共産主義者同盟(統一委員会)






■政治主張

■各地の闘争

■海外情報

■声明・論評

■主要論文

■綱領・規約

■ENGLISH

■リンク

 

□ホームへ

  
   労働者の自己統治権力復権のために

     ソ連型計画経済批判

                                        岩山昇

                 



 ソ連スターリン主義体制の崩壊(一九九一年)から三〇年が経過した。当時、アメリカを中心とする世界資本主義体制が勝利したと喧伝されたが、資本主義の延命策として新自由主義政策が強まった結果、貧富の格差、環境破壊が劇的に進行した。そして今、コロナ禍で資本主義の矛盾の一切が世界の労働者人民に押し付けられている。
 ソ連は戦前・戦中を通して、曲がりなりにも「社会主義国家」を自称し、労働者は失業と無縁で、教育、医療、住宅、年金等を無償としてきた。これが戦後の資本主義体制への圧力となり、福祉国家政策を採用せざるを得なくさせた面がある。しかし今や福祉政策は、多くの資本主義国において瀕死の状態である。そうしたなか、いま改めて、崩壊したソ連の計画経済について検証してみたい。

 ●1章 マルクス・エンゲルスの社会主義経済についての基本理念

 ソ連の経済史に入る前に、マルクス主義の古典における社会主義経済論を振り返っておこう。
 マルクス・エンゲルスは、資本主義的生産様式の性格と機能、そこに内在する矛盾について詳細な分析と批判を加えたが、それにとって代わる社会主義経済の構想については多くを語っていない。ただ基本理念として以下のように言及している。
 マルクスは『資本論』で述べている。「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。……この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役立つ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それは彼らのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう」。「労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分け前の尺度として役だつ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である」(『資本論』第一巻)。
 エンゲルスは『反デューリング論』でこう述べている。「今日の生産力をその本性に応じて取り扱うようになれば、社会的な生産の無政府状態に代わって、全社会および各個人の欲望に応じての、生産の計画的な社会的規制が現れてくる」。「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまずはじめには国家的所有に転化する。だが、そうすることで、プロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を揚棄し、そうすることであらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、そうすることでまた国家としての国家をも揚棄する」。
 ボリシェビキは、こうしたマルクス・エンゲルスの基本理念を、革命後にそのまま実践することをその綱領において目指していた。「プロレタリアートの社会革命は、生産手段と流通手段との私的所有を社会的所有に代え、社会の全成員の福祉と全面的発展とを保障するために社会的生産過程の計画的組織化を実施することによって、諸階級への社会への分裂をなくし、こうして、抑圧されている人類全体を解放するであろう」(『レーニン全集』第二四巻「党綱領改正資料」)。
 ソ連の計画経済を考える前に、こうした基本命題について注意すべきことを挙げておくならば、第一に、計画経済を誰が作成するのかについて具体的な言及がない、ということだ。あえて言えばマルクスの言う「自由な人々の結合体」になるだろうし、エンゲルスは「社会的規制」と表現する一方、生産手段の国有化をいうが、その国家は揚棄されるとしている。このように計画の主体が「国家」と明記されていないのは、革命後に国家は確実に死滅に向かうものと想定されていたからだ。
 第二に、高度な計画経済に到達するまでの間、どのような困難があるかについてマルクス、エンゲルスがまったく意識していなかったわけではない。生産力の発達程度が計画の質に決定的な影響を及ぼすであろうと考えていた。『ゴータ綱領批判』では「人々の権利は社会の経済的な形態と、それによって制約される文化の発展よりも高度であることはできない」とある。『ドイツ・イデオロギー』でも「生産諸力の発展なしには、欠乏、窮迫が普遍化されるにすぎず、それゆえ、窮迫に伴って必要物をめぐる抗争も再燃し、古い汚物がことごとく甦らざるを得ないだろう」と指摘している。
 第三に、計画の主体が「社会」「自由な人々の結合体」であるとすれば、それは実際には労働者・生産者それ自体であるというに等しい。みずからの手で高度な生産力を作り出し、運営し、それにふさわしい精神的発達をとげた人間(集団)こそが、みずからの手で最もふさわしい計画を作ると想定されている。マルクスは『フランスの内乱』で次のように述べている。「彼ら自身の解放を完成し、かつそれとともに、現社会がそれ自身の経済力によって否応なしに目指しているところの、あのより高度の形態を完成するには、彼らが長い闘争を、外部状況と人間とを転化する一連の歴史的過程を経なければならないであろうということを知っている」。
 レーニンは以上のマルクス・エンゲルスの基本理念を継承し、革命後の社会建設を目指した。しかしその「社会主義の実験」は、農民が人口の多数を占める「後進国」であり、革命が孤立し、敵対的な資本主義国に包囲されるという悪条件のもとでおこなわなければならなかった(とりわけ日本帝国主義は最後まで反革命干渉をおこなった)。実験というには最悪な実験環境が出発点であったことを踏まえる必要がある。

 ●2章 ソ連経済史の概略

 ここではソ連の経済史を主に計画経済の進展に即してみていく。
 一〇月社会主義革命の勝利後、内戦と戦時共産主義政策、NEP(新経済政策)、そしてレーニンの死を経て、党内闘争に勝利し実権を握ったスターリンは一九三〇年代、農業の全面的な集団化と工業化を強行する。
 一九二〇年代末から一九三〇年代初頭の穀物調達の「非常措置」と農業集団化を進める過程で、共産党は、統治と計画遂行に直接の責任を有する地方機関を備えた組織となった。本来、統治と計画遂行は、ソヴェトに結集した労働者人民が担うべきものであった。それが、党が労働者人民の代わりに国家機関の機能と職務を担うようになり、やがて党と国家が一体化し、労働者人民の上に君臨していった。この代行主義はソ連崩壊まで続くことになる。
 三〇年代半ばには「指令経済」「行政命令システム」あるいは「集権的物量計画システム」として知られるソ連の経済体制の基本部分が成立した。市場経済は全面的に否定され、物資の生産・分配・供給が党=国家の計画にもとづいて行われるようになった。これにより中央で作成される計画が重大な意味を持ち、党と政府機関の支配力が高まった。
 しかしこの中央集権的な指令経済は、工業化の初期において、優先すべき分野と課題に大量の資源と労働力を集中することによって、経済的には多くの成果を上げたのも事実である。二〇年代末から三〇年代後半にかけての第一次、第二次五カ年計画によってソ連は急速な工業発展を遂げ、資本主義諸国を驚愕させた。
 もちろん現在では、農業集団化は農民に多大な犠牲を強いたことが明らかになっている。一九三二年から三四年にかけてウクライナの穀倉地帯で大飢饉が発生し、五〇〇万人とも七〇〇万人とも言われる死者が出たのはその一例だ。工業政策でも、工業そのものの創出と生産財生産に重点を置いたため、消費財生産は質量ともに十分ではなかった。計画は主に物量を規定していたため、量の達成がノルマとして至上命令とされた。
 しかしこうした実態は対外的に秘密にされていた。そのため当時、世界恐慌と失業に喘いでいた資本主義諸国の労働者人民にとってソ連の計画経済が魅力的に見えたのは間違いない。さらにはその後成立した東欧諸国や中国、朝鮮民主主義人民共和国などの「社会主義」国にとって、ソ連の計画経済が唯一の模範となることにもなった。
 その後の大粛清と過酷な独ソ戦を経て、一九五三年にスターリンが死去し、五六年の第二〇回党大会でフルシチョフによるスターリン批判がなされた。これは大粛清などをスターリン個人の誤りとするもので、党官僚による代行主義、その挙句の果ての党書記長独裁という統治体制そのものに根本的な問題があったことを隠していた。そうした大きな限界はあるものの、経済政策においてスターリン時代の過度の中央集権化を是正する試みがあった。
 五カ年計画の開始以来、ソ連の工業は基本的にはモスクワにある国家計画委員会が連邦全体の計画を作成し、工業部門別の省が連邦全域の当該部門企業を管理する「縦割り」体制で運営されていた。一九五七年にフルシチョフは、こうした部門別企業管理の効率の悪さと縦割り官僚主義とを批判し、省を解体するとともに全国各地に数十程度の国民経済会議(ソフナルホーズ)を設立し、部門を問わず当該地域の工業企業の管理を委ねることによって、地域の実情を踏まえた効率的な工業企業管理の実現を訴えた。いわば経済の地方分権化とも言えるが、やがて「地域主義」として批判された。結局、フルシチョフが一九六四年に失墜すると、部門別の省による工業管理体制が復活した。
 一方でフルシチョフは一九五九年の第二一回党大会で七カ年計画の開始を訴え、ソ連の工業総生産高はアメリカ合衆国の約二分の一であり、ソ連の成長率は高いので合衆国に数年のうちに追いつくと宣言した。一九六一年の第二二回党大会では「共産主義建設の二〇カ年計画」と呼ばれる新綱領を採択し、一九八〇年には「全国民にはありあまるほどの物的財貨と文化財が保障されるようになるであろう」、「基本的に共産主義社会が建設されるだろう」と宣言した。
 実際には生産力で「アメリカを追い越す」ことはできなかったが、この時期がソ連の第二の高度経済成長期であったのも事実である。そしてスターリン時代の経済成長と異なり、賃金の引き上げ、年金制度の整備、医療・公益サービスなど人民の生活条件が改善された。
 一九六〇年代半ば以後、企業の福利厚生施設(保育所、幼稚園、食堂、療養所など)の整備が進み、企業において日常的に食料品や日用消費財の分配や販売もなされるようになった。七〇年代半ばには、安定した雇用と社会保障、そして福利厚生が整備された(ただし、供給不足で入手できないものが多かった。例えば自動車は数年、アパートなら十数年も順番を待たなければならなかったと言われる)。
 だが、八〇年代には技術革新において資本主義国に遅れをとっていることが明らかとなった。計画経済が、生産力の発展において資本主義に優位性を持つという「神話」が崩れた。確かに、曲がりなりにも「平等」を重視する社会主義体制であったため、労働者人民の生活水準全般が底上げされ、七〇年代までに貧困層は消滅した。しかしそうした「平等と安定」が成立したからこそ、質が良く、「多様な商品があふれている」先進資本主義国に、ソ連の多くの人民が惹かれていくことになった。ソ連の計画経済は、人民のこうした需要に応えることはできなかった。
 一九八五年にゴルバチョフが書記長に就任すると、国有企業の計画化・管理方式の抜本的見直しにとりかかった。その方向性は、(1)企業計画作成の主体を国家から企業に代える、(2)企業に経営責任を負わせる、(3)労働者による企業の自主管理の三点に集約される。だが改革の半ばで、生産は減退し、流通は混乱し、労働者人民の生活は急速に悪化した。この混乱の中で一九九一年、ソ連は解体、消滅した。

 ●3章 計画経済の実際と露呈した問題点

 計画経済が確立して以後のソ連では、国家計画委員会を中心に連邦政府が計画を作成し、二〇~三〇程度ある工業部門別の省がこの計画を執行した。個々の省には、企業を管轄する管理局が置かれ、その下に、生産に従事する企業が複数あるというピラミッド型をなすのが一般的だった。
 この計画の理論的基礎として選ばれたのは、マルクスが『資本論』第二巻で展開した再生産表式である。それは社会的総生産を第一部門(生産手段生産部門)と第二部門(消費財生産部門)に分類し、それぞれの生産物価値を三つ、すなわちc(不変資本価値の移転部分)、v(可変資本価値=賃金支払い部分)およびm(剰余価値)に分割して、それぞれの構成部分が商品・資本として流通し、交換されることを通じて、無政府的商品生産においても社会的総生産物が各部分の数量的均衡を維持しうる根拠を示したものだ。これにより生産の現況と、ありうべき未来構造を数量的に明示しようとした。
 しかし複雑かつ多岐にわたる社会的総生産の見取り図を作るにはあまりに抽象的であったので、実際の計画作成のために、再生産表式と区別して「国民経済バランス表」が作成された。これは総生産の二分類に代わって生産部門別(工業、鉱業、農業、建設、運輸、商業その他)分類が取り入れられ、さらにそれらが細分化される。また、生産の「社会的形態」すなわち、国有経済か、協同組合形態か、私営経済か、の分類が持ち込まれる。これらすべての各部分がどれだけ生産され、どこでどれだけ消費されるかを一覧する表が作成された。
 スターリンは、国民経済バランス表にもとづくこの計画の正確な実現を法律的に義務付け、官僚的な上からの「指令」にした。この「指令性」が計画経済の第一の特徴となった。どんな無謀な計画であろうと、計画の未達成は違法行為となった。計画の実行にあたる経営者ばかりでなく、一般の労働者までも計画未達成のかどで罰せられる。これに対し計画の作成者が罰せられることはほとんどない。
 第二の特徴は、計画課題の受け取り手があらかじめ明確に決められているという「アドレス性」だ。例えば、機械製作工業総生産高目標を受け取って、その達成に責任を負うのは機械製作工業省であり、個々の傘下企業は企業ごとに細分化されたあれこれの機械の生産台数目標を与えられ、それを達成しなければならない。
 第三の特徴は、計画の「全面性」だ。計画の対象は全部門・全領域に及ぶだけでなく、文字通りすべての生産品目に及んだ。チョッキのボタンや「塩漬けのキュウリ」といったようなごく些細な品目に至るまで、すべての生産計画を国家が独占した。その価格は国家が決定した。市場経済の全面的な排除である。
 以上のように計画の決定はきわめて中央集権的だったが、その準備段階にはきわめて多くの機関がかかわっていた。もっとも基礎的な段階では部門別の各経済関係省(第二次大戦までは人民委員部)、財政機関、統計機関が素案を作成し、これを国家計画化委員会(ゴスプラン)が集計・調整のうえ、政府(一九四六年まで人民委員会会議)に提出され、政府がさまざまな政策的判断を下して政府案を作成し、最後に、議会(全連邦ソヴェト議会)が承認して法律となる。
 こうした形式的過程に並行して党機関の審議・承認がおこなわれたのだが、これが社会のあらゆる面での党の指導的性格を保障することになった。あれこれの審議・決定段階に党の諸機関が介入し、調整や最終判断を下すことが常態化した。党中央委員会政治局に高い権限が与えられた。
 企業や地域の労働者、住民組織が介入したり影響力を持つことはほぼなかった。
 しかし一方で、ソ連の計画経済を単純なピラミッド体系の中央集権主義と規定することはできない。実際には、政府機関内部の意見の相違や利害対立が激しく、決着をみるまで妥協と調整がはかられてきたことが明らかになっている。これは「集権的多元主義」と呼ばれている。
 ソ連にかぎらず、あらゆる国の官僚組織にみられる縄張り主義の弊害が発生し、加えて省庁間の「駆け引き」が繰り返された。上部機関と下部機関の間でも、例えば計画の「指令性」によって目標達成の課題を義務付けられた企業は、高い目標を与えられることをなるべく避けるために、自己の生産能力を上部に過少申告した。上部は企業のこの対応を予知してあらかじめ高い目標を下した。こうした「騙しあい」の結果、莫大な経済的浪費が生じたのである。
 計画においては、価値量ではなく現物表示が優先された。その主な理由は、計画経済はあくまで使用価値の生産と分配を目的とするものであり、価値・価格表示は単に計算上・比較上の道具に過ぎないとの観点が長く支配していたからだ。価格が市場における競争を通じて決定されるのは資本主義の場合であり、社会主義になれば無政府的競争がなくなるとともに価格も国家が計画的に決定するのが当然とする考え方があった。
 したがって、計画の達成、未達成を検証する尺度はあくまで現物表示の生産量(または作業量)とされた。これは「総生産高主義」と呼ばれている。そしてここからさまざまな欠陥が生まれた。資源や労働力の浪費、品質の劣悪さである。また、資材の中央配分方式は、機械・設備はもちろん原材料やエネルギーまで中央機関が配給した。企業は他企業から自由にそれらを購入できなかった。そのため企業は、自衛的措置として予め多くの資材を注文すると同時に、配給された資材を企業内に備蓄した。これは資材の効率的運用を妨げ、資材の恒常的不足を招いた。
 喧伝されたように「失業のない社会」は実現したものの、労働生産性の低下が進行した。先に見たような資材の恒常的不足により、企業は安定した生産活動をおこなうことができず、短期間に突貫工事で製品を生産して納期に間に合わせることが常態化した。そのため企業はこの突貫工事を可能とする労働力を常に確保しておく必要があった。こうした通常の生産活動には必要のない余剰労働力を抱えていることは、労働生産性を低くし、労働規律の弛緩を招くこととなった。これは、労働者(労働組合)の生産における自発性が解体された結果でもある。

 ●4章 党官僚ではなく労働者による計画経済を

 以上、ソ連の計画経済に関する経緯と理念と問題点について大雑把に見てきた。ソ連崩壊後、喧伝されたように「計画経済は失敗だった」と総括されたが、確かに国家(党官僚)が生産と分配のほとんどすべてを計画したために、労働力や資源の浪費を生み出し、資本主義国との生産力競争において敗北したのはその通りだ。
 しかしそもそも社会主義とは、労働者を賃金奴隷に落とし込める資本主義的生産様式の廃止を通じて労働者を解放し、帝国主義戦争と階級抑圧をもたらす国家を揚棄することが目的なのである。ソ連のように国家権力の肥大化と、生産力主義の党官僚による奴隷制とも言うべき社会は、社会主義の目的から考えるとまったく逆行すると言える。
 無政府的な利潤追求運動である資本主義に対抗して、労働者の解放と国家の揚棄を目指す社会主義が、生産力の発展を競い合うこと自体に無理があった。ただ、ソ連の場合、革命の孤立と資本主義の包囲のもとで、急速な工業化が避けれられない面があった。しかし、それがすでに十分達成されている現代資本主義国にあっては、生産力主義はなおさら不要なものだ。
 しかも今、世界は人類の存続すら脅かす気候危機に直面している。資源収奪を促す「集権的物量計画システム」というソ連型の計画経済は、現代革命後の社会において採用されるべきものではない。
 また計画経済の運営システム、つまりスターリンが定式化した党官僚による上からの指令経済は、すでに明らかにした点で非効率であったばかりか、現場の生産者たる労働者や、地域住民の創意や自発性を無視していた。ソヴェト民主主義の発展から国家を揚棄していく発想が党官僚にそもそもなく、みずからの特権を守るために、指令経済を固定化した。いくつかの「改革」はあったものの党官僚によって押しつぶされた。
 しかしそれでは、ソ連の計画経済という実験に今、見るべきものはないのか?
 曲がりなりにもすべての勤労人民に教育、医療、住宅、年金等を社会全体の力で保障するとしたソ連だが、圧倒的に生産力を向上させたはずの資本主義国ではそれらは基本的に「自助努力」「自己責任」とされ、まったく保障されないか、税金という形で労働者から収奪される。また気候危機についても、大量生産・大量消費を促し続ける資本主義の本性からして、その根本的な解決は不可能である。
 したがって、生産手段の私的所有を廃絶し、その社会化によって経済をコントロールすることがどうしても必要なのである。それはソ連の計画経済の誤りを踏まえて、党官僚ではなく、パリ・コミューンやソヴェトに見られる労働者による自己統治権力が、その権力にふさわしい仕方で経済運営をおこなうことになるだろう。また労働者の自発性を引き出しつつ、自然環境との調和と資源の計画的(規制的)生産・消費を目指すならば、国家規模ではなく、より小さな地方レベルでの計画経済が必要となってくるだろう。
 また社会主義に向かう過渡期において、通信技術やAI(人工知能)の発達は、ソ連型計画経済では困難だった生産物の需要と供給の均衡について、有用性があるかもしれない。しかし、こうした技術や生産手段が一握りの資本家、または党官僚に握られているときは、現にそうであるように、労働者民衆に対する管理・抑圧と搾取の道具となる。
 いずれにせよ、官僚支配に陥らないためには、労働者民衆自身がさまざまなレベルで経済運営に参加し、自己統治する能力を革命前から身に付ける必要がある。労働組合や協同組合、非政府組織、住民団体などによる様々な日々の実践は、革命後の社会に連なっている。
 最後にレーニンの言葉を引用しよう。「われわれにとって重要なことは、勤労者の全員を一人残らず国家の統治に引き入れることである。これは、はなはだ困難な任務である。しかし、社会主義を少数者の手で、党の手で導入することはできない。社会主義を導入することは、幾千万人が自分でそうすることを学びとった時に、彼らだけが為し得ることである」(『レーニン全集』第二七巻「ロシア共産党(ボ)第七回大会」)。


 

 



Copyright (C) 2006, Japan Communist League, All Rights Reserved.