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■『戦旗』1677号(4月20日)2面 石川一雄さんの逝去を悼む 狭山闘争勝利まで闘い抜く 全国狭山闘争連絡会議 三月一一日、狭山事件の無実を訴えてきた石川一雄さんが逝去されました。八六歳だった。あまりにも突然の訃報に、心からの哀悼の意を表します。石川さんが生きている間に「見えない手錠」をはずすことができなかったことを、私たちは悔やんでも悔やみきれない気持ちです。 一九六三年五月、埼玉県狭山市で女子高校生が殺害された「狭山事件」で警察権力は、犯人を取り逃がすという大失態を演じました。その失態を挽回するために警察権力は、被差別部落出身の石川一雄さんを「犯人」にでっち上げたのです。別件で逮捕された石川さんは否認し続けましたが、「アメとムチ」の厳しい取り調べの中で嘘の自白を強要され、一審は死刑判決。二審では全面的に否認し、「部落差別による冤罪」を訴えましたが、無期懲役となり、一九七七年に最高裁で刑が確定しました。直後に再審請求を開始し、一九九四年に仮釈放となり、二〇〇六年に申し立てた第三次再審請求中でありました。 石川さんは、「誘拐殺人事件の犯人」という汚名を着せられ、以来六二年にもわたって不屈の精神で闘い続けてきました。三二年間は刑務所の中から無実を訴え続けてきたのです。 狭山事件は、被差別部落への差別と偏見でつくられた冤罪事件です。狭山再審闘争は、石川さんの冤罪を晴らし、部落差別をなくすために、全国の部落大衆、労働者人民が石川さんと共に闘ってきました。 第三次再審請求の闘いが山場を迎え、「袴田事件」の袴田巌さんの再審無罪判決の勝利から、「次は狭山だ」を合言葉に、石川さんを先頭に全国各地で、再審の扉をひらくための街頭署名、ハガキ署名を取り組んでいた中での訃報であり、非常に残念です。 三者協議において、検察は一貫して再審開始を阻む姿勢でした。石川一雄さんが生きている間に「見えない手錠」をはずさせなかったことを徹底弾劾します。 石川さんは、昨年の11・1狭山市民集会において、「冤罪をはらすまでは、死ねません」と不撓不屈の決意を語っていました。年末に体調を崩して療養中にあっても、回復して五月の狭山集会に決起する意気込みを語っていました。 私たち全国狭山闘争連絡会議は、石川一雄さんの闘魂と遺志を引き継ぎ、闘いに決起します。事実調べ・鑑定人尋問の実施から、狭山再審闘争の勝利をなんとしてもかちとる決意です。 |
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