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   ■ハンセン病絶対隔離絶滅政策を考える

   
「無癩県運動」から菊池事件まで(上)(下)

              
秋山 修
         
                          


  
 二〇二〇年二月二六日、熊本地裁はハンセン病菊池事件の国賠訴訟判決を言い渡した。判決では、菊池恵楓園内で開かれたハンセン病患者だけに強制された特別法廷(隔離法廷)は憲法違反であると画期的な判断を下した。被告以外の関係者が白衣を着用し、ゴム手袋をはめ、箸で証拠物を扱うなどした点も「当時のハンセン病に関する科学的知見に照らせば合理性を欠く差別だ」とし、法の下の平等を定めた憲法一四条違反と判断。審理全体も「差別・偏見に基づき被告人の人格権を侵害した」として憲法一三条違反も認定した。また菊池恵楓園内に限定した開廷場所は一般国民の傍聴を拒否したに等しく、公開裁判を規定した憲法三七条及び八二条に違反すると判断した。しかし、Fさんの再審は認めなかった。
 私はこの裁判とは深く関わり、この日の判決を元患者原告、入所者、支援者、弁護団とともに心から歓迎する。以下、私が菊池事件をきっかけにハンセン病問題にかかわり見えてきた、世界の治療の流れと真逆の方向である「絶対隔離絶滅政策」に突き進んだ日本のハンセン病政策について報告したい。

 ●1 はじめに

 菊池事件は私の生まれ故郷の隣の集落で起きた事件である。一九五一年に第一次事件と言われる「ダイナマイト事件」。翌五二年に第二次事件である殺人事件が起きた。この二つの事件を併せて「菊池事件」と呼ぶ。この事件の「犯人」とされたFさんは、戦前の「無らい県運動」の高揚期一九四〇年に行われた癩患者全国一斉調査(素人が調査)によって「ライの疑い」ありとされたようである。戦後、県の命令で患者名簿を作成し提出したのが同じ集落のA氏(村の保健係)である。一九五一年一月に菊池恵楓園からFさんに出頭の連絡が届き彼は苦悩する。そういう時に起きたのが第一次事件である。A氏に対するFさんの逆恨みによる犯行と警察・検察はデッチ挙げ、恵楓園内収容施設(後の医療刑務支所)に拘留し、国賠訴訟判決で述べるような特別法廷での差別的訴訟指揮で懲役一〇年の判決を受けた。判決後、自殺しようとして恵楓園から逃げ出した後、彼が逃亡中起きたのがA氏が二六箇所の刺し傷で死亡した第二次事件である。恵楓園特別法廷での差別裁判の結果一審で死刑判決、控訴・上告も敗訴、三次にわたる再審請求も棄却され、一九六二年無念にも死刑が執行された。
 その当時、私はFさんと私の家族とのつながりなど何も知らず、回りの大人達がひそひそ話をしているのを聞き、死刑が執行されたときには「親戚孝行した」という話も耳にし、子ども心に地元からハンセン病患者が出たことが「恥」になることを強く感じ取った。
 この事件が冤罪事件であることは、一九七〇年代中頃に部落解放同盟の『狭山事件』パンフによって初めて知ることになった。その時は狭山差別裁判を糾弾し、無実の石川さんを取り戻す解放同盟の運動と連帯して大学で活動しながら、県内の被差別部落の高校生の学習会にも通っていた。でも自分の地元で起きたハンセン病に係わる冤罪事件であるにもかかわらず、私はこの事件に積極的にかかわろうとしなかったことが今でも悔やまれる。
 二〇一六年の「らい予防法廃止」を受けて、全国のハンセン病療養所の自治会が訴訟に動き出した頃、地元の大学生と知り合いになった。彼はハンセン病に強い関心を持ち、卒業後は菊池恵楓園に臨時職員として就職した。彼を菊池事件の現場にも案内し、彼からは菊池事件関連の資料のコピーなどをもらうことができた。警察の証人調書には地元の顔見知りの人たちのものが含まれており、これほど身近な事件だったことを知り、Fさんの警察によるでたらめな取り調べと無実だという確信も湧いてきた。
 二〇〇〇年頃実家に帰った折、父に「私はFさんの無実を確信したので、彼の名誉回復をしたい」と打ち明けた。ところが、父からは「お願いだから、それだけは止めてくれ。」と懇願された。意外であった。なぜかと聞き返すと「Fの母親は従姉妹に当たる」という。これで、父達が集まってはひそひそ話をしていたことの謎が解けた。だが私が学生運動に没頭したときでさえ、「止めてくれ」と面と向かって言ったことは一度も無かった父であるが、「ハンセン病患者で殺人犯の一族」という汚名を着せられることへの恐怖がこれほどであったのかと愕然とした。ハンセン病患者家族に降りかかる差別の「厚い壁」をこの時ほど身にしみて感じたことはない。今から振り返ると、当時の「無らい県運動」による患者あぶり出しの荒波に、わが家族も翻弄されて来たことになる。
 それ以降、菊池恵楓園の自治会とも交流が始まり、ハンセン病市民学会の集会へも参加する機会が増えた。こうした中で、ハンセン病市民学会の会員の一人から菊池事件の現場を案内して欲しいという要請を受け、警察の現場略図に記してある場所すべてを自分で探し出し、弁護団や支援者の現地調査の案内などを続けてきた。このような個人史を踏まえて、私自身の自己批判も含め、ハンセン病について現時点で見えてきたことの報告を書き進めたい。

 ●2 ハンセン病とは

 ハンセン病は旧約聖書の時代から存在した病気であり、日本でも平安時代頃からの文献に登場する。「遺伝病」であると信じられていたが、一八七三年ノルウェーのアルマウェルハンセンによって「ライ菌」が発見され、伝染病・感染症であることが確定した。しかし「ライ菌」は感染力が弱く、コレラ、チフス、ペストなどの急性感染症ではない。食糧事情などが悪く、身体の免疫力が弱い人が感染しやすいと言われている。現在でも発展途上国に患者は多い。ハンセン病を発症すると皮膚の発疹や手足の麻痺、痛みや熱さを感じにくくなる知覚障害などが表れる。そのため火傷をしたりする。また、強力な免疫反応である「ライ反応」が起きると、神経麻痺や運動障害が起き、手足の変形などの後遺症が残る。
 現在では多剤併用などの治療法が確立されており、政府発表でも日本人では感染者は年間一人いるかいないかくらいになっている。早期発見・早期治療により後遺症が残ることはない。

 ●3 ハンセン病者隔離「癩予防に関する件」

 日清・日露戦争に勝利した日本帝国主義は、いよいよ西欧列強の仲間入りを果たすべくさまざまな法律を作った。すでに一九〇二年には帝国議会に「癩(らい)病者の取り締まり」の「建議案」が出され、「恐るべき伝染性疾患にして、野蛮国の表徴である癩病者の取り締まり」が政治課題になっていた。
 そして日露戦争後の一九〇七年に法律「癩予防に関する件」が成立したのである。この背景には、明治政府による欧米列強との不平等条約の改正が進み、外国人が居留地の外に自由に居住出来るようになったことで、彼らに「物乞い」をするハンセン病患者の姿を見せるのは、日本が〝野蛮国〟に見られるという危機感が支配階級側に広まったこともある。
 法案の提案者の一人島田三郎は「日本は武力において世界の一等国になって居るにも拘わらず、野蛮国でなければ現れないところのこの癩病患者が是の如く多数あって、この取締法に一つも注意を払わぬと云うことに至ったならば、この点においては日本は何分にも文明国に列する面目は無いと思うのでございます」と帝国主義と差別主義にみちた演説をしている。
 一九〇七年の第二三回帝国議会へ提出された政府案では「公園とかあるいは神社仏閣、もしくは温泉などに徘徊を致しているものが随分多いのでございますので、(中略)これらの伝搬を予防する必要もあります。(中略)これらの病者の徘徊致しまするのは最も厭うべき事でありますから、これらの取り締まりも要さなければならぬ(中略)他の伝染病の如くにそれぞれ消毒など致させまする必要がございます」と述べている。
 この提案理由から見えることは公園・神社仏閣・温泉などに徘徊しているハンセン病患者が病気をあちこちに伝搬するのを取り締まることだと考えられる。この法律の第一条は医師に対してライ患者と診断したときは、三日以内に行政官庁に報告しなさいという。第二条では、ライ患者が発生した家については消毒を徹底すること。第三条は、ライ患者は行政が設けた療養所に収容させる。ただし「適当と認めるときは扶養義務者に患者を引き取らせても良い」と書いている。第四条では、道府県に公立の療養所を作らせることも。第五条では、収容される場合の費用は本人負担とし、払えないときは家族が負担するとなっている。日露戦争での戦費負担で国家財政が逼迫した事情によると考えられる。
 この法律により、その後の「絶対隔離絶滅政策」へと向かう、政府の基本骨格は出来たのであるが、この時点では主に市中を徘徊する「浮浪ライ患者」を主な対象としていることが分かる。引き取り手があれば、扶養義務者のところへ帰しても良いことになっているので、「全患者の隔離」までには至っていない。
 法第四条を受けて内務省令により全国各地に療養所が設置された。第一区域は関東七府県、甲信越、東海地域、第二区域が北海道と東北六県、第三区域が近畿・関西、北陸、第四区域が中国四県と四国四県、第五区域が九州及び沖縄となった。開設された療養所は第一区全生病院(多摩全生園)、第二区北部保養院(松ヶ丘保養院)、第三区は外島保養院(邑久光明園)、第四区は第四区療養所(大島青松園)、第五区は九州療養所(菊池恵楓園)という配置であった。

 ●4 療養所での生活

 患者が「収容」されるときは警官が付き添い、住まいは行政の衛生係によって薬剤で真っ白になるまで徹底的に消毒がされた。ハンセン病が「恐ろしい伝染病」であるという恐怖感を植え付けるには十分であった。そして、駅には「お召し列車」と呼ばれる貨車などが用意された。消毒のにおいが充満し、到着駅では一般乗客の乗降が済んだあとで降ろされた。療養所に着くと、まず「消毒風呂」に入浴させられ、着てきた着物・所持金などすべて取り上げられた。風呂から上がると、おそろいの着物(ユニフォーム)が与えられた。
 寮舎は男女別に分けられ、一二畳に八人くらいの雑居住まい。仕事は最初は水くみ、糞尿くみ取り、木炭運び、等であるが、軽傷者は患者輸送、包帯交換助手、動物の飼育、土木作業、死亡した患者の火葬・埋葬なども行った。僅かな「慰労金」が支払われたという。しかし、病気の治療は効きもしない大風子油(だいふうしゆ)の注射くらい、単調な生活で、社会からの情報も途絶え、「娯楽」もない生活で次第に患者の心は荒んでいき、脱走者が毎年増えていった。仏教各派、キリスト教団などが救済のため布教にくるようになったという。

 ●5 懲罰規定と「断種」

 一九一四年全生病院ではそれまで医長であった光田健輔が所長になった。この人物が、その後の日本のハンセン病「絶対隔離絶滅政策」の中心人物となっていく。一九一五年二月に内務省で療養所の所長会議が開かれたが、そこで光田は反抗したり逃走したりする患者が増えているので懲戒法を設けて、所長が退所もしくは監禁を命ずることができるように、法改正すべきと提起した。
 これを受けて、翌一九一六年には「癩予防に関する件」が改訂され、療養所長の「懲戒検束権」が付与された。これにより全国の療養所には患者を懲罰する「監房」が設置されることとなった。主に監房送りとなったケースで最も多いのは所長などへの「反抗」であった。これは、すべては所長の恣意的判断であり、患者の生殺与奪権を掌握するという「暗黒時代」への道でもあった。裁判を受ける権利など患者には全く保障されることはなかった。
 さらに光田健輔は一九一五年頃から独断で違法な「断種」手術を全生病院の男性患者に対して行っている。一九一九年時点で、すでに一六〇名の患者に断種手術を行ったと報告している。彼らは絶対隔離により、療養所内で男女が結婚することを認めないと所内の治安維持が出来ないと考え、所内結婚承認の条件として男性には断種手術、妊娠した女性には人工中絶を行うことを非合法で始めた。その後全国の療養所に拡大した。手術は医師だけでなく、看護師なども日常的に行っていた。
 戦前でも暗黙のうちになされていた非合法の手術であったが、これが戦後になると「優生保護法」の登場(一九四八年施行)により、ハンセン病患者に対する断種、中絶が合法化され強制されたのである。これは一九九六年まで続いた。

 ●6 「癩予防法」による全患者隔離へ

 一九三一年、日本帝国主義は九月柳条湖事件を起こし、中国への全面侵略戦争を開始する。「満州事変」が開始されたその年に、一九〇七年制定の「癩予防に関する件」が全面的に改定され「癩予防法」が成立した。優秀な兵士を育てるため、国民の体力強化が叫ばれ、「ラジオ体操」が始まるなど、国民を総力戦体制に組み込む国策が強化された。そこで「民族浄化」の手段として法律改定がなされたと考えられる。
 改定のポイントは、すべての「癩患者」を療養所に隔離すると定めていることだ。そして療養所の関係者は患者の個人情報を一切外に漏洩してはいけないと規定した。これにより療養所内では実名ではなく、通名の使用が常態化したのである。これは戦後まで続く。
 こうして、患者は全員が強制収容施設に隔離され、就業の自由をはじめ一切の市民的権利を剥奪され、所長の裁量だけで裁判もなしに懲罰房に送られることが日常となった。

 ●7 癩予防協会設立から「無癩県運動」へ

 「癩予防法」ができた一九三一年には、この体制を官―民で支える「癩予防協会」が設立されている。実業家の渋沢栄一と内務省が合同して設立された。そして、内相安達謙蔵などの仲介もあって、大正天皇の后である皇太后節子(貞明皇后)を担ぎ出し、設立にあたって多額の「下賜金」を出させた。「皇恩」を強調し、天皇制の下に国民を一致団結させる装置に変えようと目論んだのである。
 だが、実際は天皇の即位儀式や陸軍特別大演習の時には「癩患者」は警察の取り締まり対象になり、徹底した弾圧を受けていた。残念なことに「皇恩」による欺瞞的「慰問」は現在も続いており、国体などで天皇一族の地方訪問時には療養所「慰問」がある。
 「癩予防協会」に民間から協力したのはキリスト者によるMTL(Mission to Lepers)や真宗大谷派など宗教団体や財閥であった。そして、皇太后節子の誕生日六月二五日を「癩予防デー」と決め、イベントなどを通じて天皇の「皇恩」を拡散する絶好の機会として利用した。こうして天皇を頂点に据えた官民合同の一大国民運動(ファシズム運動)が始まり、一九三六年の政府の「癩の根絶計画」へと上り詰め「無癩県運動」が全国で展開されることとなる。

 ●8 自治会を拠点とした患者達の闘い

 療養所の生活で自暴自棄に陥る患者は、逃走や自殺、あるいは賭博、モルヒネ中毒などに追い込まれていた。入所者管理が行き詰まりを見せる中で大阪の外島保養院では、一九一五年に院長が「自治会」を許可した。院長の認める範囲ではあれ、入所者は自ら規則を定めて代表者を公選し、療養所と交渉して運営に参加する道が開けた。自治会には執行機関が置かれ、人事部・食料部・農事部・教育部・事業部(養豚・養鶏・養兎・製菓など)が活動し、議決機関として評議員会などが置かれた。「相愛互助」の精神のもと、主に軽度の患者が生産活動に励み、そこで得られた対価を互助会で管理し、重度の患者も含めて全体で共有した。
 ちょうど大正デモクラシーの時代であり、宗教だけでなくマルクス主義も外部からもたらされた。「非合法雑誌」が所内に持ち込まれ、学習会が組織され、他の療養所とも連絡を取り合うようになった。外島保養院では一九三一年五月に「五月会」として活動を公然化させている。彼らの課題は、自治会執行部を牽引する宗教勢力によって担われている状態を問題視し、その打倒を目指したようである。マルクス主義を掲げる団体の登場によって自治会執行部の宗教勢力との間での対立が鮮明となった。「五月会」は村田院長の支援を期待していたが、それも潰え一九三二年には自発的な解散を決意した。
 しかし、彼らが訴えた改革の機運はその後の作業改革をめぐる所内の意見対立にも反映した。一九三三年一月「日本プロレタリア癩者解放同盟」外島保養院で密かに結成され、患者運動は重要な飛躍を果たすことになる。参加者は外島保養院・大島療養所の一〇名程度であったと言われている。彼らは二二条からなる「政策草案」を発表したが(✻文末資料参照)、「差別徹底糾弾」「団結権罷業権獲得」「言論結社集会の自由」「医療体制の完備」「完全な自治制獲得」「退院(追放)並びに体刑処分(懲罰房)絶対反対」「普通選挙権獲得」「外出の自由」など現在でも通じるものばかりであった。ハンセン病に対する差別そのものを初めて問題にするという患者運動の決定的な転換を果たした。

 
✻資料/日本プロレタリア癩者解放同盟政策草案
No.1 因習的差別観念打破
No.2 全国的待遇の改善並びに統一
No.3 親書小包の強制開封絶対反対
No.4 作業賃金の値上並に労働時間の短縮
No.5 言論集会結社の自由獲得
No.6 団結罷業権の獲得
No.7 満18歳以上の男女に選挙権の自由獲得
No.8 戸籍調査の廃止並に転籍の自由獲得
No.9 遺族救護法の改正
No.10 全国的癩相談網の確立
No.11 全国各療養所の医療機関の完備
No.12 全国各仮療養所の医療機関の完備並待遇の改善
No.13 全国各療養所に於ける完全なる自治制の獲得
No.14 退院並に体刑処分絶対反対
No.16 娯楽機関の完備
No.17 各私立療養所への医療的援助
No.18 全国各療養所の拡張
No.19 患者の犠牲に依る収容人員の増加絶対反対
No.20 重病者の待遇改善並に保護方法の制定
No.21 差別者の徹底糾弾
No.22 外出の自由獲得
『菊池野』1957年11月号12月号、1958年4月号より
※『菊池野』は菊池恵楓園入所者自治会の月刊機関誌。『ハンセン病療養所と自治の歴史』松岡弘之著を参照


 外島保養院の思想と運動は他の療養所に伝わり、大島保養院では一九三一年に自治会が結成され、一九三六年には光田健輔が園長を務める長島愛生園でも患者達がたち上がり、厳しい闘いの末自治会「自助会」結成を勝ち取っている。
 一九三四年九月に関西地方を襲った室戸台風で外島保養院は甚大な被害を被った。患者一七三名、職員三名、職員家族一一名の死者が出た。被災後生き残った患者は、全国の療養所に委託され、施設は取り壊された。一九三八年岡山県邑久郡の長島に移転再建され、名称も邑久光明園となり、再び各地の療養所に分散していた患者は帰ることになった。分散収容されていた療養所にも、大島保養院時代の自治の経験は語り伝えられ、戦後の自治会運動に貢献している。

 ●9 総力戦体制と「無癩県運動」

 二〇年で癩根絶をめざす内務省衛生局は、公立療養所(一九四一年国立へ移管)の他に新たに国立療養所を建設していった。岡山の長島愛生園(一九三〇年)、宮古保養院(一九三一年)、草津に栗生楽泉園(一九三二年)、鹿屋に星塚敬愛園(一九三五年)、沖縄島に国頭愛楽園(一九三八年)、宮城に東北新生園(一九三九年)、奄美大島に奄美和光園(一九四三年)、静岡に駿河療養所(一九四四年)と拡大し全国くまなく患者狩りを進めた。
 すでに植民地朝鮮では一九一七年に全羅南道に小鹿島慈恵医院が開設され、台湾でも一九三〇年台北郊外に楽生院が開設されている。その後南洋諸島、更には「満州」にも癩病院を作った。光田らは、中国から「大東亜共栄圏」にまで「救癩」の範囲を広げようと画策した。
 ここでは「紀元二六〇〇年」を祝い、「無癩県運動」が最大に盛り上がった一九四〇年に起きた熊本市の本妙寺集落での一斉患者狩り事件について触れる。本妙寺は加藤清正の菩提寺であり、江戸時代から「清正は実は癩病であった」という噂が広がった。全国から救いを求める癩患者が集まり、参道には大集落が作られていた。「癩予防に関する件」が審議される過程でも、本妙寺のことがたびたび取り上げられ、それ以降、本妙寺集落の「浄化」が課題とされてきた。一九三四年に熊本でキリスト者の九州MTLが「癩予防協会」の主導で結成され、恵楓園の園長に宮崎松記が就任したことが熊本に於ける「無癩県運動」の始まりと云われる。
 宮崎松記らの指揮の下、一九四〇年七月九日から一一日にかけて本妙寺集落を警察と行政職員が急襲し、ハンセン病患者一五七名が強制収容された。患者達は全国の療養所に分散収容された。特に本妙寺集落の自治組織である「相愛更正会」のメンバーは群馬県草津の栗生楽泉園に送られ、一七名が「重監房」送りとなっている。「重監房」は長島愛生園などでの患者の闘いを総括して、「思想犯」の取り締まりを強化すべく、一九三八年に草津楽泉園に作られた。全国から九二名の患者が送られ、敗戦までに極寒の収容室で二二名が「獄死」しているが、幸い本妙寺関係者に死者は出ていない。
 戦時下のハンセン病療養所のうち沖縄では米軍による空襲を受け多数の患者が殺害され、他の療養所でも防空壕掘りや畑地開墾などの重労働と「飢え」、医薬品不足などで病気は重症化し、続々と死亡者が出た。もちろん自治会が存続する余地はなかった。


(下)


 私は子ども時代よくラジオを聞いていた。「あーあー恵楓園 あーあー恵楓園 朝晩毎日鐘が鳴る 絶えず幸せの鐘が鳴る」という明るいメロディーが流れていたことを覚えている。今から振り返るとこれが「無らい県運動」のコマーシャルソングだったようだ。しかし、現実の菊池恵楓園には二〇〇一年五月の熊本地裁国賠訴訟判決まで「幸せの鐘」は鳴らなかった。世界的にはプロミン(注射薬)、ダプソン(経口薬)の登場で「治る病気」になっていたが、厚生省は療養所に入所しなければこれらの医薬品は使えないことにした。プロミン治療をエサにして患者を療養所に囲い込もうとしたのだ。「軽快退所」について光田健輔(長島愛生園園長)は「生兵法大けがのもと」と批判し、「軽快者だとて出してはいけない」と訴えた。「本人のためにも世の中のためにも療養所へ入りましょう」と行政は絶対隔離を推進した。

 ●1 戦後も継続した「無らい県運動」

 戦後、日本国憲法が施行され基本的人権の尊重が憲法に登場した。誰よりもこれを待ち望んでいたのが療養所に強制隔離された患者達であった。一九四七年八月、参議院補欠選挙が行われ、群馬県の草津楽泉園に共産党の選挙カーが訪れたことがきっかけとなって、「重監房」の人権侵害の実態が初めて報道され、国会でも取り上げられた。厚生省・国会の現地調査団が派遣され、その年の一一月「重監房」は廃止されることになった。
 草津に始まった患者達の自己解放運動は、すでに自治会を発足させていた鹿児島の星塚、東北の新生園などに続き、菊池恵楓園、松丘保養園、大島青松園、多摩全生園など続々と民主的運営に基づく自治会が誕生した。多摩全生園には戦前大阪の外島療養所で「プロレタリア癩者解放同盟」結成に参加し、その後外島を追放された患者も含まれていた。
 そこで全国的にとり組まれたのが新薬プロミン獲得運動である。敗戦を待ってアメリカからもたらされた新薬プロミンは全国のハンセン病患者に絶大な光明をもたらした。その効果は抜群ですべての癩菌種に対応し、「不治の病」が「治る病気」になり、患者たちはその獲得に奔走した。多摩全生園で作られた「プロミン獲得委員会」にやがて全国の自治会が合流し、一九五一年一月には「全国国立癩療養所患者協議会」(全患協)が結成された。
 こうして戦後民主主義が花開き始め、患者達の自己解放の叫びが療養所を席巻していた頃、政府は第二次「無らい県運動」へと舵を切っていた。厚生省は一九四七年各都道府県に対して「無らい方策実施の件」を通知し、さらに一九四九年には「昭和二五年度のらい予防事業について」により患者収容の徹底を図った。同年、「全国療養所長会議」は「第二次無らい県運動の実施」を決議し、戦後の「無らい県運動」は開始された。戦前の警察に代わり、保健所の医師・保健婦の「善意」が衛生警察の権力以上に威力を発揮した。さらに後で述べる「三園長発言」に見られるように、国民に対しては患者と思われる人物を「密告」しあぶり出すことが求められた。戦前は、患者狩りでは戦争に向けた「優秀な兵士を作るため」「民族浄化」などが掲げられたが、日本国憲法下では「公共の福祉」が患者狩りの根拠とされた。
 一九五〇年の国のらい患者調査では未収容者を含めて一万五〇〇〇人とされた。このうち入所者は約一万人である。厚生省は一九四九年度から一九五三年度までに五五〇〇床のベッドを増床し、すべてのらい患者の収容を目指した。特に菊池恵楓園では五一年までにベッド一〇〇〇床増設工事が完了し、九州各地で患者狩りが徹底して進められた。その結果熊本県だけでも恋人に兄のハンセン病を知られた一七才の少女自死事件や、猟銃での親子心中事件などが続き、菊池事件もこの時に起きている。「第二次無らい県運動」により、ハンセン病をめぐる悲劇は全国で引き起こされた。

 ●2 三園長国会証言と「らい予防法」の成立

 一九五一年一一月参議院厚生委員会に於いて、ハンセン病の歴史を画する「三園長証言」なるものが開かれた。これは五三年に戦前の「癩予防法」の改悪となる新法の成立をめざすための意見聴取の性格を帯びたものであった。三園長とは光田健輔(長島愛生園長)、宮崎松記(菊池恵楓園長)、林芳信(多摩全生園長)であるが、この三人がハンセン病問題全般にわたって「専門家」の立場から参考人として意見を述べたものである。以下二名の発言の要旨を簡単に紹介する
(光田健輔)
 ①全国的に多くの患者が残っている県として、青森、愛知、大阪、熊本と鹿児島を挙げた。
 ②昔から遺伝と言われ、一つの村全体とか家族に集中するので、そこを探して収容すべき。
 ③今の法律では保健所まかせで強制収容が出来ないので法律改正が必要。
 ④予防治療のためには断種・堕胎をすれば良い。
 ⑤朝鮮戦争下の南朝鮮からのらい患者の入国を制限する必要がある。
 ⑥療養所の中に民主主義をはき違えて党派活動をするふとどき者が居るが、こうした者の強制収容など法律改正が必要。
 ⑦日本の救癩事業は世界一進んでいる。
(宮崎松記)
 ①潜在する患者を収容するのは「古畳を叩くようなものであり、叩けば叩くほど出てくる」
 ②患者の強制収容が出来るように法改正をして欲しい。
 以上、彼らの主張は社会防衛が全面に出て人権を無視し、世界の水準からもかけ離れ、ハンセン病医学の知識は驚くほどお粗末である。ただひたすら絶対隔離絶滅政策を推進することが「世界一進んだ」らい対策であるという自己陶酔に近い彼らの発言が、その後「らい予防法」成立への導水路となった。同時に、彼らの発言に対し日本国憲法の人権規定の観点から、あるいは世界的な「癩医療」の発展段階を踏まえて疑問を呈する国会議員がいなかったことも事実である。
 一九五二年五月、全患協は「癩の名称をハンセン氏病にすること」「入所者への生活保護金(療養慰安金)の法制化」「懲戒検束規定の廃止」「強制収容の廃止と自宅療養の保障」「感染性のない者の社会復帰と一時帰省の法文化」「強制作業の原則中止」「癩予防法改正試案の患者側での検討機会付与」などの請願事項をまとめ政府に要請した。
 ところが政府はこれを完全に無視して一九五三年改悪法案を六月の国会に上程し、七月二日の衆議院厚生委員会で実質的な審議が始まった。その政府案には病名の変更も、軽快退所の規定もなく、強制収容は死ぬまで継続する、さらに療養所長の懲戒検束権を明記するなど旧法をさらに改悪した内容であった。日本国憲法の人権規定に対する配慮など「どこ吹く風」という代物ある。これに対して、全患協は血のにじむような大闘争に突入していった。

 ●3 「らい予防法」に反対する全患協の命がけの闘い

 一九五三年「第1次癩予防法改正案」が三月一四日に国会上程された。直後に吉田茂による「バカヤロー解散」で廃案となり、選挙後の六月国会で再提出された。この動きに対して、全国の療養所ではスト権確立、作業放棄、ハンガースト決行などの方針が確立された。多摩全生園の総決起集会には全医労、日本患者同盟も参加し連帯した。これは文字通り命がけの闘いへの突入であった。六月一七日には栗生楽泉園でハンストに決起した一七名のうち一名が重体に陥った。
 七月三日に国会審議が始まるが、一日から多摩をはじめ全国から続々と国会へ結集し、国会前での座り込みを始めテントも張った。四日には、衆議院での自由党などの賛成多数による強行採決を受けて、座り込み参加者は二〇〇名を超えた。全国の療養所ではハンスト参加者八八名、そのうち青森の松丘保養院では六名が重体となった。権力側は国会の座り込み現場に警官二〇〇名、都衛生局員二〇〇名が白衣着用で待機し威圧した。しかし全患協はひるむことなく連日国会前座り込みを続けた。これに対して総評は八日の第四回定期大会で「らい患者の人権擁護の闘いを支援する決議」を満場一致で可決し連帯した。
 七月三一日には参議院通過を阻止すべく、多摩全生園の患者三八〇名が園の正門を突破してデモ行進をはじめ、所沢街道を歩いて国会へと向かった。田無町の入り口で警官隊二〇〇名が阻止線を張ったが、そこで六時間座り込みを続けた。この時警官から差別暴言が発せられ一触即発となったが、患者側の自制で乱闘は避けられた。これに驚いた厚生省は直ちに予防課長が現場に行き、「一歩でも都内に入れるな」と指示しようとした。しかし患者側の闘いの決意と団結の強さが圧倒し、バス五台を用意させ参加者を国会前まで運び、座り込みを激励して園に戻るという要求を国側に認めさせ直ちに実行させた。ただ、この闘いで何人もの方が日射病で倒れ後方へ運ばれたが、女性一人が亡くなっている。それほど命がけの闘いであった。
 八月一日に参議院厚生委で採決が強行されたが、二日以降も全患協は闘いの手を緩めず、本会議での阻止に向けて厚生大臣室前での座り込みなど多彩な戦術で闘い抜いた。本会議での採決は六日であったが、全患協の要求を一部受け入れ九項目の付帯決議を付けさせることができた。八月一三日には全患協はスト解除指令を出した。

 ●4 菊池事件(ダイナマイト事件)

 菊池事件の舞台となったのは、熊本県菊池市の山村である。Fさんは貧農の家の長男として大正一一年に出生した。小学校二年生の時父親が急逝したので、三年生以降は学校へ行かず家の農業の手伝いをやっていた。一九四〇年熊本県内で戦前の「無らい県運動」が高揚していた頃、国は「全国一斉癩調査」を命令し、熊本県では九月一日から二〇日にかけて実施された。当時の新聞記事によれば、ハンセン病に関して素人の警官を総動員して調査したことがわかる。このずさんな調査でFさんは「神経らいの疑いあり」とされたようである。そのことが反映したかは不明であるが、一九四三年に受けた徴兵検査では視力が理由ではねられている。戦時中から戦後にかけて、体が丈夫で体格も良かったFさんは男手が兵役に取られている中で、村一番の働き者として他の農家の作業も喜んで手伝い信頼を得ていた。
 一九四七年厚生省は一九四〇年以来となる患者全国一斉調査の実施、「らい患者及び容疑者の名簿」の作成を命じた。これを受けて菊池郡水源村の衛生係であったA氏は一九四〇年調査に基づきFさんを患者として県に届けている。一九五一年一月九日にFさんに「菊池恵楓園への入所について」という通知が届くが、それは「入所が遅れたら岡山県へ送る(中略)指示に反すれば強制入所となる」とまるで脅迫文であった。これを読んだFさんは家出をして、福岡県内と熊本大学病院皮膚科など三つの病院から「らいに感染していない」という診断書をもらい帰宅した。家族親族は大喜びで祝宴を開いた。その後恵楓園に親族に付き添われて出向いたが、恵楓園の医師は持参した診断書を無視し再診察の必要も認めず、「軽度の神経らい」と決めつけた。厚生省の謂う「らい容疑者」と見なされたようである。当時厚生省ですら「伝染の危険度が大きい患者から入所させる」ことを方針としており、Fさんは仮に感染していたとしても、強制入院の対象ではなかった。しかし菊池恵楓園一〇〇〇床増床と「無らい県運動」の重圧で彼は入所が強制される事態となった。
 一九五一年八月一日にA氏宅に竹竿にダイナマイトをくくりつけたものが投げ込まれ、A氏と次男(四歳)が軽傷を負う事件が発生した(第一次事件)。
 この日FさんはA氏宅に見舞いに訪れている。ところが八月三日、Fさんが、殺人未遂、火薬類取締法違反の疑いで逮捕された。事件翌日A氏は警察に「犯人はFだ」と訴えている。Fさんはダイナマイトを扱った経験も知識もなかった。しかし警察・検察はA氏がFさんをハンセン病患者として届け出たことに対する恨みによる犯行と決めつけた。そもそも農業以外に何も経験が無かったFさんには到底不可能な事件であった。
 むしろ被害者のA氏は戦前大分の鯛生金山で働いた経験がありダイナマイトの扱いに慣れていた。A氏は一九四八年に半年間に及ぶ地域の道路工事でダイナマイトを使用していたことは地域の誰もが知っていた。
 八月二〇日Fさんは熊本地裁に起訴された。第一次事件は、同年一〇月一九日の第一回公判から三回の公判を経て、一九五二年六月九日、「A氏がハンセン病患者として通報したことに対する逆恨みによる犯行」として懲役一〇年の有罪判決が下された。
 これらの公判はすべて菊池恵楓園の中の隔離法廷で行われた。Fさんの家族は事件当夜Fさんは自宅で寝ていたと証言したが、取り上げられなかった。警察がFさんの母親を呼び出して、家宅捜索の時ダイナマイトの雷管がタンスの中から見つかったと話しているが、家宅捜索ではこれを家族に確認もしていない。ダイナマイトの入手経路も何も不明なまま判決が下されている。しかも初犯であるにも拘わらず、一〇年の実刑判決は通常の裁判ではあり得ない量刑である。まともな審理さえなく、ハンセン病患者に対する差別判決に他ならない。

 ●5 A氏について

 ところが、Fさんが恵楓園に拘留されている間に、A氏の家が放火されるという事件が発生している。この二つの事件からA氏に恨みを抱いている人物はFさんではなく他にいたことが容易に分かる。私の父親もA氏のことはよく知っており、「あいつは評判が悪かった」と言った。恵楓園自治会は支援者とともに菊池事件の全貌をつかむため、第二次事件(A氏殺害事件、次節)以降独自に現地調査を続けてきた。そこで見えてきたことは、A氏は戦後農地解放をうけて、地元農民が共有する原野など「入会地」をよそ者に取られるよりは、地元の地権者に配分しようと土地の開墾適地としての申請を働きかけた。ところが、どういう理由か分からないが、他の農民の申請は受理されず、土地は全部A氏の所有となったという。Fさんも「手記」のなかで「Aに土地をだましとられた部落中の人のAに対する憎しみは、根の深いものになっていた」と書いている。
 さらに、第二次事件でも、引き揚げ者などの開拓団への土地払い下げに関与したA氏は、開拓団に払い下げられる土地の中で、条件の良い土地を自分のものとして登記したと疑われた。事件が起きた七月六日午前中、開拓団との会議に出席したA氏に団員からこのことが問題にされ紛糾し、夜八時から再度会議を開くこととなった。A氏がこの会議に出るため、約一キロ離れた自宅から、歩いて会場に向かう途中に事件は起きている。二六箇所の差し傷は複数人の犯行であり、包丁傷も順手と逆手があり、草を扱うフォークの刃か何かが左胸表面から入って右胸の表面に出る細い筒状の傷も見つかっている。

 ●6 A氏殺人事件

 Fさんは懲役一〇年の判決に対して控訴した。しかし服役後も一生恵楓園に隔離されること、村八分になるかもしれない家族や親族のことなど思い悩んだ。そこで母親と娘の顔を一目見てから自殺しようと決意し、一九五二年六月一六日看守の隙を見て恵楓園の監房から逃走する。実家までの距離は約三〇キロほどであるが、警察が逃亡罪で捜索を開始した。途中、従姉妹や叔父などの親戚宅や山中の農小屋などを転々とし実家を目指した。
 Fさんが逃亡中、七月七日早朝に私の実家から八〇〇メートルくらい離れた農道で、A氏が全身に二六箇所に及ぶ切り傷の惨殺死体で発見された。警察はFさんの犯行と断定し、殺人罪で逮捕状を取りFさんの徹底捜索を実施。七月一二日にFさんの実家から一〇〇メートルほど離れた小屋にFさんが隠れているところを警察官が見つけ出した。Fさんは田んぼのあぜ道を走って逃げたが、警官二名が拳銃を発砲し、Fさんは右腕に複雑骨折などの重傷を負った。これは明らかにFさんの殺害を狙った発砲である。その後菊池市内の病院で手術を受け、激痛と麻酔で意識朦朧としているFさんに対して菊池署で取り調べを行った。警察は勝手に「草刈り鎌で殺害した」という調書を作り、警官がFさんの指をつかんで捺印させている。これが唯一の自白調書とされたが、翌日以降Fさんは殺害を否認し続けた。
 ところが八日に司法解剖をした熊大医学部の世良教授が、「凶器は刺身包丁のようなもの」と発言すると、九日には殺害現場から五〇〇メートルくらい離れたため池脇の小屋からまっさらの刺身包丁を警察が「発見」したとされている。しかし、これにはFさんの指紋も血痕もなかった。取り調べでも警察は一度もこの包丁をFさんに見せてさえいない。Fさんがどこからこの包丁を入手したのかも裁判で証明すらできなかった。
 事件当夜(七月六日)、Fさんは大伯母宅に現れ、叔父と会話している。もちろんFさんは事件が起きたことは知らない。そのことをかぎつけた警察は、八日に叔父を「銃刀法違反」で別件逮捕し、Fさんのことについて徹底的に調べた。そして一一日には逮捕前にも拘わらず、この二人について熊本地裁で「裁判官面前証言」を悪用し、証言の撤回を許さないための尋問を受けさせた。叔父と大伯母はFさんが「やってきた。Aを殺してきたと言った」「手にはドスか匕首のようなものを持っていた」などと証言した。この証言がFさん逮捕の根拠とされた。
 ところが二人の証言はその後の検察官調べで「匕首かどうか分からない」「刃物かどうか分からない」と変遷し、九月一三日には大伯母は「FはAを刺したとは言っていない」と変わっている。証拠価値は無くなった。しかし、この二人の証言はFさんを犯人に仕立てる重要証拠として採用されている。
 およそ殺人が争われる否認事件裁判なら弁護士は検察側提出証拠はすべて否認することになる。ところが、国選弁護人は検察官が提出したすべての証拠書類に同意したのである。そして現場検証にも立ち会わず、証人出廷した取調べ警察官に対しても質問をしなかった。文字通りの弁護放棄であり、弁護士会から懲戒処分を受けて、弁護士資格剥奪に値する。被告人が全面否認している殺人事件であるにもかかわらず、たった四回の公判で八カ月後には死刑判決が下りている。一人の殺害事件であれば最高刑でも無期懲役が言い渡されるのが通例であるが、Fさんがハンセン病患者でるが故に、憲法違反の「特別法廷」で法曹三者がぐるになって、無実のFさんを死刑に追い込んだのである。

 ●7 広がる救援運動と死刑執行

 二審から闘う弁護団体制が組まれ、無罪判決に向けた弁護活動が展開されたが、死刑判決は最高裁の上告棄却で一九五七年八月二三日に確定した。全国からFさんを救えという救援運動が文化人や国民救援会、総評などを巻き込んで高揚した。Fさんは盛んに執筆活動を続け、一九六二年一月には雑誌『マドモアゼル』に獄中からの手記も掲載された。Fさんは事件当夜、大伯母と叔父に会った後、徒歩で三里余り離れた菊池市内の叔父の家に泊まっており、他にも従姉妹の家などでかくまってもらっていたことが分かっている。しかしこれまでの裁判では彼らとの約束を守り、一切口に出さなかった。ところが、第三次再審では、叔父と従姉妹の証人尋問を請求した。八月二五日には福岡の支援団体、地元の国民救援会、社会党・共産党代表や総評を中心にした現地調査団がバス一台(三九名)で殺害現場を訪れた。このことはマスコミで大々的に報道され、私が小学五年の頃であったが鮮明に記憶している。さらにその年の秋には大型の調査団が組まれることも決まった。こうして真実が広く国民に知れ渡ることに危機感を募らせたのが法務省と検察庁だった。
 救援運動の広がりを恐れた法務・検察は、第三次再審棄却決定の二日前に法務大臣が死刑執行書類に印鑑を押していたのである。Fさんの口封じのためである。六二年九月一四日午前七時過ぎにFさんを乗せた車は恵楓園を出て、福岡拘置所に向かった。Fさんは福岡高裁で審理が始まると錯覚していたようである。福岡拘置所の担当者が「お別れだね」というと、Fさんは「担当さん転勤されるのですか?」と聞き返している。教戒師との対話もなく、遺書を書くことも出来ず、午後一時過ぎにあわただしく死刑が執行された。後日長女と母親が即日抗告を行ったが、直ぐに却下された。ハンセン病であるが故に、公正な裁判も受けられず、行刑のルールも踏みにじり、慌てふためいた死刑執行=殺人を許すことは出来ない。これに対して直ちに菊池恵楓園では抗議集会が開かれ、全国の療養所でも次々と抗議集会が開かれた。それ以降、恵楓園ではFさんが処刑された九月一四日を「秋桜忌」として毎年追悼行事を続けている。
 現在菊池事件は二〇二〇年二月二六日の熊本地裁判決を受けて、検察官に再審を行うように原告が申し入れたが、最高検が応じなかったため、憲法一六条の請願権に基づく国民の誰もが参加できる「国民的再審請求」を始めている。すでに申し込みは締め切ったが、一一月一三日に再審請求書を熊本地裁に提出予定である。

 ●8 終わりに

 一九世紀末にノルウェーで誕生した近代ハンセン病医学は科学的で患者の人権に配慮したハンセン病対策を確立した。医学の進歩にともなって患者の人権により深く配慮した限定的な隔離に変化して、日本以外の国々ではプロミンやダプソンなどの化学療法が導入された一九五〇年代には隔離が無くなり、六〇年代には「らい予防法」も廃止された。ところが二〇世紀初頭から開始された日本の「絶対隔離絶滅政策」は国や行政だけでは推進が困難で、ハンセン病患者が社会の片隅で生きていけない社会環境を作り出す必要が生まれた。そのために展開されたのが患者収容に全国民を動員する「無らい県運動」であった。戦後も「無らい県運動」は強化され、民衆の恐怖心を煽り、差別意識はますます強まった。どれ程の悲劇が患者と家族を襲ったかを考えれば、その罪深さは重大である。
 これに抗して療養所の患者運動は、孤立しながらも命がけの実力闘争を粘り強く展開し、ついには「らい予防法」の廃止と、同法が憲法違反であるという熊本地裁判決を勝ち取った。更には家族訴訟でも勝訴した。そして、これに連帯した労働組合や政党、学者や医療関係者、弁護士、文化人などが存在した。しかし全国民を巻き込む運動にはならなかったことも事実である。国民に深く浸透したハンセン病への差別意識が厚い壁となってそれを阻んだ。「らい予防法」廃止と熊本地裁判決を契機にハンセン病に関する調査研究がさまざまな分野で進められてきている。今後、私の力の及ぶ限りこうしたハンセン病をめぐる動きを紹介し続けていくことを約束して、この連載を閉じる。




 

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