共産主義者同盟(統一委員会)






■政治主張

■各地の闘争

■海外情報

■声明・論評

■主要論文

■綱領・規約

■ENGLISH

■リンク

 

□ホームへ

  
   ロシア革命100年

   
~レーニン最期の言葉     海路 薫
     

   (本年五月、共産同(統一委員会)関西政治集会での発言に加筆・修正したものです。)



 集会への参加ごくろうさまです。私のほうからは、「ロシア革命百年――レーニン最期の言葉」というタイトルで、ロシア革命の意義とその後の革命の苦闘について報告させていただきます。

 ●1章 どのような観点から革命百年をふり返るか

 ことしはロシア革命から百年ということで、五十年前のロシア革命五十周年の時とは比べものにはならないでしょうが、それなりに社会のあいだでロシア革命に対する関心が高まっていると思います。どんな書籍が出されているのかということをちょっと書き出してきました。革命が起きた十一月(ロシア暦の十月)が近づくと日本でももう少したくさんの本が出されるのではないかと思いますが、ここで今年の三月までに出された五つほどの本を紹介しておきます(*1)。どれも読めば良く研究されているということが分かりますが、これらの本の特徴の一つは良くも悪くも視点が多様だと言うことです。いままでどおりの取り上げ方では物足りないということで、新しい視点から文章を書いていこうということになっているのでしょうか。
 一冊だけ本を持ってきました。池田嘉郎著『ロシア革命 破局の八カ月』と題した本です。この本で最初に目を引くのはそのタイトルです。なぜ「破局の八カ月」なのかというと、二月に革命が起こり、これは評価できるが、十月で革命の成果が台無しにされたという、そういう見方でロシア革命を総括しようとしているからです。二月革命を持ち出してきて十月革命を正面から否定するというような本が、堂々と出版されているのは少し驚きです。
 的場昭弘さんも関連本を出しています。的場さんはマルクス主義に立つ学者でたくさん本を書いています。その人が『「革命」再考 資本主義後の世界を想う』という本を出しています。一文だけ読み上げます。「さて、革命とは何であるか。抽象的に表現すれば、新しい価値観による旧来の価値観の転換ということです。民主主義、社会主義、共産主義、これらもその言葉が出現したときは、新しい価値観であったわけです。二〇一七年は、一九一七年のロシア革命からちょうど百年の年です。革命の意味について、もう一度考えてみる時期ではないでしょうか。ひょっとして、すでに革命が起こっているのかもしれません」。というような観点から自分はロシア革命を含む革命の歴史を見ているんだ、ということが述べられています。ここではロシア革命は「資本主義を揚棄する」一つの歴史的経験として肯定的にとらえられています。
 で、そういうふうに、ロシア革命百年を記念してこの革命をどう見るのかということがさまざまに論じられています。じゃあ私たちは、どういう観点からロシア革命をふり返るべきなのかということが問題になります。ソビエト史という歴史の見方がありますね。ソビエト史というのは一九一七年から始まって、ソ連邦の崩壊がもたらされた一九九一年までの七十四年間の歴史のことです。もちろん歴史の区切りとしては問題はないのですが、ソビエト史という見方は九一年で完結してしまう、いわゆる社会主義敗北の歴史という見方に陥りやすい。それに対しては、私たちは一九一七年の革命を出発点として切り拓かれた新しい歴史が、ソ連崩壊をはさんで現在まで百年経過したと見るべきではないでしょうか。ソビエト史はその百年間の一部です。百年間というのは資本主義との闘争に最初に勝利した経験から百年間ということで、ある意味では資本主義に対する決着のついていない百年戦争の歴史だと言ってもいいかと思います。

 ●2章 革命勝利の客観的条件

 ではロシア革命の概要にふれながら、その歴史的意義、そしてこの革命が直面した困難について改めて簡単に触れておきたいと思います。
 一九一七年のロシア革命というのは、二月に起こったブルジョア革命、それから十月の社会主義革命の総称であると考えるべきです。先ほど紹介した『破局の八カ月』の著者のように二月革命だけを評価するのではなくて、二月と十月は一体的にとらえられるべきです。二月革命に関してもすごい事件ですよね。ロマノフ王朝を打倒した革命であったわけで、いまの日本で言えば天皇制がブルジョア革命によって打倒されたということですから、非常に大きな出来事であった。さらにそれに連続する形で十月に社会主義革命が起きた。基本的に二月から十月まで連続する動きを私たちはロシア革命ととらえ、十月革命をその到達点として重要視します。
 なぜ革命は勝利できたのか。まず一つは世界大戦ということがあります。参戦国であったロシアでは人民のなかに貧困が強まり厭戦気分が蔓延していた。もう戦争はやめてほしいという気運が広がっていた。ロシアはこの戦争を継続するのか中止するのかという分岐点に立たされていた。長く続く巨大な戦争が「パンと平和」の要求を切実なものとし、革命情勢を引き寄せ続けたということです。
 第二に支配体制の危機です。ツアー専制の統治能力は失われており、二月に民衆の決起のなかで三百年続いたロマノフ王朝はあっけなく崩壊します。しかしそれに取って代わったブルジョア的な臨時政府も人民の期待を裏切って戦争政策を継続する以外になかった。人民の不満はこのうえなく高まっていた。レーニンからよく引用されますが、人民が現状の変更を望んでいるだけでなく、支配者自身ももうこれ以上やっていけないという状況、革命の客観的状況が生まれていたということですね。しかし、どんな革命の場合も客観的条件を主体的な革命情勢へと転化していく要因が必要です。それがなければ革命というのは起こりえません。

 ●3章 「すべての権力をソビエトへ」

 主体的要因としてはまず大衆運動の高揚があげられます。労働者人民は貧困と戦争に対する怒りをたたかいに変えていったということです。デモやストライキ、軍隊内の反乱、それから何よりも一つの権力にまで成長したソビエト運動ですね。一九一七年三月末には全国で五百五十五以上のソビエトが存在していました。臨時政府というブルジョア政府と対峙する労働者の権力=ソビエトが並存するという二重権力状態が生まれていたということです。
 さらに付け加えられるべきは、情勢を革命に向かって転換させていく革命運動と革命党、これがロシアの場合、相当強力に存在したということです。ボリシェビキに代表される革命党は、党員の数ということから考えるとすれば、十月革命まではそれほど大きな党組織ではなかったと言われていますが、革命党の果たした役割は決定的であったということです。二月革命後の「四月テーゼ」というものもその一つの事例です。二月革命後、ボリシェビキのなかでも、二月革命の成果を十分に成熟させてから社会主義をめざそうということを考えていた指導者が多かった。ところがボリシェビキのリーダーであったレーニンは、亡命地から帰国すると「すべての権力をソビエトへ」という方針のもと、十項目の過渡的方策からなる四月テーゼを打ち出した。そしてこのもとに党内をまとめることで、情勢の劇的転換が引き起こされたのです。
 E・H・カーというイギリスの著名な歴史学者がいます。この人は、「ロシア革命は意図をもって計画され遂行された歴史上最初の大革命であった」と言っています。「意図」とか「計画」というのは革命党の問題ですね。党による革命の領導なしにはロシア革命の成功はありえなかったということです。「帝国主義戦争を内乱へ」という革命的祖国敗北主義に立脚して提起された、それを端的に表現した言葉だと思います。

 ●4章 革命=クーデター論

 次にロシア革命の歴史的意義について述べます。ここでは次の二点だけ指摘しておきます。先のカーはロシア革命は二十世紀最大の事件であると言っています。カーは一七八九年のフランス革命、一八七一年のパリ・コミューンとならぶ世界に巨大な影響を与えた歴史的事件であるとロシア革命を位置づけています(*2)。
 この点はまったくその通りだと思います。さらに私たちはこのカーの見方を踏まえて、ロシア革命が「過渡期世界」を切り拓いた歴史的出来事であったと考えます。「過渡期世界」という言葉は一般に通用している言葉ではなく、ブントの党派性を持った言葉です。ロシア革命によって世界的規模で資本主義から社会主義への世界的移行が始まったということを意味する言葉です。世界的移行ですから、いわゆる「先進国」の革命だけでなく、植民地・従属国にもその波が波及していって、必ずこれは世界革命に行くだろう、行くに違いない、という一つの政治的信念や世界観を表す言葉でもあります。そのような見方をロシア革命は私たちに与えたということです。
 またロシア革命は、労働者人民みずからが解放をかちとるために打ち立てた革命、勝利したプロレタリア革命だという点を、この革命の歴史的意義として強調しておきたいと思います。歴史的に見ても労働者人民の解放ということは問題にされてはきましたが、それを直接的な目標において勝利した革命というのはないわけで、ここにロシア革命の一つの大きな歴史的意義があります。ロシア革命に関しては、クーデターという言い方で、それが人民の革命であったという意義を消し去ろうとする悪意に満ちた主張というものがずっと存在します。一部エリートによる、一部共産主義者による、あるいはレーニンによるクーデターという主張ですね。こういう言論とは私たちは今後も対峙し続けねばなりません。ちなみに党と人民の関係はどういうものかということについてのレーニンは考えは、「共産主義者は大海中の一滴である。人民という大海中の一滴である」というもので、「社会主義を少数者の手で、党の手で導入することはできない」とまで述べています。これがやはり、党と人民の関係の基本的あり方だと思います。(*3)

 ●5章 戦略転換の模索

 そうして成功したロシア革命ですが、大きな困難に直面していきます。革命勝利後、干渉戦と内戦が引き起こされます。革命に対する巨大な反革命陣営の反撃でした。これはロシア革命を大いに苦しめます。しかしそれが革命にとって、一番大きかった困難であったわけではない。結果的に言えばということですが、それには革命は何とか耐え切った。一番大きな困難は期待に反して世界革命が遅れたということです。ロシア一国だけで革命を成功させてそれを勝利に導いていくことなどできないというふうに、当時のレーニンを始めとするボリシェビキたちは考えていました。ですから特にドイツの革命運動に期待したわけですが、それは社民によるローザ・ルクセンブルグ、リープクネヒトの虐殺という悲劇をともないながら成功せず、ロシアは一国で革命を防衛していくという道に立たされざるをえなかった、これが一番大きな困難だったとやはり思います。もちろんロシアの資本主義が未発達であったとか、ロシアは「農民の国」であったとかいう問題。たとえばグラムシがロシア革命を「資本論に反する革命」だと評したように、ロシア資本主義の後進性という条件が革命を苦しめます。それはのちのちロシア一国での革命をどう防衛していくのかということにも大きな影を落としていく。ですが、やはり革命にとって一番大きな障壁は、世界革命の遅滞という問題ではなかったのかと思います。
 干渉戦や内戦、世界革命の遅れ、こういう事態のなかで、じゃあボリシェビキはどういうふうにそのような困難を乗り切っていったのか、あるいはいけなかったのか。これが次の核心的な問題です。ここではレーニンの「戦略転換の模索」という言葉を使ってこの問題を考えてみます。こんなふうに表現できるのかどうかという問題はありますが、しかし革命が勝利した一九一七年からレーニンが死亡する二四年まで、さまざまな困難を背景にして「模索」が行なわれていったというのは事実です。すべてこの「転換の模索」のなかに私たちがロシア革命から受け継いでいく内容があると考えているわけではないですが、大きな困難を前にして一体どういう苦闘があったのか、この点を探っていくのはいま革命百年を考えるうえで重要なことだと思います。レーニン自身の思想的な問題として考えれば、この困難を受けることによって、結果的にはレーニンの思想は非常に深いところに到達しつつあったのではないか。そういうことをレーニンの晩年の論文や演説、あるいは最晩年の口述筆記や手紙などを読むと強く感じます。

 ●6章 階級多数者の獲得

 「戦略転換の模索」として、まず革命後の一九二一年に開始されたネップとドイツ左派の攻勢戦術に対するレーニンの批判があります。ネップとは新経済政策を指し、革命直後の「戦時共産主義」、つまり市場・貨幣を廃止する、農民から食糧を強制徴発するなどの政策が採られていたわけですが、ここから転換する。農民との関係を重視しなければもたないということで、一部市場経済を容認して経済の安定化をはかるということが一九二一年から開始されていた。レーニンはこれを一つの息継ぎにしながら次の世界革命の波を待とう、あるいはロシア革命の成熟を待とうというふうに考えたわけです。それからコミンテルンではドイツ左派の攻勢戦術からの転換ということを論議しています。それまでは一九一九年にコミンテルン、第三インターナショナルですね、これが結成されて今すぐにでもドイツで革命を起こそうという考えがあったわけですが、それがすぐには無理だということが分かってきました。一九二一年のコミンテルン三回大会になると労働者階級多数者の獲得ということが打ち出され、統一戦線戦術が採用されます。さらに翌年の四回大会になると、「レーニンの自己批判」という言葉を便宜的に使いますが、レーニンが勝利の確信の一つとしてきた組織論ですね、ボリシェビキ組織論についてそのまま他国の革命運動に当てはめることはできないという観点から、レーニンは一定の発言を行なっています(*4)。
 コミンテルンでのこうした「転換」をめぐる議論というものは、私たち革命前の国の共産主義者にとって大きな示唆を与えてくれるものです。まずは労働者階級の多数者を獲得していく努力を基礎にして革命運動を行なわなければいけないという観点ですね。これが非常にはっきりと打ち出されている。それは革命前の共産主義者の基本的任務だという観点です。いわゆる『左翼共産主義批判』という文献があります。このなかで「共産主義者は反動的な労働組合の内部で活動すべきか」という問いを立てて、そうだ、そういう活動を粘り強くやっていくべきだという回答をレーニンは残しています。革命の基礎としての労働運動のなかにしっかりと拠点を築く、労働者階級の階級形成ということについて力を入れてやり続けるということが、革命前の共産主義者の任務として重要だということです。

 ●7章 残された言葉

 さて、レーニンのいわゆる「遺書」とも呼ばれる種々の「政治的遺訓」もまた「戦略転換」と一体のものとしてとらえられます。レーニンは一九二二年ごろから二四年ごろまで勝利したロシアの党の変革、ロシアのプロレタリア独裁国家の変革についてくり返し提起・提言をしつづけています。とくに病床にあって書かれた、あるいは口述筆記されたその内容は内省的で非常に内容豊かなものです。レーニン全集の三三巻の半分ぐらいに収録されている短めの文章をはじめ、その他の手紙を中心にそれは表現されています(*5)。レーニンを絶対視しようとか、神格化しようとかいう意図はまったくありませんが、どういうことを言っているのかを紹介しておきます。
 まず一つはスターリンへの批判ですね。スターリン批判の始点・起点はここにあるわけです。レーニンは大会を前にしてスターリンを書記長から解任すべきだと主張します。スターリンは二二年に党の書記長に就任しています。それから一年も経たないうちにスターリンを辞めさせるべきだという手紙を書いて同志たちに送っています。その一部を引用します(*6)。「粗暴だ」という言葉でスターリンを批判しているんですが、その中味はもっと広かったと理解できます。別の言葉で言えば党の民主的な運営、リーダーの間での団結の形成、そういうことにスターリンの振る舞いが非常に大きな阻害要因になっているとレーニンは言ったんだと思います。スターリンはレーニンから激しい批判を受けたけれども、何とか事態を乗り切って、二八年から二九年ごろにはスターリン体制というものをつくっていく。のちのスターリン主義というひとつのイデオロギーにまで高めあげていくことに成功していくわけです。
 それからスターリン批判の一環でもありますが、それにとどまらない大ロシア民族主義批判というものをレーニンは展開しています。ロシアは「民族の牢獄」と言われるように、抑圧民族である大ロシア民族とその他の被抑圧民族である少数民族から構成されている。その民族差別というものを利用してツアーは人民に対する支配を行なってきたわけですが、それを打ち破らなければ革命は勝利できないというのが、ひとつのロシア革命のまたレーニンの大きなテーマでもありました。革命後の連邦形成の過程のなかで、「グルジア問題」(*7)が発生します。民族問題に対して非常に誤った対応が行なわれたということを聞いてレーニンは憤り、その根拠である大ロシア民族主義とたたかわねばいけないということを力を込めて主張します(*8)。
 三番目に取り上げたのは文化革命の重要性、官僚主義の克服ということです。文化革命というのは革命後数年を経てレーニンが使った言葉だと思います。直接にはいわゆる「読み書き」の能力ですね、識字率がロシアではあまりにも低い、そういう実情の上に官僚主義が成り立っていると言います。ロシアではプロレタリア文化というものを論じる前に、先進国で一般化しているようなブルジョア文化というものがあまりにも足りないということを考えるべきだということをレーニンは言います。これも重要な提起だと思います。
 最後にアジアの目覚めとの結合ということです。ドイツなどヨーロッパ地域で世界革命に向けた革命運動がついえたのち、レーニンはアジアの民族解放闘争との結合という観点を強めていきます。もともとアジアへの関心がレーニンは強かったんですね。ロシア自体がヨーロッパとアジアを結ぶ結節点的な位置にある。ですから自分たちの振る舞いいかんによっては、社会主義というものがアジアの被抑圧民族から失望を受けるかもしれないという観点を持っていました。勃興し始めたアジアの民族解放闘争、この新しい世界的な動きとどういうふうに結合していくのか、結合するためには何が必要なのか。自分たちのなかにある結合を阻害する要因とたたかわなければいけない。ということで革命後の党と国家の変革をめざしたということです。
 しかし現実には、革命後生まれてきたこうした構想や発想というものは、レーニンの死とスターリンの台頭によって、実を結ぶことがなかったということです。

 ●8章 光を放ち続ける未完の革命

 ロシア革命は一九九一年のソ連の崩壊で意味を失ったということが言われてきました。それと同時に社会主義が敗北して、資本主義が勝利したということが大々的に宣伝されてきました。並行して台頭してきたのが新自由主義でした。これは戦後の資本主義を基調づけた修正資本主義―福祉国家論、それを下支えしたケインズ主義に代わって登場したイデオロギー・政策であったわけです。新自由主義が跋扈するなかで世界的にも貧困と格差が拡大していく。日本の場合、二十一世紀に入るころに、「日本に貧困や格差は広がっているのか」「日本に貧困はあるのか」というような議論が発生しました。それから十数年たって格差・貧困の存在を否定する人はもはや誰もいません。格差や貧困というのは資本主義の矛盾を示す一番の表れです。資本主義が歴史的な行きづまり状態に入り、資本主義の未来に展望がなくなったと思われる状況下で、「資本主義は終わった」ということを公然と主張する人たちも出てきています。しかし終焉した資本主義を何にとって替えるのかということについては回答らしい回答は何もないのです。
 資本主義というのは賃労働と資本の関係を基軸とした社会です。この関係が資本主義社会の基礎にあります。賃労働と資本の関係を止揚することをめざすのでなければ、くり返し現れ労働者人民を襲いつづける資本主義の矛盾を解決することも、労働者階級の解放を構想することもできません。一方の側に生産手段と資産が独り占めされ、他方の側には労働力のほかには何もなく実質的な強制労働としての賃労働を担うしかないぼう大な労働者階級がいる。そういう労資の関係が社会を支配し、それが国家と政治を規定し、現代の帝国主義の動向を深いところで規定している。こういう社会関係を転覆していくということが問題にされてきたわけです。それが共産主義革命に向かう第一歩、その中心にある。これを最初に試み勝利したのがロシア革命であり、当時決して社会の多数派ではなかったロシア・プロレタリアートのたたかいであったと思います。
 革命を再生産していく条件は、現在もなお社会の深いところに存在しています。ロシア革命というものは破産していないし、共産主義革命というものも破産していない。ロシア革命は私たちの胸のなかに未完の革命、まだ閉じられていない革命として存在しています。
 現在の政治状況を考えると、革命をもって帝国主義戦争と貧困に対決し勝利したというロシア革命の意義は非常に重要です。戦争・貧困に新しい社会の構想を対置してこれを打ち破ろうとしたという点で、ロシア革命は現代に生きる私たちに大きな希望の光を放ち続けているのではないでしょうか。

 
【注】
(*1)本年一月から三月までに出版されたロシア革命に関連する書籍をあげる。池田嘉郎『ロシア革命 破局の八カ月』(一月)、的場昭弘『「革命」再考 資本主義後の世界を想う』(一月)、下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917―1991』(一月)、広瀬隆『ロシア革命史入門』(二月)、神奈川大学評論86号『特集=ロシア・東欧の100年―ロシア革命から現在まで』(三月)。その後、六月から『ロシア革命とソ連の世紀』全五巻が刊行開始される。『第一巻 世界戦争から革命へ』『第二巻 スターリニズムという文明』『第三巻 冷戦と平和共存』『第四巻 人間と文化の革新』『第五巻 越境する革命と民族』。他に『ピープルズ・プラン77 特集 ロシア革命一〇〇年』(八月)『情況 特集 ロシア革命百年』(秋)などの発行が続いている
(*2)「一九一七年のロシア革命は歴史における転換点であり、後世の歴史家が二〇世紀最大のできごとと評価するのも当然であろう」「ロシア革命は、資本主義の没落の結果として、また同時に原因として考えられてよいであろう」(E・H・カー『ロシア革命』一九七九年)
(*3)レーニンの言葉から。「社会主義を少数者の手で、党の手で導入することはできない。社会主義を導入することは、数千万人が自分でそうすることを学びとった時に、彼らだけがなしうることである」(『ロシア共産党(ボ)第七回大会』一九一八年)。「共産主義者の手で共産主義社会を建設するというのは、子供っぽい、まったく子供っぽい考えである。共産主義者は大海中の一滴である。人民という大海中の一滴である」(『ロシア共産党(ボ)第十一回大会』一九二二年)
(*4)コミンテルンにおけるレーニンの自己批判。「一九二一年の第三回大会で、われわれは、共産党の組織的構成、活動の方法と内容にかんする決議を採択した。この決議はすばらしいものである。だが、それはほとんど一貫してロシア的である。つまりすべてが、ロシアの条件からとられている」「私は、われわれが、この決議で大きな誤りをおかしたという印象、つまり、われわれが自分で今後の成功への道を断ってしまったという印象を受けた」(『共産主義インターナショナル第四回大会』一九二二年)
(*5)レーニンの「遺書」についての著書がある藤井一行によれば、「レーニンの『遺書』とは次のような文書である」「1『大会への手紙』…2『ゴスプランへの立法権の付与について』3『少数民族あるいは自治共和国化の問題によせて』4『日記の数ページ』5『協同組合について』6『わが革命について』7『労農監督部をいかに改組すべきか』8『量は少なくとも、質のいいものを』」。(藤井一行『レーニン「遺書」物語』一九九〇年)
(*6)レーニンによるスターリンの書記長からの解任要求。「スターリンは粗暴すぎる。この欠陥は、われわれ共産主義者のあいだやその交際の中ではまったくがまんできるものではあるが、書記長の職務にあってはがまんできないものとなる。だから私は次のこと、すなわち、スターリンをそのポストからほかへ移し、他のすべての点においてただひとつの長所によって同志スターリンにまさっている別の人物、すなわちほかでもなく、同志たちにたいしてもっと忍耐づよく、もっと忠実で、もっと丁重で、もっと思いやりがあり、あまりに気まぐれでない、等々の人物をそのポストに任命する方法をよく検討するよう同志たちに提案する」(『大会への手紙』『一九二二年十二月二十四日付の手紙への追記』一九二三年一月)
(*7)一九二〇年代はじめ、ソビエト国家の形成過程で「グルジア問題」と呼ばれる論争・対立が発生した。それは大ロシア民族が支配民族として存在してきた多民族国家・ロシアにおいて、支配・被支配関係を越え、革命の勝利という新しい条件の上に立って新しい国家をどのようにして形成していくのかをめぐる論争であった。革命直後に発布された『ロシア諸民族の権利の宣言』では、「諸民族の平等と主権」「あらゆる民族的な特権や制限の廃止」「諸民族の自由な自決の権利」などが宣言されていた。それらを通じて革命政権は、「ロシア諸民族の自発的で誠実な同盟」をめざすということが打ち出されていた。だがスターリンらは「諸民族の同権」などをうたったこの宣言の精神を裏切った。スターリンらは、ロシア民族以外の相対的に弱小な諸民族をロシアの一部に組み込んで、大ロシア民族を中心とした強力な中央集権国家を樹立することを構想し(「自治共和国化」案)、そしてそれを強行しようとした。グルジア共和国を統合するという問題では、グルジアが単独で国としての同一性を維持したまま直接ソビエト国家の一員となることを要求したグルジア共産党指導部に対してスターリンらは、これを自己中心的な「民族主義的逸脱」と批判し、かれらの抵抗を押しつぶすという態度を取った。このなかで、スターリンに同調していたオルジョニキッゼによる暴力行為も発生した。スターリンらの強権的な措置の結果、グルジア共産党・中央委員会は解体に追い込まれた。
(*8)大ロシア民族主義批判に関するレーニンの手紙のひとつ。「大ロシア人的排外主義にたいして、私は生死をかけたたたかいを宣言する。忌まわしい歯から解放されしだい、すべての健全な歯でこれを食いつくしてしまおう。同盟中央執行委員会では、ロシア人、ウクライナ人、グルジア人、その他が順番に議長をつとめることを絶対に主張しなければならない。絶対に!」(『大国的排外主義との闘争についての政治局への覚え書』一九二二年)。文末には、「そのとおり!イ・スターリン」という奇妙な言葉が付いている。前述の藤井によれば、この部分は後からスターリンが加筆したものだという。スターリンこそ民族問題における態度の誤り(諸民族の同権の否定など)をレーニンによって厳しく批判された張本人であったのに、この一文を加えることで、自分こそはレーニンの継承者だと見せかけようとした。レーニン全集第五版(ロシア語)で、この一文は削除された。

 

当サイト掲載の文章・写真等の無断転載禁止
Copyright (C) 2006, Japan Communist League, All Rights Reserved.