何か?

 なにゆえにキューバは米帝の全体重をかけた解体攻撃にも耐え、なおかつソ連はじめ東欧諸国が崩壊し、中国が変質していった状況においても、社会主義政権を維持しえたのか? これについては、ノーメンクラツーラ(特権官僚)を存在せしめなかったこと、そしてカストロをはじめとする指導者と人民との平等、格差のなさとともに、なによりもカストロの米国に関する緻密な情報収集、それに基づく精緻かつ大胆な対米戦略・戦術、さらにはカストロをはじめキューバ革命指導部の確固たる革命存続への情熱、キューバ人民の指導部へのゆるぎない信頼にこそ、その基本的根拠はあると考える。そして、次に述べるようなキューバ革命の他国に優越する中味がそれらの基盤となっているのであろう。ちなみに中国なども現在官僚の汚職、腐敗に頭を悩ましているようだが、この特権官僚の発生についてはいくらコミューン四原則などを対置してもそれだけでは防ぎようがないものであり、その点ではすべての共産主義者はキューバの経験と精神を真摯に学ぶべきであろうと考える。
 キューバ革命からわれわれが学ぶべき点を具体的にあげてゆくとするならば次の内容として提示できるであろう。
 第一には、生産力主義思想への対抗的思想としての「新しい人間」の形成についてである。これは「階級形成」、「階級意識の形成」、「革命家の建設」ということと密接に関連している。このことについてカストロは、「われわれのたたかいはわれわれが人間として最高の形態である革命家になる機会を与えてくれる。そしてわれわれは人間になれるのだ」、「革命家は最高の人間であり、本当の人間である」というチェ・ゲバラの言葉を紹介しつつ、ゲバラ没後二十周年の際に次のように主張している。「チェは何よりも、社会主義あるいは共産主義を発展させることは、富の生産と配分のみを意味するのではなく、教育と意識を育てることであることを強調した。チェが、社会主義建設のために資本主義の経済法則や理念を利用することに強く反対したのは、これらの資本主義思想が新しい社会と新しい人間の建設に有害であると判断したためである」、「新しい社会は新しい意識を育てる必要がある。『新しい人間』の根本理念は強い連帯精神、自己中心主義を捨て他の人々を兄弟と考えるような思想である」。
 ゲバラは「キューバにおける社会主義と人間」(一九六五年)という論文で、社会主義経済は共産主義的なモラルを欠いたままでは発展しないこと、つまり革命は貧困とのたたかいにとどまるだけでなく人間疎外からの解放へのたたかいでもあること、共産主義とは単なる富の「分配の一方式」なのではなく、「意識の行為」を重視することで、資本主義とは異なる価値観を生み出すシステムであることを強調し、ソ連型社会主義や利益第一主義に走る資本主義経済への対抗的考えを提起した。カストロも同様の考えであり、彼が理想と考えるに至った人間像は「私有財産、物欲さらに精神的能力を含む自己から解放された純粋な無私の魂を待った人間」なのであろうが、これは静止的な基準からする理想像なのではなく、まさしく日々社会と自己自身の変革を実践する革命家であるということなのであろう。その意味で「新しい人間」とは遠い未来社会に形成さるべき人間のみを意味するのではなく、資本主義的価値観と分岐した革命的実践を遂行し続ける人間のことであり、現在のわれわれに問われている課題でもあるのだと考える。
 第二には、第一と密接に関連することだが、プロレタリア国際主義実践の遂行についてである。当然のことながら先述した形成されるべき「新しい人間」は、その条件の重要な一つとしてプロレタリア国際主義の思想と実践によって武装された人間でなければならない。キューバ共産党綱領と憲法はプロレタリア国際主義を高く掲げているが、特に党綱領は「社会主義と人民の民族解放を目指すたたかいの国際的必要性をキューバの立場に優先させる」とまで言い切っているほどである。確かにキューバ革命勝利以降、中南米はじめベトナム戦争時のベトナムを中心とするアジア、そしてなによりもアフリカ等々の第三世界諸国に対するキューバの首尾一貫した革命運動支援は驚異的なまでに厚く、強いものであった。その結果、キューバは第三世界諸国から強い支持と敬意を受け続けてきた。カストロは一九七九年に開催された第六回非同盟諸国首脳会議においても「われわれは国際的な連帯を強化するため努力する。革命家の人生に意味を与え、人類の一員であることを自覚するのは他の人々、他の国民、人類全体のために尽くすことである」と述べ、その後一貫してこの決意を誠実に実行し、数多くの民族解放運動を支援し、多くの革命家に対する政治的・道義的支柱となってきたのである。
 ベトナム戦争当時「二つ三つさらに多くのベトナムを!」という国際主義連帯実践の凝縮された見本のようなスローガンを掲げたゲバラは、「抑圧されている世界の人々の願望と希望を代表しているベトナムが悲劇的に孤立している」。「犠牲となっている人々に成功を祈るだけでは不十分である。われわれはこれらの人々と運命を共にし、『死か勝利か』の覚悟で戦いに参加しなければならない」。「(ベトナム支援に全力を傾注せず)相互に非難、中傷合戦を繰り返す社会主義陣営の二大強国も同罪である」と言い切っている。カストロもまた、「われわれキューバ人はベトナムのために生命をささげる用意がある」と語り、ベトナムにキューバ兵士を派遣し、ホーチミン・ルートの建設に協力したほか、可能な限りの援助の手を差し延べた。
 そして、特筆すべきはアフリカ諸国とくに南部アフリカ民族解放闘争に対する精神的、物質的支援である。一九七五年に開始されたアンゴラへのキューバ出兵ではキューバ兵数万が犠牲となりつつも、実現不可能と考えられていた南アフリカの人種差別政策と白人政権の崩壊をもたらす大きな役割を果たした。ソ連の崩壊と東欧社会主義諸国の解体を目前にした一九八九年の演説でカストロは、「アンゴラにおける闘争の最終局面は本当に困難な状況となり、キューバは全力を尽くして、決意と忍耐と闘争精神を総動員して、アンゴラの同胞の支援に努力した。キューバ自身に対する帝国主義勢力の脅威が厳しくなっている状況にもかかわらず、われわれは連帯の義務を果たすため、五万人ものキューバ兵士を派遣した」、「キューバは現在、政治的、経済的な困難に加え、社会主義陣営の危機にも直面している。社会主義諸国においてはもはや反帝国主義闘争あるいは国際連帯主義という思想は忘れ去られ、資本主義の価値観が勢力を増している」と語っている。また、帝国主義諸国がキューバは革命を輸出していると不当な非難をしたことに対して、「革命は輸入することも輸出することも出来ないと私は信じている。それぞれの国における国民のみが社会主義国家を建設することができるが、このことは国際連帯精神と矛盾するものではなく、すべての革命家は相互に援助することが可能であり、そうすべき義務がある」と主張している。また、帝国主義はアフリカに介入するとき石油、ダイヤモンド、鉱物資源の奪取が目的だが、「キューバ兵士が祖国に戻るとき、彼らが持ちかえるのは、義務を果たした満足感とたたかいで倒れた同志の遺体だけである」とも語っている。もしアンゴラへの支援にキューバが要した経費がキューバ経済の基盤整備に投入されていたならば、キューバ経済の困窮は大いに緩和されていたであろう。
 一九九九年にはラテンアメリカ医科大学をハバナに開設した。そこではラテンアメリカやアフリカ諸国などの貧しい家庭出身者を対象に無償で授業を受けさせ、その間学生には生活費まで保証される。入学の条件は卒業後その国の貧しい地域で働くことであり、二〇一三年においては世界二十四か国、約九千人の学生が学んでいる。
 第三には、世界革命の勝利へ向けての立場である。もともとキューバ革命はその先達たるホセ・マルティの時代からキューバ一国の革命、解放だけでなく、カリブ中南米全体の革命、解放が不可欠として構想されてきたものである。カストロは「全人類が救われない限り、キューバは救われない」という基本的立場をふまえ、キューバ一国の解放ではなく、中南米全体、さらには世界全体の人民の解放を目指してプロレタリア国際主義実践を組織してきた。
 彼は一九九八年の南アフリカでの会議で、「アパルトヘイトの象徴は消滅したが、世界には形を変えた何千ものアパルトヘイトが存続している。何よりも富める国と貧しき国に分裂したアパルトヘイトがある。搾取し、人間を奴隷にしてきた国が富み、征服され、植民地化され、奴隷の屈辱を受けてきた国が貧しいままである」。それゆえ世界各地での反帝闘争が必要なことを訴えている。また一九九一年の第四回党大会で「現在、われわれは自分自身の理想のためにたたかっているだけでなく、世界中の搾取され、従属させられ、飢餓に苦しむすべての人々の理想のためにたたかっておりわれわれの責任は大きい」と主張している。
 さらには、互いに関連した第四、第五の点として、全世界の被抑圧者、社会的弱者に寄り添い、それらの人々の立場に立とうとする姿勢、および、資本主義社会に代わって建設すべき社会の基盤ともいえる、すべての人民が、とりわけ弱者、より抑圧された人々が社会的・精神的に豊かに暮らしてゆける条件の構築、その基本条件ともいえるすべての人民への医療、教育、住居、食料など基本的な生活の平等な保障である。
 カストロが敬愛するキューバ独立の父ホセ・マルティは、一八八三年のマルクスの死に際して追悼演説を行っており、「マルクスが弱者の味方であったこと」、「人間が人間の上に立つことを拒否していたこと」に深い共感を示している。この「最も虐げられた人々の解放」を最優先課題に据えていたマルティの思想の上にカストロらによるキューバ革命の基本があるのだ。ちなみに米国の映画監督がドキュメンタリー映画で暴露したことで知られているように、米国ではお金がないゆえに助かる命も見放されることが多い現状、学費が払えずに借金し軍隊に行くしか返済する道が残されていない学生も多い現状に比べて、キューバでは幼稚園から大学までの教育費も無料、がん治療から心臓移植までの医療費も無料なのである。この教育、医療、農業に関しては、日本での新自由主義政策の旗振り役を務めてきた中谷巌でさえもその著書の中で理想としてキューバのそれを取り上げているほどである。また、「平和時の特別期間」という危機において従来は教育施設や職場などに毎日四百万食が供給されていたが、その供給が不可能になった結果として学校や職場が半日制となったときでさえ、身体障害児の施設などは最後まで開かれていたことに弱者に手厚い典型的なキューバの姿勢を見ることができる。
 キューバ革命はその勝利の直後から、農業改革や教育改革と並んで医療水準の向上に真剣に取り組んだ。年間数千人の医者が毎年誕生し、数万人の医者がキューバ国内のみならず、世界各地で貴重な仕事に従事している。このことと関連して、カストロは「キューバの金銭上の資金はゼロに近いが、無限とはいわないまでもこれまでに育成された相当の人的資源を保有し、献身的な国際連帯活動を実行してきた。パリ、ニューヨークの豊かな生活に慣れた人々の中に一年間あるいは二年間、蛇、蚊、酷暑が待つ僻地で働こうとする者がいるだろうか」と問いかけている。またキューバの福祉医療制度は地方分権化が進んでいて公共医療予算の92・4%は地方政府で執行されており、その財源は百パーセント国庫予算である。このことは「私が最も魅力を感じたマルクス主義思想の一つは、国家は将来その役割を果たした段階で消滅するであろうという思想であった」というカストロの国家観に関連する実践であろうと思われる。さらに一九九〇年と一九九七年比で医療費は134%、社会保障予算は140%に伸びており、この経費をねん出するため軍事費は55%と半分近く削減されている。
 その他紹介したい事柄は多々あるが、紙数が尽きたので、それらについては、またの機会に提起することとする。

 

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